ごめんなさいの巻

綺麗な月を見ていて、あっ、と思い出しました

マイクさん

月命日には必ずアップしますなどと、大見得を切ったくせに、3月9日のアップを失念していました。
ごめんなさい。でもね、マイクさんのことを忘れていたわけではないのです。新聞の連載や、いろんなコラムを書くときに、必ずと言っていいほどマイクさんならどう思うだろう、どう言うだろうと考えるのですよ。

南日本新聞「『生きる』宣言」3月23日朝刊掲載

でもね、ちょっとばかし忙しすぎました。なので、書いたつもり、アップしたつもりになっていたのですね。ごめんなさい。
ちょうど月命日の頃に締め切りを迎える新聞連載〈「生きる」宣言〉では、ALS・難病をテーマに書いていて、マイクさんの話題も必ず登場します。3月もそうでした。なのでついつい書いたような気になっていたのです。

紙焼きに汗を流し

またその頃に、京都と鹿児島2カ所でほぼ同時期に違ったテーマでの写真展開催が決まり、バタバタにが吹き荒れる真っ只中に突っ込んでしまったのです。単細胞の僕は、一度にいくつものことをこなすのがとても苦手で、右往左往でんぐり返し状態の中で、ヘロヘロで仕事を続けています。
実際にその光景を見たら、「よくもまあ……」と苦笑いされることでしょう。

展示計画に頭をひねる

マイクさん

そんなわけで、今回はごめんなさいの巻になりました。
来月は必ず!

僕の悩み

どんな思いでマイクさんは生前葬に臨んだのだろう ENJOY DEATH(2019.6.29)

マイクさん、僕はちょっと悩んでいます。

最近のことです。多発性硬化症の患者さんとその家族と知り合いました。この病気はALSのように確実に死に至るという病気ではありませんが、手足のしびれやめまいが現れては消え、そのうちにものが飲み込みにくくなったり、しゃべりにくくなったりするそうです。手の突っ張りや痙攣も現れる人もいると。治療により寛解するけど完治は難しく、稀ではあるけれど寝たきりになる人もいるそうです。知り合った患者Aさんは、その稀な例で、70歳で発症し8年をかけて再発・寛解を繰り返し、その度に緩やかに進行し、最近はベッドの上で過ごすことが多くなったようです。ご家族の言葉を借りると「ほぼ寝たきり」だそうです。もちろん日常生活に介護・介助は欠かせません。

会って欲しいと請われ出かけたのです。
「父の早く死にたいという思いを聞いて欲しい」と。覚えていますか、マイクさん。あなたもALSの診断がついた直後、口を開けば「生きていても意味がない」「死にたい」「安楽自死を」「尊厳自死を」をなどと口走り、家族や支援しようとする仲間をずいぶん困らせましたね。その本心を聞きに出かけたのがマイクさんと僕の出会いでした。そのことを思い出しながらAさんに会いに出かけたのです。

予想していましたが、デジャヴかと思いましたよ(笑) Aさんは、まるであの時のマイクさんのように「生きていても意味がない」「死にたい」と繰り返しました。ただマイクさんと違ったのは、まだ具体的な自死の仕方を考えていなかったことくらいです。「体の自由も効かなくなったので、自力で命を絶つこともできない。情けない」という言葉も、マイクさんのものでした。
その理由を問うと、
「もう死ぬのを待つだけ。介護してくれる家族のお荷物。迷惑をかけるだけ。治療の甲斐もないし、高い医療費だけがかかる。社会のお荷物、迷惑でもある。消えてなくなればすべて解決できるし。私も苦痛から解放される」
と自嘲気味な笑みを浮かべながら消え入りそうな声で答えてくれました。家族のひとりは言いました。
「家族は誰も迷惑だなんて思っていませんよ。だって家族じゃないですか。どんな姿になっても生きていて欲しいと思いますよ」
別の家族も言いました。
「迷惑だなんてとんでもない。誰ひとり介護を厭う家族なんていない。だけど本人が死にたい死にたいと口走るのには心が折れそうになるし、力が失せてしまいます」
ほらこれもマイクさんの時と同じだ(笑)

