「弁えて生きる」マイク/生前葬をスーパーに

療養慣れ 病院慣れしてきたマイクに適切なお言葉を頂いき その通りと思います
向かいのベッドのパーキンソンのベテランに 長く居つくコツを教わったばかりです
入院ベテランになって段々と我儘な患者になると追い出されるとか
特にALS患者は我儘だと介護士の声をサイトで見ました
「生も死も」を自分自身のものであるのは間違いないのですが だけでもないことも事実です
主治医にもアピールした事があるくらいに「弁えのマイク」なのです
でも長期入院慣れはしないよう 自分自身の原点を見つめる事をも忘れない 主張するマイクであるようこれからも努めます

今日は 2週間で「死亡退院」は無理かなと思っていたリハビリ入院4/8から1ヶ月半にもなるので その後の様子を纏めてみます

マイクは検査入院での 2/6のALS告知から 直ぐの退院の後 主治医を決めた3/12までの1ヶ月は あれやこれやと多忙でした
その主治医から 4/8から2週間のリハビリ入院を勧められたのですが その意味がわからず 治療放棄されたような気がして 球麻痺が進んでいく不安と 退院後の療養生活が全く分からない不安で 1ヶ月の間は 精神的な危険状態でした
そのリハビリ入院2週間の筈が 3日目に点滴ラジカット1クール28日を試してみ入院延長を勧められ 受けました
その後も更に2クール目も勧められて その点滴を昨日5/21に終えて休薬を6/6までした後に 6/7からの3クール目を10日続ける事となりました
4クールはないと思いますので 退院は6/17降になると思います

さて その後の6/29には マイクを囲んだ生前葬パフォーマンス「えんじょいデス」なるイベントを 京都芸術センターで計画しています
チラシには マイクの企画になっていますが 死にかけのマイクを心配して生きる望みを ダンス仲間KDEの代表のマヤちゃんが プロデュースしてくれたものです
KDE(京都ダンスイクスチェンジ)は 2007年に 京都市芸術振興施設で行われた米国コミュニティダンスプロモーター・リズラーマンのワークショップ&ショーイングに参加した仲間が立ち上げた性や年齢・プロ素人に拘らない素敵な仲間達のカンパニーです
マイクにとっては このブログの立ち上げをセットして頂いた清水さんと ダンス仲間の応援を得たマヤちゃん企画で救われての今があるのです
二人の 神様・仏様に感謝するばかりでなく それに応えられるようなこれからのマイクであらねばなりません
ブログは マイクの自由時間を楽しみ過ぎかと思うほど 一方的な言いっ放しが多くて申し訳ありません
生前葬の準備には仲間が稽古と仕事で忙しいのに随分時間を割いておられること申し訳ありません
それにリハビリの療法士からも当日の為に スピーチセラピーを懸命に指導してくださっています
皆さんへの感謝を励みとして お世話になりながら「生きている」ことを 勿論自分自身だけではない事と肌身に感じさせて頂きながら「生きています」

今ほど主治医の回診があり 明日の「難病の日」に 甲谷さんプロジェクトの公演に スーパーALSが沢山集まる事と 生前葬のことを初めてお伝えしました
生前葬は早すぎるが スーパーALSになるようにと言われてドッキリ⁉️

生も死も自分自身のもの

マイクさん

雅子さん(マイクさんのご長女/主介護者の1人)と少々お話をしました。雅子さんは最近のマイクさんについて、こんなふうに話しておられました。

「この『往復書簡』、文章は未だに少々長いけど、以前のようにひどい理屈をこねたりもしなくなったし、ネガテイブな表現を借りるのではなく、言いたいことが本音として出るようになってきたと思います。丸裸になれてきたかなって感じかな。病院でも入浴時に研修生に身体を洗わせてあげるの楽しんだり……。言葉の端々にもそれが出てると思います。少しずつ父の中で起きているそういう変化に、気づいてあげられたらよいなぁって思います」

ぼくも同じようなことを強く感じていました。特に今回の、

色々あるにしても、諦めないこと 詰まり「生きる」ことこそ原点なのです
例え自死願望であった頃のマイクでも、「生きること」を真剣にメメント・モリした結果が今にあるのです

