なんだかんだ言いながら楽しもうとしています

作業を終えた麦の芽の仲間たち

マイクさん

「色々と濃くギリギリまでも」
ぼくは今まさにそんな心境です。

ご心配いただいていた前立腺の生検。結果は真っ黒でした。前立腺がんです。大腸がんからの転移か原発のものかは、現時点では不明です。非常に危険度の高いものだと指摘されました。然るべき治療法を決めるための検査に入りました。

正直にお話ししますと、少々のショックでした。大腸がんとの診断からほぼ2年。手術から1年と10カ月。ようやく普通の暮らしに戻り、さてこれから何をしようかといろんなことを考え、いろんな計画を立て、予定を埋めはじめていた矢先のことです。大きな見直しを迫られそうです。しかし、命と引き換えにできるものなどそうありません。思いました。

ぼくはこの状況を真正面から受け止め、淡々と生きていくしかない

と。生き長らえれば、また新たな時間も生まれてくるでしょう。その時にまたいろいろと考えればいい。その時まで生きることを最優先に考えようと思っています。幸いなことに、ぼくにもマイクさんのように支えてくれる友人知人がたくさんいます。そういう人たちに甘えてでも生きようと思っているのです。

「夢 仲間たちの明日」を読んでいただいたのですね。ありがとうございます。
ぼくが障害を持った人たちをはじめて取材させてもらった本です。これ以降ぼくは障がい者、難病患者との関わりを深めていくことになります。そうして彼ら彼女たちの生きることに真摯で貪欲な姿勢、あるいはありのままに自分を表現しようとする生き方に、衝撃といってもいいほどの感動をもらいました。それがあの後書きの一言ひとことに繋がっていくのです。

今のぼくががんという病を得て、彼らほど真摯で貪欲で、ありのままになれているかどうかはわかりません。でも、マイクさんの言葉の通り「色々と濃くギリギリまで」生きてみようと思っています。

先だっての返信「暮らしたいまちで最後まで」を思い返してみました。ぼくならそのまちはどこになるだろうと。で、思いました。ああ、やっぱり京都かなって。そうしたら、「マイクの家」じゃなくて「マイク&哲男の家」なんてのもいいのかな……、などとなんだかんだ言いながら楽しもうとしている自分に気づきました。

この「往復書簡」のお付き合いは、ぼくにとっても生きる力を与えてくれるものになっているようです。

愛ある親切で絶望から救われました

昨夜の清水さんへの返信の後 第2水曜日24時30分から20分の人気番組「絶望名言ミニ」を聴きながら寝ました
50分番組の「絶望名言」は第4日曜日28時台にもあって ネガティブマイクを大不安(ファン)?にさせます
単行本 「NHKラジオ深夜便絶望名言」頭木弘樹 飛鳥新社 (2018/12/11)もあります

(病気、事故、災害、あるいは、失恋、挫折、そして孤独……
人生における受け入れがたい現実に直面した時、人は絶望します。
古今東西の文豪たちもまた、例外ではありません。
絶望に行き当たり、絶望を見つめ、絶望の中で書き留められた珠玉の言葉たち。
本書では、そんな文豪たちの「絶望名言」から、生きるためのヒントを探します。)

カフカや太宰にも感激しましたが 先月のトルストイには 理想を求める何時迄も若き?マイクと 晩年 何でもオープンにしたがり 周りを困らす文豪とがダブって 聴き惚れてしまいました⁉️

昨夜は いつもの根暗とはちょっと違っていて 人類に対する絶望と皮肉と愛情を シニカルかつユーモラスな筆致で描き人気を博した 現代アメリカ文学を代表する作家の一人 カート・ヴォネガット(Kurt Vonnegut、1922年11月11日 – 2007年4月11日)でした
紹介された名言を調べてみて なるほど言えるワード的な 真からの深みのある内容に感心しました

( “Love may fail,but courtesy will prevail.”という科白(台詞)が『ジェイル・バード』という作品の中に出てきます。「愛は負けるかもしれないが、思いやりはなくならない=愛は負けても、好意は消えない」みたいな意味でしょうか。「愛は負けても親切は勝つ」という訳もあります。
これは戦争という悲惨な状況(中でもとりわけ凄惨なドレスデン爆撃)を経験したヴォネガットが導き出したテクニカルな教訓なのでしょう。
考えてみると、愛のために争いは起きますけど、親切心や礼儀正しさ(courtesy)のために争いが起きることはありませんよね。つまり、争いが起きないことを一番に考えるなら、大切なのは愛よりも思いやりだということです。シンプルですが、深い知見です。)