ということは、と思いました。難病患者の誰もがこういう思いを持って生きているのだと。この国のような医療先進国、社会福祉先進国と言われる社会に生きていても「介護してくれる家族のお荷物。迷惑をかけるだけ。治療の甲斐もないし、高い医療費だけがかかる。社会のお荷物、迷惑でもある。消えてなくなればすべて解決できるし。私も苦痛から解放される」などと思わざるを得ないだと。難病患者だけではなく高齢者もこんなふうに思っているのかもしれませんね。僕らがつくり続けてきた、積み上げてきた社会、制度、暮らしってこんなもんだったんだと。こんなに夢も希望もないものだったんだと。とても残念な気分になりました。同時にマイクさんや、同じように難病で命を落とした大勢の人に、僕ら第三者、つまり社会はなんて冷たかったんだろうと思いました。

今もし、マイクさんがAさんのこの言葉を聞いたらなんと答えるだろうと、ちょっと意地悪なことを考えてしまいました。そして今なら「安楽自死を」「尊厳自死を」と言い続けたマイクさんの本心をちゃんと探ることができるのではないかとも思いました。どうも僕はマイクさんと向き合っている時、第三者の目を、立場を忘れ、ほぼ当事者として喜怒哀楽の虜になり冷静さに欠けていたように思います。そこが今の僕の悩みです。

マイクさん
僕はマイクさん同様、Aさんとも付き合い続けたいと考えています。もちろん僕の悩みとも向き合いながら。そのことでマイクさんとの対話をもう少し続けていきたいとも思っています。

大切なものを伝えるために

生前葬ENJOY DEATHのマイクさん 2019.6.29

マイクさん

新年を迎えると、ああ時間の経つのは速いなあとつくづく思います。
一休禅師に、

正月は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし

という歌があります。めでたい正月も自分の寿命、死に向かってまた一里(1年)進んだと思うと、そう喜んではいられないというくらいの意味でしょうか。人間は誰もが死に向かって、それでも前向きに自分の〈生〉を生きているということですね。死にゆく自分とそれでも生きてゆく自分の間を揺れ動きながら。

僕はあなたとの1年半の交誼の中で、人が生きて死ぬ意味を、それでも生きていく意味を嫌というほど考えました。こう書くとなんだか陰気で暗い毎日を送っていたように見えますが、とんでもない、まったくその逆で、どうせ死ぬんだったらマイクさんのように〈死にゆく過程〉を楽しんじゃえと思いながら日々過ごしてきました。まさに〈ENJOY DEATH〉ですよ。

「どういう意味だ!? 死を楽しむって」とは、この〈往復書簡〉をはじめて以来多くの人に言われ続けてきたことでした。こんなこと、ちょっと考えてみればすぐにわかることですよ。死を楽しむなんてできないです。できることは死に至る日々をしっかり楽しむということ。つまり毎日毎日、その1日を精一杯生きる、楽しむということなんです。最期の瞬間までね。だから僕は今日もこの瞬間を楽しんでいます。

「思い出さえあったらいつでも会える」
これは母清水千鶴の口癖です。両親、兄弟、多くの知人友人を見送り90歳を過ぎ、そうして92歳で最愛の夫を見送りました。94歳で可愛くて仕方のなかった孫、曽孫と別れ、住み慣れた京都から鹿児島に移り住みました。さみしくないかと問うと、
「出会うことがあったら必ず別れはある。けど、思い出さえあったらいつでも会える」と笑って答えました。「心の中でみんな生きてる。みんな笑うてる。そやし大丈夫や」と。
こんなことも言っていました。
「死というのは、健全な肉体が地球からぽとりと落ちて宇宙に還ること。人の命は宇宙の一部。そやしうちが死んでも、みんなの中で生き続けるんや。いつも一緒や。みんなそうなんやで」
97歳の母は、そう言いながら毎日を精一杯楽しみながら生きています。〈ENJOY DEATH〉そのものなのです。

マイクさん
あなたと会えなくなったことはさみしいけど、思い出の中をのぞいてみれば、あなたの姿、あなたの言葉がはっきり浮かび上がります。あなたはいつも僕の隣にいるのです。生き方に迷った時はあなたと一緒に過ごした最後の1週間を思い浮かべます。父と過ごした最後の1週間を思い浮かべます。よみがえる思い出の一つひとつが僕の背中を押し、一歩前へ踏み出す力となるのです。
母の言葉を借りれば、父もマイクさんも僕の中に生き続けているのです。僕にはまだそれが何なのかはっきりとはわかりませんが、何かとても大切なものを伝えるために。それをしっかり受け継ぎたいと思っています。