という一節に「生きる」宣言以前はあまり見られなかった、心情のストレートな発露に触れたような気がしました。その背景にあるのが「当事者としての気づき」ではないでしょうか。これは早川一光さんの「こんなはずじゃなかった」という言葉がすべてを物語っていると思います。
医療を提供する側としての立場から最善の在宅医療システムを構築したはずなのに、いざ自分が医療を受ける側の立場になると、あまりにも患者当事者の思いとかけ離れたシステムだったというものです。ぼくもそういうギャップに悩む療養者の姿を数多く見てきました。ほとんどの場合、患者本人のことよりも、医療を提供する側、介護する側が<しやすいように>考えられていると思いました。

「生も死も自分だけのものではない」

そんなふうに考えると、家族の負担にも、社会の負担にもならずに、最大公約数のような生と死を考えればいいのかもしれません。おそらく今の在宅医療システムや介護システムはそういう最大公約数の上に成り立っているのでしょう。そこにいちばん欠けるものは、早川先生がご自身で気づかれたように、当事者にならない限り見えてこないものではないでしょうか。それは当事者本人の生や死に対する思いと言っていいでしょう。

マイクさんは首尾一貫して仰っています。
自分の症状がどのように進行するのか、それにあわせて在宅になった場合の家族への介護の負担がどうなるのか。先行き不透明の中で、家族への負担をかけたくないというマイクさんが、胃ろう、呼吸器を拒否する以上に、自死への願望を強められたことはよくわかります。リハビリのための入院が予想以上に長い入院になり、退院・在宅療養を避けてこのまま病院にいたいという気持ちは、そういう先行き不透明な状況に家族を巻き込みたくないからという思いもよくわかります。
ぼくも実際、在宅での療養生活は家族の負担も含めて「こんなはずじゃなかった」という話を、患者本人からよく聴きましす。

マイクさん
病気慣れしている人などいないと思います。しかも難病患者で。
でも療養生活慣れというならなんとなくわからなくもありません。
で、その療養生活慣れとは何かというと、ほとんどの在宅療養患者場合わがままだと言われない、迷惑をかけない「よい療養者」となるために、自分の希望・要求を抑える、あるいは諦めることに慣れてしまうことだと思います。

社会の中で生きて死ぬとすれば、生も死も自分だけのものではないという言葉はとても説得力があるように思えますが、ぼくは、もしそうであっても、生も死もまず自分のものなのだというところからスタートすることが大切だと思いました。

生も死も、マイクさん自身のものであり、ぼく自身のものなのです。
「生きる」ことを原点とするなら、生も死もまず自分自身のものなのだと強く思いました。

お世話になって「生きてます」

「生きる宣言」の後 「世話になるならない」が続いたので 今夜で締めます

世話になるくらいなら
誰に
家族や社会からも
何を 何処まで 最後の最期とは
邪魔したくないから
家族の生活を?それだけで?

色々あるにしても 諦めないこと 詰まり「生きる」ことこそ原点なのです
例え自死願望であった頃のマイクでも 「生きること」を真剣にメメント・モリした結果が今にあるのです

マイクが安楽自死しか考えていなかった始めの頃からの思いを
「世話になる」で ブログ内検索すると次のように 8件あります(「世話に」では27件)

https://sky.ap.teacup.com/applet/jishi/msgsearch?0str=%82%A0&skey=%90%A2%98b%82%C9%82%C8%82%E9&x=59&y=12&inside=1

それを見返し見て 気になる中身を拾って見ます

2018/9/23 早めに別れて ひとり者になった方が 誰に遠慮することもなく最善の最期を迎えられる筈です

2015/2/16 終末期やそれに近い老人には トリアージタグを貰えない程の老人を延命処置することになる
余計なお世話になるでしょう

2014/5/23 生活死(健康寿命が尽きて)の後 生物死(臨終・寿命)までは 医療ビジネスに貢献する神様としてのお客様であり 皺寄せは他人様に降りかかるのです
麻生がさっさと死んで欲しいというのも尤もですが 安上がりに最後を楽しむのもアリなのです

2012/8/25 親族や国費でこれだけの世話になる価値がある命なのか如何かを考えることが如何してタブーなのか マイクには分かりません
生きている価値がなければ直ぐに死ぬべきとは思いませんが 考えるだけはすべきだと思います(認知症のコストデータも)

勿論 命の価値や人権についても難しいと理解しながらも考え続けようとしていました
しかし何時も何度も言ってますように麻生の言葉と 厚労省データで洗脳されていたことは事実です