難病患者が求めるのは 表面的な愛ではなく 芯からの親切なのでしょうか
かなり打算的にも思えるのですが 先が見えている焦りからくる実利選択なので 無理もないのです
確実にエクセルで計算した先を見透ししないと我慢できない これは育ちによるのかとも思います

マイクが2人の神様・仏様から夫々に精神的な延命措置を申し出られた事に 愛も感じましたし 加えて確かな思いやりと好意と親切とを信じられたからです
絶望の危機から救われて今があるのは

地獄に目覚めよ/妄想を叶えよう

お仕事を抱えての不安ごとですので どうかご無理なされませんように ひたすら祈ります

今週末から10日間の点滴が始まる筈なので 主治医に確認したいのですが 今日も回診がありません
向かいのベッドの陽気で繊細な患者さんが 初めて不安か不平で涙されたのが今日のマイクにはショックで思うところありますが テレビは昨日の続きを書けと言わんばかりなのでそうします

川崎拡大自殺と上級国民の愚息殺人が繋がるのは意外な様でも 根源は同じ自己中な気紛れにあるのです

中高年引き篭もりを 他人事として 知識人も政府も当然愚民もが放置(後で言いますが放置ではなく育ててきた)してきたのだから 61万もの分母になった今 気紛れと違わないこの類の爆発が そこそこの頻度で事件になるのは避けられません

比較として難病患者では分母が 指定難病受給者 総数 89万2445人(H30)に相当する
その中の 難病中の難病と言われ 神の気紛れの結果としか思えないALSの発症者数は 10万人当たり1.1~2.5人(2〜6とも)を2人として これを難病総数90万に当て嵌めると 分子は18人に相当する

ALS患者は気儘だというサイトもあるくらいなので 全患者がALS患者に見習って? 人権差別を不満に感じて 身勝手な叛乱を企てたら 毎年これくらいの数 18件の事件が叛乱分子として発生して当然?

地獄思想を幼児時代に身につけたなら 我儘にならないで弁えのある育ちをすると信ずるマイクです
戦後までの神仏のいた時代に生まれ育った高齢者の筈なのに 偶々バブルを作り上げた時代にいたと言うくらいで 傲慢さを身につけてしまい 自ら自己中無神論者になったばかりでなく 我が子孫まで自分ファーストで気紛れ気儘で生きられることを見習わせてしまった
天から頂いたバブル崩壊という天罰にも気付かず 懺悔どころか罪滅ぼしなどの意識を持つような かっての企業戦士には出あったことはない

80 50問題は来るべくして起こった
繰り返しますが バブル崩壊にすら罪の意識のない無責任高齢者が 今まだバブルを作ったという妄想を盾に 戦士でもなかった準公務員(ビジネスマンでもないだだの平サラリーマン)までもが 自分たちに権利があると 社会福祉を当然の様に要求する
こんな奴らを目覚まさせるには 拡大反逆を起こすことでしか救われないと考えるしかない⁉︎
しかも高齢者だけではなく 可哀想にもそのように真似してきた世代までを巻き込まないと?

実はマイクがこんな風に思うのは 所謂自爆テロを見る眼にも同じことを考えてしまうのです
テロしか考えられなくなった一神教原理主義弱者には 世界を覇権する強者に抑圧されても 簡単には叛逆できないのが普通です
それに慣れた無神自己中ファーストからの次々の制圧の驕りに 堪忍が限界を超えて爆発するのは同情されて当然なのです
しかしその同情も覇権者に忖度し批判側に回るばかりで 更に窮地に追い込まれるだけなのです

相当に危険なことを調子に乗って喋ってしまいましたが これはまだ無責任な妄想の範疇なのです
でも妄想だけではストレスが溜まるばかりです
どこかに発散し 何処かでぶつかり 次第に責任ある実践を目指したいものです
これこそ妄想の使命なのです

一寸話外れますが マイクの安楽自死受け入れ施設には こんな妄想を叶えられなかった終末期老人に バーチャルでも思い叶えさせる役目を機能させようとしています
最期の楽しみをサポートするスイスのライフサークルにもない考えです