不滅の存在

生き続けるための工夫をしていた頃

マイクさん

僕は今真っ青な京都の冬空を見上げながらこの文章を書いています。この空を見ていると、あなたがそこここで笑っているような、不思議な気分になってきます。いえ、事実あなたはこの世界から消えてなくなったわけではないと強く感じることがしばしばあります。今日はそんな話をしたいと思います。

マイクさんとのこの往復書簡を切り口にはじめた南日本新聞の〈「生きる」宣言〉が、先月で36回目を数えました。3年です。あなたが旅立ってから16回も続いたことになりますし、僕はまだまだ続ける予定でいます(新聞社がどういうかはわかりませんが……)。
覚えていますか。マイクさんがALSだと診断された直後「死にたい」とこぼす度に、「ギリギリまで生きて社会と関わり続けましょう。生きた痕跡を刻み込みましょう」と僕が言い続けたことを。連載を続けてきて、あなたが社会と関わり続けてきた痕跡を、今強く感じています。

36回目には97歳の母親を看取った男性の話が登場します。彼は医者から食が細り衰弱した母親に胃ろうの造設を勧められました。そのとき彼は思い悩んだのです。97歳という高齢で簡単だとはいえ手術を受けさせるか否かの選択を。医者はこのまま食事が摂れないと、栄養剤の補給だけでは数週間で命の危機を迎えると断言したそうです。胃ろうの造設はまさに延命を意味したのです。

彼は〈「生きる」宣言〉の熱心な読者でした。彼はマイクさんが人工呼吸器を着けるか否かを家族と一緒に悩んだことを思い出します。大切なのは本人の意思だと。97歳の母親が自分自身の人生を、自身の生を命をどう思うか。そのことを大切にしようと決めたのです。彼は僕にこう言いました。
「〈「生きる」宣言〉や〈往復書簡〉を読んだことが私の支えになったように思います。マイクさんがご自身の苦悩をご家族と一緒に乗り越える姿は、死に向かってる生きることの大切さを教えてもらったように思います。母の最期を看取るため、あるいは私自身が自分の命と向き合うための指針になった、参考書といったら変だけど、そんな感じです」と。

マイクさん
ね。あなたの生き方死に方ひとつひとつが痕跡としてある人の人生に関わったのです。そんな人はたくさんいるんじゃないかと思います。そういう人たちが存在する限り、あたはこの世界に存在し続けるのです。そうしてそういう人たちがまた、あなたの生き方死に方ひとつひとつ、生きて死んだ痕跡を次の人たちに伝えていくのです。
僕は思います。あなたは死んで不滅の存在になったのだと。そうして、こうやって続けてきていることを、これからも淡々と続けていこうと。

2021年11月24日付 南日本新聞より

僕の自転車スローライフ

自転車で颯爽と町を行くマイクさん/撮影・金久まひるさん

マイクさん

10月は往復書簡とばしてしまいました。なにせ10月2日から11月28日まで、京都市内で連続4カ所、写真展をやることになって(実際今その最中なのですが)、とんでもなく忙しい日々を過ごしていたのです。気がつけば11月、そんな感じでした。
新型コロナウイルスの感染拡大で自由に動くことができず、お酒を飲みに出かけることはもちろんですが、仕事すらまともにできない状況でした。ですからほぼ1年半ぶりに動けるぞ!という状況に変わって、ついつい舞い上がってしまったという感じです。

会期中なるべく京都にいて、それぞれの会場に詰めようということで、長く京都にいてあちこち駆けずり回っています。交通費もバカにならないので売れない作家、写真家としてはちょっと困ったなと思っていたのですが、マイクさんが生前自転車であちこち走り回っていたことを思い出したのです。そうだ!自転車だ! しかも中古なら1万円弱で買えるぞ! ということで、まちの自転車屋さんで程度のいい中古車をゲットしました。