麻生副総裁兼財務相は2013.1.22「終末期の高額医療費に関連し、「死にたいと思っても生きられる。政府の金で(高額医療を)やっていると思うと寝覚めが悪い。さっさと死ねるようにしてもらうなど、いろいろと考えないと解決しない」と持論を展開した。」
2013.4.24「食いたいだけ食って、飲みたいだけ飲んで、糖尿病になって病院に入っているやつの医療費はおれたちが払っている。公平ではない。」とか本音を語った

延命や大往生も出来なくなる人が多くでる 2030年問題が頭から外れなかった頃です
https://www.mhlw.go.jp/shingi/2009/06/dl/s0611-2b_0003.pdf

「うちは社会の扶養家族や」

マイクさん

これは95歳になった母清水千鶴がマイクさんのために書いた「生きる」です。
「どうぞ生きてください」というひと言と一緒に託されました。
その時のぼくとの会話です。


「マイクさんの病気はきつい病気なんか?」
「そやね。難病中の難病やって言われてる」
「余命は?」
「3年か、5年か、もっとか、ようわからんねんな」
「3年か、5年か、もっとか……」
「そうやな。ようわからんねん」
「うちはあとどれほど生きるやろか? 生きられるやろか?」
「さあ、どやろ。けど長生きしてな」
「生きられるだけ生きたいなあ。強欲やろか」
「そんなことない。長生きしてな」

母もマイクさんの投稿を楽しみにしています。もちろん出力して読んでいますが。
「この人は頭のええ人やなあ」
といつも感心しています。その母が、ここのところの「命のコスト」に関する投稿を読んでこんなことを言い出しました。
「あと何年生きるかわからん人間に、医療費や介護費を使うのは無駄なことなんやろか。ほんならうちらはどうなるんやろなあ」
このひと言を聞いてぼくは思いました。
母に限らず、マイクさんも含めての話ですが、医療を必要とする、支援を必要とする高齢者に、こんな思いをさせるのはそれに続く世代の責任だと。

マイクさんがずっと問題にしてきている、死に場所を求めて彷徨う数十万人の老人。これは老人、高齢者の問題ではなく、社会全体とりわけ若い世代がどうやって社会を支えるのかという問題だと思いました。少なくとも母の世代、マイクさんの世代は戦後この国の根幹をつくるのに非常な苦労をしたきた世代だと思っています。その世代がどういう形であれ医療や支援を必要とした時に、財政を盾にコストカットをしていいのかどうか、ぼくにはわかりません。どれほどのコストがかかるのかを算出するのは大切なことだし、それをどうやって捻出するかはもっと大変だけど、今社会はそれをカットしちゃえという方向に安易に向いていないかと不安です。

ぼくは母が生きたいだけ、生きられるだけ、笑顔で長生きしてほしいと思っています。マイクさんにもです。でも、そういう人たちが、自分たちにコストをかけるのは勿体無いから、どうぞ他に使ってくださいと言い出すことは、まさにコストカットしちゃえという人たちの思うツボではないでしょうか。

医療制度、福祉制度の主人公は社会や国家ではなく、それをつくってきた一人ひとりの人、国民なのです。主権在民とはそういう意味ではないでしょうか。母は国民としての義務をこれまでに十分果たしてきたと思います。これから先は権利として様々な制度を駆使して生き続けてほしいと思います。最後にもうひとつ母の言葉を。

「うちは社会の扶養家族や。それだけのことは十分してきた」

「生きる」の書は送りました。どうぞ実物を手にとってご覧ください。

本当は死にたくない!

マイクさん

浮き沈みを楽しむ余裕……、って(笑
お元気そうで何よりです。

さてと、今回は「共感」の問題ですね。ぼくは人が自分の思いに共感を求めるというのは、当然のことだと思っています。これは病気のあるなしにかかわらず、人の共感を求めるのは誰でもごく自然の思いでしょう。だけど「死にたい」という思いに共感できる人がどれほどいるでしょうか。「言われた周りの迷惑を考えよ」というのは、ごく自然の反応だとも思います。

