尊厳死を認めるのは中途半端?

流石の無頼の文筆家の文章の 隅から隅に痺れます
希死念慮と自死願望
闘病と逃病
確率に賭けるギャンブル と 地味に負けつずける自己破産
こんなことを考えてしまうのは 癌とALSでは死の迫り方の違いと思ってしまうマイク流シンプルシンキングなのでしょう
神様に巡り合えてからのマイクは生きていてよかったと感謝感激しています
そのことは 明日でも述べることにさせてもらい 昨日の尊厳死の続きを先にさせてください
準備していましたものですから

尊厳死の現実を知ってしまったと思った途端に 鎮静死にまで考えが広がった
これは大事なことなのです
真実抜きには病気なんぞしていられない

マイクが告知を受ける前からALSがどんな病気かは 医師からよりもネットでかなり理解し 死を覚悟するには苦労なく 不安も涙もなかった
ALS告知の後の2ヶ月は誰彼となく死にたい死にたいと共感と理解を求めて言いまくり 多くの人に心配どころか迷惑をかけました
ALS患者の死は7割が呼吸器拒否して 3年から5年と言われている
その最期の様子は 医師も語らず 余命宣告すらしようとしない

こんなことを知る由もない友人知人の励ましは 今の症状から見て 頑張れとか気の持ちようだと言うしかないのは分かるにしても マイクは自分の生き地獄を想像するだけしか出来なかったのです
78歳で充分満足し やり残したり希望を持つ訳でもなく 家族の世話をかけたくない気持ちもあって 直ぐに死ねるし 死にた気持ちだけが先行するばかりでした
それでも自死は家族に迷惑を掛けると考えると 残された現実は尊厳死しかなかった

安楽死についてブログで10年考えてきただけに 次第に客観的にかなり分かったことで マイクが病院で胃ろう拒否か呼吸器拒否のタイミングを外すと死に切れないのを覚悟して 病院で病気死することを決めたのです
そしてやっと決めたこの病院に入院してから知った現実は 先に述べた通りに悲惨なのです
しかも安楽死以外でも

ALS告知から直ぐに色々死の準備をしました
今から思うとこれこそエンジョイ・デスではないかと 一寸やり過ぎなことも真剣にしました
これはこれで改めて白状したいと思っています
その一つに延命治療拒否宣言があります
よく考えると 尊厳死とは安楽なものと勘違いしていたことを先の書き込み通りに最近思い知ったのです

尊厳死法制化を考える議員連盟が纏めた法案2012の要点は
⑴終末期の定義を「患者が適切な治療を受けても回復の可能性がなく 死期が間近だと判定された状態の期間」
⑵終末期の判断は医師2人以上で行う
⑶患者が書面などで希望し 終末期判定を受けた場合 医師は延命措置を差し控えることができる
その場合 医師は民事 刑事 行政上の責任を問われない

まず人工呼吸器は法制化されてなくとも7割が実行されているので心配ないが 胃ろうが⑴の条件を満たしているか マイクには不安要因

嚥下障害を避けるには 胃ろうだけではなく 咽頭の機能改善手術で声は残る方法と 声は失うが喉に穴を開け呼吸と食事の通りを別にする方法があります
回復の可能性とは多分曖昧で 上記のより高度な方法をやれるかどうか やれない場合は?
もっと厳しいもは 胃ろうしなくても食べなくとも直ぐ死ぬわけもありません
死期が間近だとは曖昧だから拒否できるとはならないのでは
いくらマイクが拒否しVSED(断食往生)をする積りでも

こんなことよりもっと大事なことがある
法案は 尊厳死を安楽死と変わりないくらい容易で 安らかな死に方だと言っているのではないか
尊厳死は元々安楽死の社会的批判を避けるために創り上げたマヤカシなのです
だからと言っていい加減な死に方は許せませんし 虚言で苦しめてしまうような自死幇助です
それと勧められるようなものではない尊厳死を 勧めるのは自死教唆に値する罪なのです

ぼくはいま、しあわせです

マイクさん

今日はぼくの心境の変化についてお話ししたいと思います。

鹿児島は長い雨が続いています。なたね梅雨というやつでしょうか。
こんな時は手術の痕が痛みます。身体の表に残った傷だけではなく、身体の中の傷跡もなんだか痛んでそうで、鬱陶しい時間を過ごしています。それに、痛みとともに、身体の中にひっそりと隠れている死の種子が芽吹くのではないかと、少々の不安が頭をもたげます。

希死念慮(きしねんりょ)

具体的な理由はないけれど、漠然と死を願う状態をこう言うのだそうです。一方自殺願望というのは、解決し難い問題から逃れるために死を選択しようとすることだと。
ぼくは若い頃からこの希死念慮に取り憑かれていたように思います。もうちょっと正確にいうと、いつ死んでもいいやという思いと言えばわかりやすいかもしれません。

で、無茶苦茶な人生を送ってきたわけです。大学を出てから、一度もまともに就職などしたことがなく、その日稼ぎの仕事をしながらあちこちを放浪して歩く。願はくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月のころ、などど文人を気取り、その実その日暮らしの自己破滅型の生活そのものを送ってきたのです。

それが気づくと文筆業というと聞こえはいいですが、「文屋などというヤクザな仕事に身を堕とし」(父)、最後の無頼派を自認して生きてきました。誰も頼らない、誰とも与しない、いつのたれ死んでもかまわない。そんなことを思いながら生きてきたのです。そんなぼくが、いつ死んでもいいやと思い絵に描いたような生活に堕ちていくは自然の成り行きでした。生きている実感などなく、大酒を飲み、怠惰な生活に塗れていく……。

それでも時々は、ほんとうに出所のわからない不安に見舞われ、生きてゆく行き着く先がわからないと言えばいいのか、そんな漠然とした不安でいっぱいになり、いっそのことこのままパッと消えちまうかななどと思ったことも1度や2度ではありませんでした。そんな人生を60年以上続けてきたのです。

そんなぼくを大きく変えてくれたのが、がんという病気でした。それまでのぼくなら間違いなく、いつ死んでもいいや、抗がん剤なんてどうでもいいやって思っていたはずです。が、どうしたことでしょう、死というやつが具体的ながんという形をとって目の前に現れたとたん、生きたいという思いが身体に充満したのです。間近に迫った死に恐れをなした? いえ、そうではないと思います。

「死の種子が芽吹くのではないかと、少々の不安が頭をもたげます」。これは生きることへの執着の裏返しとしての思いに違いありません。そんなふうに変化した大きな理由は、それまでひとりっきりで、無頼に生きてきたと思い込んでいましたが、実は大勢の人に支えられ、力を借りて生きていたことに気づいたことです。ぼくは生かされてきた、と。それにこんなぼくでも愛してくれる人がいることにも気づきました。ぼくは愛されている、と。

そう気づいた瞬間に、ああ、長生きしたいなと思いました。
このガンという厄介な化け物と闘おうと。たとえ打ち負けることがあってもとことん闘って、それでもダメなら死んでもいいや。それがどんな苦しい死に方でも、それでいいや。それまでは生きてみようって。そんなふうに思うようになりました。

がんという病気を得たこと。決してラッキーなことではないし、いいことではありません。でも、悪いことばかりじゃないなとも思います。ぼくはいま、しあわせです。