自転車に乗って帰る道、いつもはバスやタクシーの中から眺めている光景が随分違って見えました。まちってけっこうゆっくり動いてるんですね。車のスピードに身を委ねていたときは、なんだか気忙しく動かされていたんだなあと。しかも自転車のスピードは自分でつくり出したものですから、これが自分のペースなんだなと、なんだかホッとしました。そうしてマイクさんもこんな風景を、そんなことを思いながら走っていたのかもしれないなと、少し近づけたようでうれしくなりました。いいぞ!自転車!って。

ところがです。悲しい事実に直面しました。マイクさんは僕が大腸がんの後前立腺がんを患ったことをご存知でしたよね。大腸の縫合部と前立腺が癒着していて外科的な処置ができなかったことも。結局は放射線治療でうまくいったのですが、厳然として前立腺は存在しているわけです。ただでさえ排尿に様々な障害を抱えていることも事実です。頻尿だったり、間に合わなかったり……。で、自転車のサドルって、前立腺にもろ悪いんですね。

乗りはじめて数日後、軽快に自転車を漕いでいたら、両足に温かいものがつたい下りてきました。なんの感覚もなく失禁してしまったのです。慌てて主治医に電話で聞いてみたところ、サドルがいけないねという答えでした。「自転車はオススメできませんね」と。僕の自転車スローライフは数日で終わってしまったのです。で、1万円ほど損した!と落ち込んでいて、あっ、と思い出しました。

マイクさんがサドルの前後を逆さまにして乗っていたことを。これなら前立腺に与える影響は小さいのだと。これだ!僕は思いました。試しにサドルを逆さまにして乗ってみました。するとこれが腰掛けて乗っているようで按配がいいのです。しかもいろいろ調べてみると、前立腺を保護する用のサドルもあったりして、僕の自転車スローライフも安心して続けられそうです。

マイクさん
今更ながら思いました。マイクさんの研究者としての姿勢は、日常のあらゆる部分に目を向けるというところからはじまっていたのですね。そしてそれを自分で実践することで一つひとつ検証していくという。
僕は自分のテーマとして〈現実的に生きている人間の暮らしの事実に迫る〉ということを大切にしています。そんな僕にとってマイクさんの思い出の一つひとつが教えになっていると実感しています。

第二の人生

マイクさんの生前葬「エンジョイ・デス」で写真を撮るまひるさん

マイクさん

8月はあなたの1周忌を営みましたが、父の7回忌もありました。法要を終えて97歳の母がポツリと言いました。
「あと何年お父ちゃんの法要をしてあげられるやろう。次は13回忌かいな。あと6年やね。うちには無理やね」と。
母はよく言います。そんなことにこだわらなくていいと。節目の法要は、日々忙しい人が故人を偲び思い出に浸るためにあるのだからと。
「うちは毎日お父ちゃんのこと思ってるし、毎日が法要やね」丸6年で普通は7回忌ですが、母の場合は父が亡くなって2189日経つわけですから、2189回忌ということになります。そんなことを言って親子で笑いあっています。
「こんな話をしてる間は、お父ちゃんまだここに生きたはるわ」母はそう言って自分の胸のあたりを指差します。父は母にこんなにまで思われてもちろん幸せだし、母もここまで思いに浸れて幸せなんだろうなと思います。ふたりで生きていた頃が、少しも過去になっていない。そんなふうに思います。

マイクさんだってそうですよ。
1回忌をはさんで、マイクさんのことでご家族とやりとりをすることがあったことは前回報告した通りです。あれからひと月経って、お孫さんのまひるさんからメールをもらいました。彼女には2年間新聞の連載コラム〈「生きる」宣言〉の写真を撮ってもらいました。そのことでのお礼ということでメールをもらったのですが、そこにマイクさんの写真を撮り続けていた毎日の思いや葛藤を吐露した手記が添えられていました。
マイクさんの写真は、僕ではなく家族にしか撮れないと考え彼女にお願いしたのですが、手記の中で彼女も「祖父を撮れるのは、家族である自分しかいないのだと思い、シャッターを切り続けた」と記しています。その背景に、死にゆくマイクさんをファインダーを通して見続けることの辛さ、苦しさにさいなまれている彼女自身の姿が浮かびます。僕はとても残酷なことを依頼したのだなと、読み進みながら胸が痛くなりました。
でもまひるさんはこう気づきます。
「ファインダー越しに、この期間、私は祖父と2人だけの対話をしていたのだ」と。そうして病状が進むにつれ表情までなくしていくマイクさんを目の前にして、必死に内面に迫ろうとカメラを向け、苦しみながらもがきながら泣きながら、彼女は毎月写真を送り続けてくれました。マイクさんの命の灯が消え入りそうな、その瞬間にも
「ありがとうと大好きが少しでも伝わるように、私は最後まで写真を撮り続けるのだろう。あと少しでも多くの時間を(祖父と一緒に)過ごせることを祈って」と。
そしてその想いの一部始終をいま伝えてくれたのです。

