期待に応えられるか?/前進だけは約束します

当面ホルモン注射を決断された様ですね
当面数ヵ月が 数年かも ズットかも知れませんし それも自覚症状もなく!
これだけを聞くと結構いい話のようにも思えますが 本来のご自分ではない生き物と生涯共生する身体のシキタリに従わなければなりません
大腸癌抱えての無頼漢ではあっても 絶対無理なさらずとは言いませんが 此れからはもっとキツイ自制心をお弁えくださるものと「期待」します

お便りに「・・・人に「期待するのではなくて、自分自身が期待される」存在にならなければと思っています。・・・思い通りにことは運ばないかもしれません。でもあきらめずに一歩ずつ前に進みたいと思っています。マイクさん、一緒に進みましょう。」

全くその通りですね
でもマイクの病は 下方比較するとか 諦めと逃病こそが相応しいと今も思っていますが これは病についてだけで お陰様で 生活やQOLについては 特に精神性に期待することも多くて しかも皆様にお応えするべきことの大事さを感じることが出来ました
マイクの精神性は このALSと往復書簡のお陰で 確実に一歩ならず前進したことをエンジョイしています

さてマイクの今日は 難病連の中の病名別の(友の)会にはならない希少難病者合同の「わらび会」の集いに参加してきました
3/10にも「難病カフェ」と言う集いに顔を出しました
その時は2〜30人ほぼ全員が車椅子で感激しました
今回は知合いのSMBAの方だけで 100名の会員の内 集いに参加しやすいレベルの人が交遊を楽しむ主旨の様ですが マイクには自己紹介を聞くだけで 知らない また問題点が色々あることを知りました

認定患者にも簡単とは言いませんが 完治して友の会OBをされている元気な方が何人 も
難病認定取れない人や 障害者年金では暮らせず仕事・生活に困っている人など 病気情報以上に参考になることを知りました
明日は滋賀医科大の漆谷真教授のALS講演会に参加し 参加者の中で 京都友の会を作るに理解ある方を見つけようと思います
マイクは既に喋りに苦労するステージなので 友の会を纏めるほどの期待は受けられないのですが 先ずは ALS患者ネットワークが市内に100人いても 如何言う形ならどれだけ繋がれるかを妄想することくらいを目標にしています
それ以上は他の友の会をいくつも参考にしてからかも知れません
パーキンソンの知人の話では会長の出しゃばりと主旨不明を感じて パーキンソンならではの規模の大きさを指摘されています
マイクとしては病院内交流ができればと 切に思うだけなのです
今はそれくらいですが もっと急がないとと 確実に下がるQOLを次第に意識する様になっているのです

「か行」不得意な「新参者」は終わり ステージⅱに

しみてつ祭り2019のご成功おめでとうございます
人は 相当のエネルギーを溜め込むキャパがあるのですね
身を削ってもと言うほど大袈裟でなくて それもステージⅱのしみてつさんでも またマイクのような新参者の内なら やりこなす喜びを知っているばっかりに 演れるのでしょうね
でもしみてつさんは 本業や次の企画や 控えている治療のためのエネルギー蓄積をもお忘れなく

所がマイクの方は 一昨日の晋ちゃんの通夜に行けて 拝顔のお別れができたのはいいのですが 自宅から駅までの歩きに時間が掛かるのはしょうがないにしても 玄関出るなり腰が60度以上曲がったままで まるで老人そのもので情けなくなり また葬儀場へのタクシーで「槙島会館」の「カイカン」を何度言っても伝わらず運転手から紙とペンを出されました
晋ちゃんのポックリも堪えましたが 呑み食べの時間で1日が終わる退院生活に加えて 強いショックを受けています
昨日は 風呂に浸かりながら 新参者はもう終わったのだとシンミリしてしまい 風呂から上がる気力もなく 長湯してしまいました

昨日は訪問リハの言語療法士から 特に「か行」がダメなマイクに 飲み込みも良くなる 上顎にへばりつく様な入れ歯紛いの補助具を紹介されました
また昨日は 誰が見ても上半身は身障者でも また腰が曲がっていても杖なしで歩ける様では身障者手帳が貰えない制度なのですが 申請しておけば 市から コミュニケーションツールの貸し出しが出来ることを 役所の(娘に言わせればお父さん好み?のその通りの)難病担当の保健師さんからの指導を家で受けました
事務的で冷たいばかりのお役所ではなくラッキーに相談窓口に巡り会えるとハッピーになれるのです

でも本当を言うと 新参者はもう終わりと覚悟していますが ラッキー&ハッピーが途切れてない自覚はあります
多くの方の見守りと親切にどんなお返しをできるか
思うことだけではなく やらねばと考えるだけでもエンジョイして生きられる幸せなマイクです

明日は難病連の団体(個別の難病団体に属さないワラビの会)に顔を出し
明後日は ALSについての講演会がるので そこで ALS患者ネットを作れる様な方を探してみようと思っています
その翌日は点滴2週間だけが決まっている再入院です

追記1 朝刊に 公的病院(全国1500の内424 京都で4)に統合整備を検討せよとの記事が載っています
マイクが世話になっている病院の名前があり 如何なることか気になります

追記2 退院中にやることの一つ
賃貸家屋・部屋の調査はしましたが 保健師に相談しながら気づいたこと
スーパーALSでないと独居生活では訪問介護はほとんど受けられない?現実?