しかし「死にたい」と言いやすい時代になってきたという話も、どこか恐ろしいなと思いました。それだけ生きづらい世の中になったということでしょうか。「死にたい」と同時に「生きたい」という思いもあるはずですよね。その「生きたい」という思いを「死にたい」という思いの影から引き出して、「生きたいと」いう思いを否定してしまうほどの生きづらさに共感をするべきではないでしょうか。つまり「死にたい」と思うことへの解決策を一緒に考えることもひとつですが、生きづらさにこそ共感し、それをどう解決するのかを一緒に悩まないと意味がないと思います。

マイクさんも言ってますよね。「人迷惑顧みずとは、本当は死にたくないからしてしまうのです」と。これは死にたい死にたいと誰彼なしに言いまくるのは、ほんとうは死にたくないからだと理解していいのですよね。そうやって誰彼なしに言葉をぶつけて、共感という救いを求めていたと。そこに執念を燃やしていたと。

ぼくは思います。
マイクさんが求めているのは、「死にたい!」ということへの共感ではなく、「死にたい!」と言わざるを得ない苦しみ、状況にこそ共感を求めたいのだと。
だったら「死にたいと言わせて!」の前に「なんでこんなに苦しいのだ!」「この苦しみを取り除くにはどうしたらいいのか」と言ってください。マイクさんの苦しみの根っこがどこにあるか、これを読み続けている人にはおおよそ見当がつくと思います。自分の予後への不透明感、それをきちんと説明してもらえない不信感、さらには目下の治療に対する効果の有無や継続することへの疑問……。挙げればきりがないかもしれませんね。でも、死にたいと思うことへの解決策というのは難しいかもしれませんが、苦しみや不安をもたらすこれらの問題を解決することは可能かもしれませんね。そこは大いに共感したいと思います。

特に「ほんとうは死にたくない」というマイクさんの思いに
心底共感いたします。

Re:今日は落ち込んでいましたが

マイクさん
今日はずいぶん調子が悪かったようですね。
そんな時にぼくは「頑張れ」という声はかけられないなと思います。もちろん頑張ってほしいとは思いますが、もう十分頑張っておられることを十分に承知しているからです。でもできるなら、そっと背中を押すくらいの気分で、頑張って下さいと言いたいなと思います。
以下にぼくのFacebookでのポストを引用したいと思います。

拙著を紹介していただいた。
このブログの主マイクスタンディングさんは、ALSという難病に侵されている。そうして身体の動くうちに自死、つまり尊厳死を求めていろんな発言を続けている。治療法も確立されていない、寛解の見込みもない病に侵された時、人は何をどう思うのか……。そのことを思うとマイクスタンディングさんの思いを否定することはできない。
後ろを向くな、前を向いて生きることが大切だ、と言うのは健常な人には簡単に言えることだ。それは、俺も自分がかなりステージの進んだがんを患ってはじめてわかったこと。人は誰も生と死の間を揺れて歩いている。前だけを向いて生きているという人はいないはずだ。
大切なことは、いまどのような状況で、どのような思いの中にあるかということだ。たとえその病で命を落とすことになっても、その病がどんなふうに自分の身体を蝕み、どのように症状が進行し、その時その時どのような思いになったのか。そのことを社会に発信し続けることが大切だと俺は思ってる。
誰も知らないALSという病の事実を、少しでも具体的に知らせていくことで、救われる人もいるはずだ。たとえば自分もALSだと診断されて、これからどうなっていくのか不安でたまらないという人、その家族や近しい人……。
マイクスタンディングさんは、自らにできることはそう多くないと思っているようだ。断捨離と言いながら社会との関わりを自ら捨てようとしているように思えてならない。
俺は彼に死が訪れる瞬間まで、社会と関わる術はなくはないと思っている。後に続く患者のためにも、ALSという難病と生きる姿を大勢の人に知らせて欲しいと思っているのだ。
だから俺もマイクスタンディングさんに関わっていこうと思っている。
マイクスタンディングさん
ありきたりな言い方だけど
最後の瞬間までありのままの姿で生きようよ
生きて外の世界に関わろうよ
あなたにはまだまだいろんなことができるはずだよ
そうしていっぱい話して、いっぱい一緒に考えようよ
生きる実感を一緒に探そうよ

https://www.facebook.com/office432/

ぼくの気持ちは、このFacebookに書いた通りです。
そのことを形にするために、いまいろんなことを考えています。
もう少しでお話しできると思います。急ぎますのでいましばらくお時間を下さい。