1年という時間が伝えることを可能にしたのかもしれませんね。まひるさんの中で、時間が経つことによってマイクさんの存在がよりはっきりした輪郭を伴って浮かび上がってきたのだろうなと思います。それは単なる思い出ではなく、一緒に時を過ごした、死に直面する場面を共有した、堅い絆で繋がれた家族としての思いなのでしょう。マイクさんは亡くなってしまったけど、ご家族の中では生き続けているし、新たに生きはじめたと言ってもいいかもしれません。

「あんたはお父ちゃんと上手いこといってへんかったさかい、お父ちゃんのことなんかすぐに忘れてしまうのとちゃうかて思てたけど、そんなことなかったんやなあ。よかったわ」
7回忌の法要の後、母にこう言われました。確かに折り合いが悪く喧嘩ばかりしていた父子でした。でも父の死を経て、それまで父のことを何も知らなかった自分に気づきました。今は少しでも知ろうと父の残した仕事、写真、手帳などを機会あるごとに見るようになりました。僕の中でも父が生きはじめたのかもしれません。そんな話を母にしたら、
「お父ちゃん、第二の人生やな」
と声をあげてうれしそうに笑いました。

僕らに残してくれたもの

2019年6月29日 生前葬「えんじょいデス」フィナーレ

マイクさん

あなたが旅立った8月がめぐってきました。ちょうど1年になりましたね。
マイクさんと過ごした1年半はなんだったのか。僕はこの1年、ずっとそんなことを考えてきました。ギリギリまで諦めることなく、この往復書簡を通じて、あるいは僕を媒体にして、社会と関わり続けてほしい。生き抜いてほしいと思いながらの1年半だったなあと思います。あなたはそんな僕の思いを受け取って、最後まで思いを発信し続けてくれました。それは僕に、往復書簡をやった意味・意義はそこにあると思わせてくれました。僕にとってはもちろん、あなたにとっても貴重な時間になったはずだとも。その時間はあなたの生きる力を引き出すという意味でも貴重だったと。

だけど、ほんとうにそうなのだろうか……。最近そんなふうに思うようになりました。確かにあなたの生きる力を引き出していたかもしれないけれど、それ以上に僕の力を引き出してくれたのではないかと。マイクさんにとってより、僕にとって貴重な時間だったのかもしれないなと思うようになりました。
僕は、マイクさんと一緒に「生きる」「死ぬ」について深く考え、やり取りすることで、それまで以上に自分自身に生きる意味、死ぬ意味を問いかけ続けてきたように思います。あなたに「最後まで思い切り生きましょうよ」とかけた言葉は、実は自分自身にかけ続けてきた言葉なのだと。極端に言うと、マイクさんは僕自身だったのではないかと思ってさえいます。

ジグソーパズルと言えばわかりやすいかな。マイクさんの思いと僕の思いを集めてはめ込んで、人が生きて死ぬという、人生とはどういうことかを1枚の絵にしよう。ジグソーパズルを完成させよう。1年半の往復書簡はそんなことだったのかなあと。あなたの思いだけでも、僕の思いだけでも完結しない、より深く鮮やかな1枚の絵を描きあげようとしたのかもしれません。多くの人に公開することで、多くの人の思いを合わせることも含めてです。
残念ながらマイクさんを喪ったことで、僕の絵の具は少々数が少なくなりました。だけど僕は、これからもジグソーパズルのピースを探し続けたいと思っています。あなたの思いも受け継ぎ、ジグソーパズルの完成を目指したいと思っています。