追記3 ステージⅱは 肉体的には自覚少なく QOLは高いが 精神的には辛くないことはないでしょう しかし完治の期待を信ずることで乗り越えられます
新参者のQOL は 程よく徐々に馴れる様に低下するのではないかと思う様にしていますし それなりに受けいれば済むことだと思う?忍耐強いマイクです

社会性を忘れては/トランプまでアジア人に

今日は 清水さんが突然見舞いに来られて 検査結果のこと これからの治療の選択肢についてのお考えをお聞きしました
不安の中にも安心感も少しおありか 元気な様子を見られて安心しました
でも病は人生共々の運命です
神様に生かされ 自らに任された運命でもあります
神頼みはしても自分をゆっくり眺められれることを感謝するのが一番だと思います

「哲男・マイクの部屋/家」の話と 「近場のALS友の会」を作りたいマイクの気持ちなどを 9/10一時退院してから具体化したいと話し合いました

帰られてから テレビを見ても ラジオのニュースも 児童虐待の話ばかりでした
社会的な赤ちゃんポストの必要性を考えるマイクは 熊本の虐待相談件数を他都市他府県と年少者人口比・相談所数比等で考えて見ました
相談所1軒しかない県ですが 社会的な関心の高さを感じられました
相談所がこれほど必要になったのは 社会的な赤ちゃんポスト(或いはポストが要らない里親制度のある共生社会)には程遠いことなのです
国際比較では 経済大国が恥ずかしい事ばかりなのです

マイノリティの共生に就ての8/28 の書き込みで 日本人と中国人が 米国人(90%利他的)より利己的(70%)だとの情報を参考にしました
それが定量的に数字で言われているのにはショックでした
マイクのHPのベースになっている 「サラリーマンは懺悔すべし」の「啓蒙思想」を裏付ける貴重なデータなのです
同じ思いを実感として抱いているマイクは 「日本人が自己中になってしまった」ことを戦後の日本の思想文化の大失敗だと 現役時代から 度ある毎に友人に発言してきました

欧米から馬鹿にされている日本の恥のランキングを嫌ほど見るにつけ 原因を払拭せねばとの思いがムラムラとするのです
それを簡単で的確なサイトで見つけたので 部分転記します

日本式の個人主義とは 困っている人を放置
インテカー社長 斉藤ウィリアム浩幸
https://www.nikkei.com/article/DGXKZO85209440S5A400C1X12000/
「どうも日本人が使う「個人主義」は、困っている人を放置してそれで良しとする「selfish(利己的)」に意味合いが近いように感じられます。本来、英語で言う「個人主義(individualism)」の意味とは、集団に所属する一員としての役割や権利を相互に尊重しあう立場のことで、「私利」が「他利」に優先されるというワガママを容認してしまっては成り立たない概念です」

(利他的(altruistic)の英語が見えないので調べておきました)

マイノリティ共生だけではなく 多文化の共生する社会の思想が欧米に歴史的にあります
それに比べ 日本は維新では全体主義をうまく取り入れた積りが 軍拡の間違いで敗戦でし その束縛から解放された自由をまたも取り違えてしまったことに気づかず 間違った個人主義の欲望に走ったのです(これを自己中と言うのです)
利己的共生はあり得ない筈が 自由無責任自己中でも「誰も」咎めることせず 利他無用で マイノリティを 排除または無視するのです(弱者の犠牲で経済が)

共生思想を尊重しない 知らない日本は 欧米より社会性に遅れ ジェンダーや障害者ネグレクトや 自死念慮 安楽死 尊厳死すら見て見ぬ振りする社会なのです
昨今の 児童虐待対策も 相談所が少ないから 頼りにならないから多いのではなく 共生思想の欠如です
それを知らずか 当事者は非難し合っているのです
就職氷河期世代や中高年引きこもりも 「この世代の親」が 我が子まで利己的に放置した罪作り人間なのです

マイクは懺悔の積りで 事ある毎に 同じ世代に罪滅ぼしを考えて欲しいと語っているのです
欧米は神が見ている罪の文化(guilt culture)
日本は他人の目を気にする恥の文化(japan’s shame)
恥が無くななって欲の文化(greed culture)貪欲自己中に
欧米ではpassion interest passive dream desire に

