今の今だけをと 結構先を忘れていられる?

今日 病院からの外出で 家のデスクトップのメールを開くと 石田梅岩顕彰会・心学修正舎の後藤さんから 清水さんの4/27の「徒然草」に絡んでお言葉があったので転記します
マイクのブログ
https://sky.ap.teacup.com/applet/jishi/msgsearch?0str=%82%A0&skey=%8C%E3%93%A1%82%B3%82%F1&x=66&y=15&inside=1
にも告知のあった頃の沈んだマイクへの励ましの言葉があります

藤井さん(4/30)
お元気でなによりです。鹿児島の方との往復書簡も拝読。
紹介されていた「徒然草」93段を紐どいたら昔、読んで赤線を
沢山引っ張って、メモを書きなぐっていました。
以前、梅岩の「先も立ち、我も立つことを思うなり」の微妙な
先後、又は同時かを、また人間は皆 「自利」・自分が生きること
を優先する「本能」であるのに 釈尊は 「慈悲・利他」を、孔子は
「仁・思いやる心」、その強い本能「生きる」を断ち切れとはどう
言う意図か、を考えていた時だったと思います。
「徒然草」には其の外にも人間が相対の念に迷妄することに対す
る、奥深い洞察が沢山ありました。「死を忌嫌うなら 真の生を楽
しむことを愛すべし」と云う意味はー忌嫌うは死を恐れ、死に捉わ
れていることである、生を楽しむことを考えよ、の意であり、是
をビジネスに置き換えるとー注文が逃げることを考えるより、お
客様の懐に飛び込むことを考えよ、と言う意味に理解し納得した
ことを思い出しました。
人間には 過去も未来も「実」のないもので 「今」にしか「存在」は
ないと言えるかもしれません。今、生を楽しむ所に鳥獣と異なる
「万物の霊長」である人間としての「宿命・地位」があるのかもしれ
ません。無責任ですいません。
後藤一成

生を楽しめと言うのは安楽死しか考えてこなかったマイクでも納得ですが 今に生きて存在する今を楽しむべしとは理解はできても 確実に生きて楽しめなくなるとしか思えなくなる のです
先を忘れて 今の今だけを
先を忘れてが出来なくても 今の今だけを
そうありたいマイクです

最後にある 「社会の横の連携を大切に、今を楽しむ「智慧」を見出されることを願っております。」とは このブログで何度も何度も清水さんから言われても 自信がなかった言葉です

いかし今日は下御霊神社の神幸祭で神輿を御所に祀る式典を見てきて そこに袴姿の府議が参列されていたので 先に予定するイベントに来ていただきたい旨を話しました
序でに 京都市長にもALSになったこととイベント参加をお願いしました
参加はわかりませんが 一病息災だから頑張れと言っていただきました
今の症状だったらできる筈でも 落ち込んでいた頃のマイクは気力を失って頑張ることを忘れてしまったのです
横の繋がりから そのことを気付かせていただいて今があるのです
感謝感謝の余裕なのです
しかも今は結構先を忘れていられるのです

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右往左往ジタバタが続く

マイクさん

難しい問題ですね。
この問題は我々の倫理観、生死観はもちろん、政治や制度、経済のあり方まで幅広く複雑な問題を孕んでいると思います。ぼくのようなあやふやな人間が軽々に論ずるようなことではないと。
だけどこの死をどう扱うか、どう見るかについて、ぼくが大きな影響を受けた一文があります。徒然草第九十三段です。短いので全文を引いておきます。

牛を売る者あり。買ふ人、明日、その値をやりて、牛を取らんといふ。夜の間に牛死ぬ。買はんとする人に利あり、売らんとする人に損あり」と語る人あり。
これを聞きて、かたへなる者の云はく、「牛の主、まことに損ありといへども、また、大きなる利あり。その故は、生あるもの、死の近き事を知らざる事、牛、既にしかなり。人、また同じ。はからざるに牛は死し、はからざるに主は存ぜり。一日の命、万金よりも重し。牛の値、鵝毛よりも軽し。万金を得て一銭を失はん人、損ありと言ふべからず」と言ふに、皆人嘲りて、「その理は、牛の主に限るべからず」と言ふ。
また云はく、「されば、人、死を憎まば、生を愛すべし。存命の喜び、日々に楽しまざらんや。愚かなる人、この楽しびを忘れて、いたづがはしく外の楽しびを求め、この財を忘れて、危く他の財を貪るには、志満つ事なし。 生ける間生を楽しまずして、死に臨みて死を恐れば、この理あるべからず*。人皆生を楽しまざるは、死を恐れざる故なり。死を恐れざるにはあらず、死の近き事を忘るゝなり。もしまた、生死の相にあづからずといはば、実の理を得たりといふべし」と言ふに、人、いよいよ嘲る。

吉田兼好著・吾妻利秋訳

この文の眼目は3段目の「」の中です。

「死を怖がるのなら、命を慈しめ。今、ここに命がある事を喜べば、毎日は薔薇色だろう。この喜びを知らない馬鹿者は、財や欲にまみれ、命の尊さを忘れて、危険を犯してまで金に溺れる。いつまで経っても満たされないだろう。生きている間に命の尊さを感じず、死の直前で怖がるのは、命を大切にしていない証拠である。人が皆、軽薄に生きているのは、死を恐れていないからだ。死を恐れていないのではなく、死が刻々と近づく事を忘れていると言っても過言ではない。もし、生死の事など、どうでも良い人がいたら、その人は悟りを開いたと言えるだろう」

嘲る人々を世間あるいは社会と考えればいいでしょうね。
生死についてまともに議論することを回避して、そのことすら経済と結びつけて損得でしか論じられない。なんだか今の時代にもピッタリあてはまりますね。
実際に医療の現場で起きていることに目をつむり、近い将来47万人もの人が自分の最期をめぐって彷徨うことが明らかなのに何も手を打たない。
死に方の問題など、現世の損得になんの関係もない。そんなことよりもっと儲けることを考えなくっちゃ。だって金があったら死に方だって思い通りになるんだよ、と嘯く社会ですね。

これは政治の問題ではなく、ぼくら自身の問題なのだと思います。マイクさんとお付き合いさせてもらうようになってから、ぼくは自分の生死について、特に死に方の選択についてはよく考えるようになりましたが、それを社会でどう受け止めたらいいのか、個人の死を社会がどう受け止めてどう扱ったらいいのか、よくわかりません。苦しいのは嫌だ、安楽な最期を迎えたい、とは思いますが……。
どうやらぼくはまだまだ悟りなどという境地とは対極にいるようです。右往左往ジタバタが続く毎日です。