マイクさんの1年忌が執り行われた時の話を聞きました。ご家族にはようやく日常が戻りつつあるようです。いろんな思い出話で盛り上がったと雅子さんは振り返っていました。
「そう言えば、大根おろしスリスリおろすのはお父さんの役だったね」
「ウナギの半助(頭)ばかり食べてたね」
「仏さんの花を買いに行くのもお父さんの仕事やったね」
「生協で買い物するのも」
そんな話の果てに、
「まだまだ身近なんだね」
という話になったんだと。

身近にいた人がいなくなった日常に慣れてきたけど、大切なピースがひとつ欠けてしまった。
僕はそんな思いがしてなりません。きっとみんな無意識のうちにそれを探すんだけど、それはもう思い出の中でしか見つからない。
ちょっとさみしいなと思いましたが、そのさみしさがあるかぎり、マイクさんは僕らの中に生き続けているのだとも思います。それこそが、マイクさんが僕らに残してくれたピースなんでしょうね。きっとみんなそれを探し続けるんでしょうね。

マイクさん
ジグソーパズル完成を目指してピースを探す旅は、きっと僕自身を見つけるための旅になるはずです。どうぞ見守っていてください。あらためてよろしくお願いします!

自分の非力を忘れない

決断のOKマーク 2020年7月23日

マイクさん

7月に入りました。去年のことを思い出します。
去年の今時分、あなたは非常に厳しい状況にありました。肉体的にはもちろんですが、精神的により苦しかったのではないかと思います。
6月末から7月はじめにかけて、あなたとあなたのご家族は、改めて重大な決断をしました。自発呼吸ができなくなっても、呼吸器を着けないという決断です。大変厳しい決断だったと思います。ですが、主治医から最終確認をされた時、胸元でOKマークをつくって見せたあなたの表情の清々しさを、僕は決して忘れません。

ALSとの診断がついた頃からマイクさんを見続けてきましたが、僕がいちばん驚いたのはあなたがいつもとても冷静だったことです。ややもすれば他人事のように自己分析をして見せたり、ALSについて持論を語ったり、この人はほんとうに命の時間を限られた人なんだろうか。もし僕自身が同じ境遇に置かれたらどうなるだろうかなどと、ずいぶんいろんなことを考えさせてもらいました。そんなことをあなたに話すと「研究者、科学者ですから」と軽く笑われたことを覚えています。

その果てのあの決断です。
あなたの支援者を自認する人たちの中からは、当然のことですが、呼吸器を着けてでも
生き続けてほしいという声が上がりました。僕も、1日でも長く生きてほしいとは思いましたが、それはすべてマイクさんとご家族が十分話し合った上で決めることだとも思っていました。
主治医を中心にして病院も何度となく意志の確認をしました。おそらくギリギリまで心の揺れも含めて考える時間、心の変化に対応する余地を残したのだろうと思います。すべてがマイクさんの決断を最優先するという配慮のあらわれでした。それでもあなたの決心、決断が揺らぐことはありませんでした。

マイクさんの決断に対してある人は「生きることの放棄だ」と言いました。「呼吸器を着ければまだまだ生きられるのに」と。それはあなたが自死を選んだとも思わせるような主張でした。しかし、僕は思います。マイクさん、あなたが選んだのは「尊厳ある生と死」だと。
折しも、京都でALS患者嘱託殺人事件が明るみに出た時期でした。メディアでの論調の多くが、ALSのような難病患者が生きたくても生きられない社会のあり方を指摘するものでした。「こんなことなら死んだほうがましだと思わせる社会が問題だ」と。確かにそうかもしれません。生きたいと思う人が、徹底的に生きられる社会・制度は必ず実現されなければならないと思います。

しかし、この問題とマイクさんの選択は明らかに違う問題なのです。あなたは決して生きることを放棄したのでもないし、諦めたのでもありません。あなたの選択は、その肉体に自然な死が訪れるまで徹底的に生きるというものでした。死は誰にでも100%訪れます。それが早いか、遅いか。人生十分か不十分か。それは自分でようく考えなければならない問題だと思います。あなたの、そうして僕の人生に対する評価は、自分自身のものなのです。決して社会の問題ではないのです。ましてや支援を申し出た人に応えるという問題でもありません。自分自身のものなのです。マイクさんの決断はそこを十分考えた上での決断でした。