マイクが何故この様なことを言うかは 8/26&27に 日本の自殺者が多いのは半分は 社会的な遅れによる「社会的な殺人」だと断言した事にあります

身障者問題や 自死 老人福祉 若者中高年の就労 就労格差 男女社会的格差 その他多くの恥ずかしい国際的精神的貧困 これらの原因は 社会の問題であるのに 自己中な大人が 自らの罪を認めないのではなく 悲しくも 「みっともなく」も 「情けなく」も ただ気が付いていないのです
こんなことを放っておくのは「勿体無い」と思っているからのマイクです

今夜は 吸引をシッカリして 眠りたいものです
実は 今朝は薬で 昼食は清水さんの前でペースト状のハンバーグで誤嚥してしまい 大変ショックだったのです

自分に何ができるかを考えること

マイクさん

なんの盛り上がりもない低調な選挙でしたね。ぼくらのいる場所から、ずっと離れたところでの権力争いみたいな。本来政治というものは、暮らしと表裏一体になっていなければならないと、ぼくは思っています。台所に立ったとき、ガス、電気、水道などといった公共料金だけではなく、大根1本の値段、キャベツ1個の値段、牛乳、バターの値段などで、今の政治状況が読み取れるかどうかが大きな問題だろうと。そういう目で見ると、TPPとかEPAなどというわかりにくいことも、ずいぶんわかりやすくなるはずです。でもこの頃の政治は、そういうところに目を向けていろんなことを考えようにも、すでに答えありきで何を言っても無駄なような気さえするのです。

そうは言うものの、砂を嚙むような思いを抱えながら投票には行ってきました。自ら社会参加を放棄するつもりはありませんから。

しかし、京都というか大都市の状況はある意味羨ましいなと思いました。
鹿児島のような「田舎」になると、残念ながら経済に対する問題意識が突出します。地域経済にとって、中央と太いパイプを持っていちばん働いてくれるのは誰かということです。経済の多くの部分を公共投資、補助金、助成金から切り離して考えることができません。街頭インタビューなどで、福祉の問題、年金の問題などを最重要課題に挙げる人は少なくありません、しかし、最終的には地域の活性化、経済の活性化というところに集中していくのです。

言葉を換えると「利権」ということになるでしょうか。つまり自分の利害に合わせて誰がいちばん利益をもたらしてくれるかが最大の興味なのです。そしてそれが候補者を選ぶ場合の最大の判断基準になるようです。政治の多様性、革新性はもちろん、政治の細部が自分の暮らしとどのように結びついているかなど、まったく関係ない、知ったことではないのです。れいわ新撰組をポピュリズムだというメディアや人が多くいるようですが、あれだけ情熱を持って政治理念を語れる政党、人は近年いなかったのじゃないかな。安楽会も同じような気分で見ていました。残念ながら投票することはありませんでしたが、大きく期待をさせてくれる政治勢力だと思いました。多くの政党の候補者が、議員という身分を求めて右往左往しているのに比べるとずいぶん気持ちいいなと。N国党はちょっと……。

鹿児島の話に戻ります。
じゃあ鹿児島の福祉は最低なのかというと、決してそんなことはありません。革新性の強い京都や大都市に比べると、保守王国の鹿児島は福祉の分野が遅れているんじゃないかとは、大都市に住む友人からよく聞かれることです。くり返します、決してそんなことはありません。

その背景には、政治の力よりも、行政の力よりも、政治、行政を動かそうという市民県民の力があるのだとぼくは思っています。例えばALS協会や患者会、家族会を見てもそうなのです。もちろん個々の患者さん、家族、関係者の頑張りに支えられてですが、行政の制度、施策で不備なところをうまくカバーしていると言っていいでしょう。

鹿児島のALS患者会・日本ALS協会鹿児島県支部では、もしALSだと診断されたらどうするか……。療養生活にとって必要なことは何か……。福祉用具、コミュニケーションツール、呼吸器などはどうしたらいいのか。療養生活の不安はどのように解決したらいいのかなど、難病であるからこそ、不安だからこそのきめ細やかな対応とサポートを目指しています。
さらに、そういった難病関連の患者会が結集して、かごしま難病支援ネットワークを設立し支援活動に力を入れています。

ある会員さんに話を聞いたことがあります。その人はこう言いました。
「政治の状況、制度の不備に一喜一憂するよりも、自分に何ができるかを考えること。そこから政治を変えようという意思が出てくるのではないでしょうか」
政治で大切なことは、政治に対して何かを求めるということよりも、政治を変えたいのならそのように動くことだと、ぼくは思いました。