マイクに自然死せよ/ 癌も苦しまない/と言う売れっ子医師

昨日の被扶養者とは国民である
国民は 憲法11条によって 扶養者である政府に人権を保証されている
国民はその人権を 政府に改革を要求する権利を持ち 政府は応える義務を持つ
14条はその平等性を保証する
ややこしいのは 平等とは?

平等は「個人の資質、能力、努力、成果に関係なく一定の規則通りに遇するシステムとなっていること」、公平は「すべての人に対し、機会が均等に与えられており、成果を上げた者が評価され、報われるシステムとなっていること」です。

平等に課税され 平等に福利配分される?
公平に相応に課税され 公平に相応に福利に預かる?

人は多様です
多用なシステムを取り纏める至難さ
膨らむユートピアに矛盾と変化
素人マイクをご指導ください

さて今日は『「ひとの世話になってなってまで 生きたくない」とは』 のテーマに惹かれ 中村仁一医師(特養同和園診療所所長79歳)の第278回「自分の死を考える集い」月例会に参加してきました(ラジカット点滴を休んで自宅で気分転換の外泊を申請し許可される)
案内葉書には
『よく、私達は、口ぐせのように「ひとの世話になってまで生きたくない」などといいます。しかし、実際に「どこまでの世話」ということを考えているわけではないようです。今月は、現実にどこまでの世話をさすのか、具体的に考えて見ることにしましょう。』

マイクは 在宅介護で家族に世話をかけたくないので 療養先が確定しない不安で 自死を考えたくらいです
ALS患者の7割が人工呼吸器延命を拒否し 殆どが家族に世話を掛けたくないからです
米国は7割が延命すると言う
フランスではALS専用棟があるらしいが確かではない (家族に負担掛けない施設?)
欧米では延命をほとんどしないと言う話と矛盾するがよく分からない

「欧米に寝たきり老人はいない – 自分で決める人生最後の医療」
宮本顕二 中央公論新社 (2015/6/10)
約200万人ともいわれる「寝たきり」大国の日本。どうすれば納得のいく人生の終え方ができるのだろうか、医療現場からの緊急提言! あなたの選択は? ★医師や看護師も受けたくないという終末期医療 ★救急救命センターは寝たきり老人でいっぱいのなぞ ★ドッキリ! 自然な看取りなのに警察沙汰とは ★胃ろうは、つけるのも地獄、断るのも地獄? ★終末期の高齢者に栄養補給は本当に必要なのか ★だれもが医療の奇跡を享受できるわけではない ★年金受給のため終わりない延命を希望するケースも ★欧米では「点滴で生きていて何の意味があるの?」 ★ひたすら我慢させる日本の医療は、世界の非常識!? ★理想の不老不死、実はみんなが困るのでは? 読売新聞医療サイト「ヨミドクター」で大反響を呼んだブログに大幅加筆・増補!

“マイクに自然死せよ/ 癌も苦しまない/と言う売れっ子医師” の続きを読む

被扶養者が扶養者を妄想で変える

今日は 今日も 何時もの何にでもコスパなマイクに 身に迫り来る刺激を頂きました
しかもお母さんとお二人で・・・参りました 生きます そしてお母さんありがとうございます

そこで今日は 今日もズルして 頂いた清水さんのお言葉をそのまま 出来るだけ残して 不遜覚悟で マイクの言葉にしてみます

死に場所を求めて彷徨う数十万人の老人。これは老人、高齢者の問題ではなく、社会全体、とりわけ若い世代がどうやって社会を支えるのかという問題です。財政を盾にコストカットされない様にするには、どれほどのコストがかかるのかを算出するのは大切なことだし、それをどうやって捻出するかはもっと大変だけど、今社会はそれをカットしちゃえという方向に安易に向いていないかと不安です。また自分たちにコストをかけるのは勿体無いから、どうぞ他に使ってくださいと言い出すことは、まさにコストカットしちゃえという人たちの思うツボなのです。
だから、だから勇気ある老人や共感する若い世代や知識人が現実を把握し、 解決策を妄想し、政府に反発し、共感者を募り、共闘し、妄想を完成させ、アングラでもなんとしてでも実践する拠点を立ち上げ、やれたという実績を示すしか道はないのです。
国民のほんの一部でも、政治家でもこの実態を旗印にすれば、社会や国家が動かざるを得ないのです。国民としての義務をこれまでに十分果たしてきたかではなく、これから先は権利として様々な制度を打ち立て、生き続けられると思います。最後にもうひとつお母さんへの言葉を。
「うちは社会の扶養家族や。それだけのことは受けられる筈や」と言って憚らない社会に近付けるに違いないのです。
我々の世代が妄想し頑張りますので!急がないと‼️

「うちは社会の扶養家族や」

マイクさん

これは95歳になった母清水千鶴がマイクさんのために書いた「生きる」です。
「どうぞ生きてください」というひと言と一緒に託されました。
その時のぼくとの会話です。


「マイクさんの病気はきつい病気なんか?」
「そやね。難病中の難病やって言われてる」
「余命は?」
「3年か、5年か、もっとか、ようわからんねんな」
「3年か、5年か、もっとか……」
「そうやな。ようわからんねん」
「うちはあとどれほど生きるやろか? 生きられるやろか?」
「さあ、どやろ。けど長生きしてな」
「生きられるだけ生きたいなあ。強欲やろか」
「そんなことない。長生きしてな」

母もマイクさんの投稿を楽しみにしています。もちろん出力して読んでいますが。
「この人は頭のええ人やなあ」
といつも感心しています。その母が、ここのところの「命のコスト」に関する投稿を読んでこんなことを言い出しました。
「あと何年生きるかわからん人間に、医療費や介護費を使うのは無駄なことなんやろか。ほんならうちらはどうなるんやろなあ」
このひと言を聞いてぼくは思いました。
母に限らず、マイクさんも含めての話ですが、医療を必要とする、支援を必要とする高齢者に、こんな思いをさせるのはそれに続く世代の責任だと。

マイクさんがずっと問題にしてきている、死に場所を求めて彷徨う数十万人の老人。これは老人、高齢者の問題ではなく、社会全体とりわけ若い世代がどうやって社会を支えるのかという問題だと思いました。少なくとも母の世代、マイクさんの世代は戦後この国の根幹をつくるのに非常な苦労をしたきた世代だと思っています。その世代がどういう形であれ医療や支援を必要とした時に、財政を盾にコストカットをしていいのかどうか、ぼくにはわかりません。どれほどのコストがかかるのかを算出するのは大切なことだし、それをどうやって捻出するかはもっと大変だけど、今社会はそれをカットしちゃえという方向に安易に向いていないかと不安です。

ぼくは母が生きたいだけ、生きられるだけ、笑顔で長生きしてほしいと思っています。マイクさんにもです。でも、そういう人たちが、自分たちにコストをかけるのは勿体無いから、どうぞ他に使ってくださいと言い出すことは、まさにコストカットしちゃえという人たちの思うツボではないでしょうか。

医療制度、福祉制度の主人公は社会や国家ではなく、それをつくってきた一人ひとりの人、国民なのです。主権在民とはそういう意味ではないでしょうか。母は国民としての義務をこれまでに十分果たしてきたと思います。これから先は権利として様々な制度を駆使して生き続けてほしいと思います。最後にもうひとつ母の言葉を。

「うちは社会の扶養家族や。それだけのことは十分してきた」

「生きる」の書は送りました。どうぞ実物を手にとってご覧ください。