もし僕に言えることがあるとすれば、あなたの決断をただ黙って見守ることしかできなかった自分の非力を決して忘れはしないということです。僕があなたが亡くなってからもずっと、この「往復書簡」書き続けているのは、そばにいることくらいしかできなかった自分の非力さを穴埋めするためなのかもしれません。
夏の盛りがやってきます。あなたの病室で黙って向き合ったあの暑い日々を思い出します。

ほんとうの敵

まだ外出が可能だった頃。その視線は何をとらえていたのだろう。

マイクさん

いま〈この世〉はエライことになっています。

なにか?って、新型コロナウイルスですよ。なんだかわけのわからない状況になっています(わかってないのは僕だけかもしれませんが)。

去年の今頃は、かかっても風邪程度だとか、若い人は重症化しないとか、死ぬ人は稀だとか言われていましたが、騒ぎ出して1年以上経ったいま、変異株などというものも現れてずいぶん様変わりしてしまいました。数日前の数字ですが、国内の累計感染者数は763,971人、死者数13,659人と、とんでもないことになってきています。しかも若い人も感染するし、重症化し死に至る例も少なくありません。季節性のインフルエンザの死者は3,000~5,000人(2018年シーズンで3,325人)ですから、いかに深刻かと。で、ワクチンなるものが救世主のように現れて、それでまた混乱に拍車がかかるのです。

得体の知れないものに対する、あるいはそこに見え隠れする〈死〉というものに対する恐怖に揺れ動く人々の風景を目の当たりにして、あなたの強さをあらためて感じています。ワクチンを打てば安心と煽る政治と我先にワクチンを打ちたいと焦る無辜(むこ)の人々。僕もその1人に違いありません。6月9日と23日にワクチンを打ちます。

そんなに死ぬことが恐怖なのかと自問すると、僕自身はそうでもないなと思います。かの養老孟司さんもおっしゃいました。永眠というけれど、まさに眠っている状態だと。生きている我々も眠っている間は何もわからない。そんな状態が続いて目が覚めないだけだと。

僕もそんな経験をしました。全身麻酔です。5時間も6時間も眠っていましたが、苦痛も何も感じませんでした。夢もみませんでした。まったく〈無〉の時間を過ごしたのです。〈死〉とはそんな状態なのだと思うと、それ自体はそんなに恐いもんじゃないなと。

じゃあ〈死〉の恐怖って何かと考えると、多分〈この世〉との関わりが絶たれるということなんでしょうねえ。好きだった人、家族とも会えなくなるし、酒も飲めないし、美味いものも食べられなくなる。この世の享楽を一切味わえなくなる。そんなことじゃないでしょうか。昔、西行法師がこんなことを言ったと吉田兼好が書き残しています。

某とかやいひし世捨人の「この世に絆(ほだ)し持たらぬ身に、ただ空の名残のみぞ惜しき」と言ひしこそ、まことに、さも覚えぬべけれ。(「徒然草」第20段)

世捨人って西行のことです。「絆し」ってしがらみとか執着になるでしょうか。そんなものないから美しい空の名残だけが惜しいだなんて。執着の塊のような僕には到底口にできない言葉です。その執着の基本にあるのは何かと考えると、人と関わり、人の中で何かを楽しむ、そこから何かを生み出す、そうして何かを味わい幸せや満足を感じるってことなのでしょうねえ。それをコロナが邪魔しようとしているのなら、邪魔を排除するためにもワクチンを打ちますよ、僕は。「〈生きるため〉より〈享楽〉のためにか俺は」と自嘲してハッと思いました。

マイクさん

あなたは最後の4カ月を、ほぼ病棟での隔離状態で過ごしました。それまで楽しみにしていた週末の自宅外泊もできず、家族の面会すら病院に拒絶されました。誰にも会えずに、残された短い時間を数えていたのですね。「最後まで人との関わり、社会とのつながりをあきらめないで」と僕はあなたに言い続けました。だけどいま振り返るとその言葉がいかに虚しいものだったか、あなたがいちばんよく知っていたんだろうなと。そう思うと胸がとても苦しくなります。会いたい人に会えない中で、伝えたいことを伝えられない中で、刻一刻と身体が衰え死が迫ってくる。それでもあなたは、真正面から〈死〉を受け止めようとしていたし、自ら獲得しようとさえしていたように思えてなりません。呼吸器を着けない選択もそうでしたが、ほんとうに強い人でした。だからこそ、あなたの辛さ、無念さを思うと、たまらない気持ちになります。人と会いたかっただろうな。話したかったでしょうね。

