「うちは社会の扶養家族や」

マイクさん

これは95歳になった母清水千鶴がマイクさんのために書いた「生きる」です。
「どうぞ生きてください」というひと言と一緒に託されました。
その時のぼくとの会話です。


「マイクさんの病気はきつい病気なんか?」
「そやね。難病中の難病やって言われてる」
「余命は?」
「3年か、5年か、もっとか、ようわからんねんな」
「3年か、5年か、もっとか……」
「そうやな。ようわからんねん」
「うちはあとどれほど生きるやろか? 生きられるやろか?」
「さあ、どやろ。けど長生きしてな」
「生きられるだけ生きたいなあ。強欲やろか」
「そんなことない。長生きしてな」

母もマイクさんの投稿を楽しみにしています。もちろん出力して読んでいますが。
「この人は頭のええ人やなあ」
といつも感心しています。その母が、ここのところの「命のコスト」に関する投稿を読んでこんなことを言い出しました。
「あと何年生きるかわからん人間に、医療費や介護費を使うのは無駄なことなんやろか。ほんならうちらはどうなるんやろなあ」
このひと言を聞いてぼくは思いました。
母に限らず、マイクさんも含めての話ですが、医療を必要とする、支援を必要とする高齢者に、こんな思いをさせるのはそれに続く世代の責任だと。

マイクさんがずっと問題にしてきている、死に場所を求めて彷徨う数十万人の老人。これは老人、高齢者の問題ではなく、社会全体とりわけ若い世代がどうやって社会を支えるのかという問題だと思いました。少なくとも母の世代、マイクさんの世代は戦後この国の根幹をつくるのに非常な苦労をしたきた世代だと思っています。その世代がどういう形であれ医療や支援を必要とした時に、財政を盾にコストカットをしていいのかどうか、ぼくにはわかりません。どれほどのコストがかかるのかを算出するのは大切なことだし、それをどうやって捻出するかはもっと大変だけど、今社会はそれをカットしちゃえという方向に安易に向いていないかと不安です。

ぼくは母が生きたいだけ、生きられるだけ、笑顔で長生きしてほしいと思っています。マイクさんにもです。でも、そういう人たちが、自分たちにコストをかけるのは勿体無いから、どうぞ他に使ってくださいと言い出すことは、まさにコストカットしちゃえという人たちの思うツボではないでしょうか。

医療制度、福祉制度の主人公は社会や国家ではなく、それをつくってきた一人ひとりの人、国民なのです。主権在民とはそういう意味ではないでしょうか。母は国民としての義務をこれまでに十分果たしてきたと思います。これから先は権利として様々な制度を駆使して生き続けてほしいと思います。最後にもうひとつ母の言葉を。

「うちは社会の扶養家族や。それだけのことは十分してきた」

「生きる」の書は送りました。どうぞ実物を手にとってご覧ください。