生も死も自分自身のもの

マイクさん

雅子さん(マイクさんのご長女/主介護者の1人)と少々お話をしました。雅子さんは最近のマイクさんについて、こんなふうに話しておられました。

「この『往復書簡』、文章は未だに少々長いけど、以前のようにひどい理屈をこねたりもしなくなったし、ネガテイブな表現を借りるのではなく、言いたいことが本音として出るようになってきたと思います。丸裸になれてきたかなって感じかな。病院でも入浴時に研修生に身体を洗わせてあげるの楽しんだり……。言葉の端々にもそれが出てると思います。少しずつ父の中で起きているそういう変化に、気づいてあげられたらよいなぁって思います」

ぼくも同じようなことを強く感じていました。特に今回の、

色々あるにしても、諦めないこと 詰まり「生きる」ことこそ原点なのです
例え自死願望であった頃のマイクでも、「生きること」を真剣にメメント・モリした結果が今にあるのです

という一節に「生きる」宣言以前はあまり見られなかった、心情のストレートな発露に触れたような気がしました。その背景にあるのが「当事者としての気づき」ではないでしょうか。これは早川一光さんの「こんなはずじゃなかった」という言葉がすべてを物語っていると思います。
医療を提供する側としての立場から最善の在宅医療システムを構築したはずなのに、いざ自分が医療を受ける側の立場になると、あまりにも患者当事者の思いとかけ離れたシステムだったというものです。ぼくもそういうギャップに悩む療養者の姿を数多く見てきました。ほとんどの場合、患者本人のことよりも、医療を提供する側、介護する側が<しやすいように>考えられていると思いました。

「生も死も自分だけのものではない」

そんなふうに考えると、家族の負担にも、社会の負担にもならずに、最大公約数のような生と死を考えればいいのかもしれません。おそらく今の在宅医療システムや介護システムはそういう最大公約数の上に成り立っているのでしょう。そこにいちばん欠けるものは、早川先生がご自身で気づかれたように、当事者にならない限り見えてこないものではないでしょうか。それは当事者本人の生や死に対する思いと言っていいでしょう。

マイクさんは首尾一貫して仰っています。
自分の症状がどのように進行するのか、それにあわせて在宅になった場合の家族への介護の負担がどうなるのか。先行き不透明の中で、家族への負担をかけたくないというマイクさんが、胃ろう、呼吸器を拒否する以上に、自死への願望を強められたことはよくわかります。リハビリのための入院が予想以上に長い入院になり、退院・在宅療養を避けてこのまま病院にいたいという気持ちは、そういう先行き不透明な状況に家族を巻き込みたくないからという思いもよくわかります。
ぼくも実際、在宅での療養生活は家族の負担も含めて「こんなはずじゃなかった」という話を、患者本人からよく聴きましす。

マイクさん
病気慣れしている人などいないと思います。しかも難病患者で。
でも療養生活慣れというならなんとなくわからなくもありません。
で、その療養生活慣れとは何かというと、ほとんどの在宅療養患者場合わがままだと言われない、迷惑をかけない「よい療養者」となるために、自分の希望・要求を抑える、あるいは諦めることに慣れてしまうことだと思います。

社会の中で生きて死ぬとすれば、生も死も自分だけのものではないという言葉はとても説得力があるように思えますが、ぼくは、もしそうであっても、生も死もまず自分のものなのだというところからスタートすることが大切だと思いました。

生も死も、マイクさん自身のものであり、ぼく自身のものなのです。
「生きる」ことを原点とするなら、生も死もまず自分自身のものなのだと強く思いました。

Re:成るように成るしかないと

マイクさん

こんにちは。
ぼくはあなたからのからのお便りが、日々長くなり深くなっていくことに、喜びを感じるとともに、問題の深刻さに打ちのめされるような気がしています。なんとかぼくも一緒に立ち向かおうと思うのですが、正直にお話しすると、もし自分がマイクさんの立場に置かれたらどんなにつらいだろうと、どんなに右往左往ジタバタするかと、立ちすくむ思いがします。