ほんとうの敵は、ALSでもなく新型コロナウイルスでもなく孤独だったのでしょうね。「あなたを決して孤独にはしない」とこの往復書簡で言い続けてきた僕の責任はとても大きいと、いまふり返って強く思います。

マイクさん

「ALSの進行に関わる遺伝子を特定 東北大チーム」というニュースが流れました。ALS治療の標的になり得る遺伝子が特定でき、研究を重ねて行けば治療につながる発見だと。医療の現実としては、あなたの命を救うことはできませんでした。しかしその間も、いまこの時も、研究者や医療者はずっと努力し続けているのです。あなたの症例も将来のALS治療に必ず生かされるはずだと、僕は思います。そういう意味でもマイクさんは、記憶の中だけではなく命を守る医療の現場でも生き続けるのです。

もちろん僕はこうやっていろんなことを考えさせてもらっています。そしてあなたの冷静さと強さを受け継いで生きていきたいと思っています。僕の中でもマイクさんは生き続けていくのです。

受け継ぐ者の明日

病棟を訪ねたY君とD君を前に熱心に話すマイクさん

マイクさん

あなたが旅立って9カ月になります。やはり時間の経つのは速いですね。去年から今年にかけては、新型コロナウイルスの感染拡大で、動くに動けずほぼ閉じこもった生活をしているので、代わり映えのしない日々を過ごしているにもかかわらず、時間は立ち止まってくれません。過去という時間がどんどん堆積していき、未来という時間がどんどん薄っぺらになっていきます。そんなことを思うと、ふとさみしくなってしまいます。

5月8日は父の誕生日でした。生きていれば94歳になるはずでした。でも、父の時間は6年前から止まったままです。おそらくそれは、僕が過去ばかり振り返っているので止まったままに思えるのでしょうね。振り返るんじゃなくて、父の時間を受け継ぎ前に進めないととも思います。父だけではありません、マイクさんの時間も僕が受け継いで前に進めたいと思っています。

受け継いだ時間の結晶のひとつがこの「往復書簡」だし、南日本新聞で続けてきた「『生きる』宣言」という月1回のコラムです。一昨年の6月にはじまり、今月が最終回です。この2年間、マイクさんと交わしてきたこの「往復書簡」を縁(よすが)に、生きること、死ぬことを自分のテーマとして書き続けてきました。次は「往復書簡」と「『生きる』宣言」を1冊の本にまとめるために動き出したいと思っています。この中にはマイクさんのことはもちろん、父のことも母のこともたくさん含まれるはずです。僕はそんな方法で時間と人生を引き継いでいきたいと思っています。

マイクさん

引き継ぐ人間は僕だけではありません。僕と一緒に病棟を訪ねたY君を覚えていますか。彼もマイクさんから多くのものを受け継いだと思います。

Y君はマイクさんとの面会を終えた後、「マイクさんの言葉の7割がわからなかった」「ちゃんとコミュニケーションできなかった」「あらゆる面で僕はまだまだ経験が浅い」と酷く自分を責めていました。「マイクさんからもっと生きるという本質について聞きたかったのに……」と本当に悔しそうでした。

その彼が鹿児島のある都市の市長選挙に立候補しました。9日が告示日です。

僕は彼がマイクさんと出会って、難病とともに生きる人の事実を垣間見て、生きるとは、死ぬとはどういうことかと考えて、きっとどんなに重い障害や難病があっても最後まで自分の意思で生き抜くことの大切さを感じてくれたと思っています。しかも肌で感じてくれたと思います。

そのY君に僕は、彼にしか発想できない、実行できない福祉の形を期待しています。それこそがマイクさんの時間と人生を受け継ぐことだと。そうしてあの時感じた悔しさをバネに、この国の新しい福祉の姿を鹿児島から全国に発信してくれると信じています。

マイクさん

僕や、彼や、あなたの時間と人生を受け継ぐ者の明日を、どうぞ見守っていてください。
改めてよろしくお願いします! 往復書簡はまだまだ続けていきます。