見るのも辛いのに ご本人の体の辛さを思うと心痛むのに それ以上にどんな気持ちでおられるのか 聞くまでもなく また聞いてもこちらが辛くなるばかりだと思う

その通りだと思います。だけどぼくは、これまで難病患者の方からたくさんお話を聞いてきました。そんなぼくにできることは、ただお話を聞かせていただいた方を強くぎゅっと抱きしめたいという思うことだけでした。ぼくはこの「抱きしめる思い」を大切にいろんな人に接してきたし、これからも接していこうと思っています。無力なぼくにできるのは、話を聞き、そうして心の中でぎゅっと抱きしめることくらいなのです。

件の教授が、どのような意味で「命のコスト」とおっしゃっているのか、ぼくにははかりかねるところがあります。それどころか、「生きる価値」をコストで測ることに少々違和感を抱かざるを得ません。「命のコスト」とは、生きるためにどれほどのお金が必要かということでしょうか。するとコストで測る「生きる価値」とは、どれだけお金をかけたかで決まるということなのでしょうか。ぼくにはよくわかりません。

東京で暮らす人と鹿児島の秘境といわれるトカラ列島のような離島で生きる人では、明らかに「命のコスト」は異なるはずです。でも、自分の居場所でそれぞれ必死で生きている人の「生きる価値」は比較すべきじゃないと思います。「生きる価値」を「人生の価値」と言い換えるとしたら、それぞれの場所で、それぞれの人が、自分の人生を生き切るかどうかで、「人生の価値」は決まるんじゃないかと思います。それも、人に評価されるのではなく、自分自身の評価として。

それでも今のマイクには 自分のQOLくらいは 考えるまでもなく ALSを自覚してからは毎日毎日減衰するしかないQOL体感しているのです。勿論 精神的にまで影響されることのないようなマイクでありたいのですが

ぼくのかつての友人で「死亡退院」の主人公・轟木敏秀さんは、デュシェンヌ型筋ジスで衰えゆく筋肉、動けなくなりつつある身体を自分でこう評しました。

「日々できることが少なくなっていく。でも、まだ何かできるはず。できることがあるはず」

と。そうして彼は亡くなるまで外の世界に向けて自身の思いを発信し続けました。そのためにITエンジニア、リハビリテーションの専門家、数多くのボランティア、友人を徹底的に振り回して自分の思いを遂げようとしましたし、それらの人々は喜んで振り回されていました。おそらくそれらの人々は、それぞれが「抱きしめる思い」を身体に充満させていたのだと思います。

マイクさん
どうぞわがままになってください。そんなに重い病を得てまで、善人でい続ける必要はないと思います。マイクさん自身の「生きる価値」を高めるために、どうぞわがままになってください。そうしてまず、ぼくを第一に振り回せるだけ振り回してみてください。

ラジカット、効果があるといいですね。ぼくも期待をしています。
それにマイクさんは、思ったよりも進行が遅いのではと聞きました。
これからゆっくり何をするか。そんなことを考える6週間になればいいなと思います。

1カ月患者放置は辛いのです

一昨日は鹿児島在住の「死亡退院」の著者清水哲男さんと前日に続いて、そしてしっかり対酌しながらALS患者としての生き方を多くの難病患者をみてこられた経験からご意見いただいた。

死に急ぎたいのに儘ならないマイクに残された可能性が、在宅でなく尊厳死でしかないのにその予測がつかない不安を理解して頂いてはおられて それでも死に急ぐべきではなく、マイクに社会に訴えるべきことがあり、それを支援して下さるとのお言葉を頂いているのです。

一昨日は相当嬉しく、頂いた高級な薩摩焼酎を楽しみ、病人を忘れるほど上機嫌でした。

ご心配とご指導を頂いた結論は、外との繋がりを持ち続け、くよくよせず成る様になると思いこむことしかないのですが、果たしてネガティブマイクにできることか。

昨日は早速落ち込んでいると、マヤちゃんから電話があって、マイクを囲むダンス会の話しをしに明日きてもらうことを約束しましたが ネガティブマイクであってはいられないと思わせられる贅沢な辛さでした。

とにかく先月12日に、8日のリハビリ入院2週間を言われて、1カ月も待つ苦しみに耐えられないと思っていたのが何とか持ちそうです。

しかし2週間もの孤独な病院に耐えられるかどうか、不安がまた続くのです。
ここで折角お教えいただいた、成るようになるという気持ちを持つため訓練だと頑張ります。