叱り飛ばしてくださいね

マイクさん

ここのところマイクさんの投稿を読ませてもらって、たくさんの元気をもらっています。ありがとうございます。
とってもいい感じですね。まわりの人のサポートももちろんですが、それに応えようとしてすべてを前向きにとらえようとするマイクさんの姿勢がとってもいいなって。

ぼくはといえば、少々不安に満ちた時間を過ごしています。先だってお話しした前立腺の白い影ですが、泌尿器科の専門病院を受診しました。当日再度採血をしてPSAの数値を計り直しましたが、やはり微妙に高い数値でそのままエコー検査を受けました。その結果を見て医師はこう言いました。
「前立腺はあまり肥大していないようだし、それでこの数値の高さはがんを疑うべきだろう」
ちょっとしたショックでした。おそらく自分は、このがんという病からは逃げきれないのだろうなと薄々は思っていましたが、こんなに早く次のがんの影が迫ってくるとは思ってもみませんでした。
同日のうちにMRIを受けましたが、結果はまだ聞けていません。不安で悶々とした時間を過ごしています。

そうしてマイクさんのことを思った時に、マイクさんの不安はどれほどのものだっただろう、どれほどのものだろうと思いおよんで、ぼくの不安など取るに足りないものだと自嘲しながらも、やはり不安に押しつぶされそうになっている自分が情けなく思えて心が折れてしまいそうになりました。

マイクさん
ぼくはマイクさんがとても羨ましいです。家族に囲まれ、大勢の人に支援され、その大勢の人たちがマイクさんの困難な日々に手をさしのべ、一緒に乗り越えようとしている。ほんとうに羨ましいし、マイクさんは幸せだなあと思いました。前回の返信にも書きましたが、それはすべてマイクさんがこれまでされてきた社会活動の結果なのだと思いました。ちゃんと社会に、大勢の人たちに関わってこられたということなのですね。

どうやらぼくはずいぶん自分勝手に生きてきたようです。なんだか今になって孤独な闘いを強いられているようで……。
そんなぼくがマイクさんに、社会とのパイプは閉ざさないでほしい、そのパイプ役をぼくがしますなどと、そんなことよく言えたなと、これまた自嘲を重ねています。
でも、マイクさんに関わることが、ぼく自身が社会と関わりを持ち続けるためのパイプなんだろうなとも思います。

27日に京都に参ります。29日には「ENJOY DEATH 生前葬パフォーマンス」に参加させていただきます。
大きな不安を抱えていくかもしれません。もしそうだったら、
「何をネガティブになってるんだ!」
と叱り飛ばしてくださいね。お願いします。

Re:生け贄なら喜んで

マイクさん

びっくりしましたよ。何がって、「生け贄なら喜んで」というタイトルが目に飛び込んできたからですよ。昨日あれほど元気そうだったのに、一夜明けたらまたまた超ネガティブか!と身構えてしまいました。しかし最後まで読んで、笑わせてもらいましたし、なんだか心の奥の方がホッと暖かくなりました。4人がかりで点滴をされ、笑いながら身を委ねるマイクさんを想像して、ぷぷぷと笑ってしまいました。ほんと余裕ですね。

それはきっと人を信じる、人との関わりを信じるところから生まれてきた余裕だと思いました。マイクさん自身も言ってますね「愛を感ずる繋がり」は力があることを実感したと。ぼくは思っています。人は決してひとりでは生きていけないと。大勢の人に支えられて生きているんだと。
支えてくれている人に感謝するのはもちろんだけど、だったらもうちょっと甘えてパワーをもらったらいいんじゃないかとも思います。手を借りる、知恵を借りる、何かをしてもらうだけじゃなくて、その人の力を自分の力にしちゃうんです。人一人の力なんてたかがしれてます。でもその力をたくさん集めたら、たくさんの人の力を集めたら、それは突然大きなパワーになるはずです。自分はそんなパワーに支えられてるんだと、そう思うことでずいぶん元気が出るんじゃないかな。

タブレットとこのブログは、大勢の人たちとつながるための入り口、装置にすぎません。この装置をマイクさんがどう使うか、それこそが大きな意味を持つとぼくは思います。マイクさんが言う「このタブレットに向かう時間が、希望を探す時間になっているのです」という言葉に、ぼくは希望を感じました。この装置の向こうで、マイクさんやぼくの言葉に耳を傾けてくれている大勢の人がいます。そう言う人たちの存在が、マイクさんに「希望」という言葉を使わせたのだと思います。これをはじめて良かったと思った瞬間でした。

理解し合えるのは同じ苦境を生き、同じ苦しみを共有する当事者だけだとはよく聞く言葉です。ぼくはそのことを決して否定しません。その人の苦しみはその人にしかわからない。当然のことです。当事者でない者はその苦しみをほんとうに理解することは難しいでしょう。しかし当事者でなくても、苦しんでいる人、悩んでいる人を支えられないわけではないと思います。寄り添うとは、思いやるとはそういうことではないでしょうか。当事者とそれを支えようという大勢の人たちが寄り添うところに希望が生まれると、ぼくは繰り返し言いたいと思います

どうぞ外に向かいたいという気持ちを忘れないでください。自分の気持ちを外に向けて主張するということをやめないでください。そのために用意したこの場所です。ご自分の思いの丈をあからさまに書き込んでもらえたらいいです。遠慮は必要ありません。
自分をあからさまに表現するということは、それだけ批判も受けるということになるでしょう。でもそれを恐れていたのでは何もできないということは、よくご存知だと思います。徹底的にやりましょうよ。

それでも、そこに家族や寄り添ってくれる大勢の人がいるということを、どうぞ頭の片隅に置いといてくださいね。自死をしようとして「現実との矛盾に気づき悩み悩んで決行できなかったのは、家族がいたからでもあり、また打ち明けた友人からのマイクへの愛ある叱責でした」とも書いておられます。このことはこれからも長く続くはずです。そうして「兎にも角にもマイクは多くの友人の愛で生きているのです」という状態も長く続くはずです。
大勢の人の手を借りながら、その愛を実感して生きていくのも、素敵な人生だとぼくは思います。

同じ水脈を生きる者として

マイクさん

返信ありがとうございます。
ぼくは今日のマイクさんの返信を、胸をチクチクさせながら読みました。
はじめてマイクさんに会って話をした時、マイクさんに対して「関心が湧きました。興味をそそられました」とお話ししたことを覚えておられますか? その時のぼくの本心を正直にお話ししますと、ぼくの文屋根性に火がついたことは確かです。
そういう意味では、ぼくをマイクさんとのお付き合いに駆り立てた動機はとても不純で、愛などというものとは対極にある、打算であるとか、魂胆であるとか、そういうドロドロとしたものでした。ですからぼくの行為を肯定されたり感謝されたりすると、ほんとうに胸がチクチクするのです。

でも、この往復書簡でマイクさんのどうしようもない不安や絶望のようなものに触れるにつけて、マイクさんのその思いに寄り添いたいと思うようになり、今となっては「死亡退院」の主人公敏秀を見ていたような抱きしめる思いさえ抱くようになりました。なぜかと言えば、敏秀やマイクさんが抱える不安や絶望のようなものは、ぼくが抱えているものと同じようなものであり、マイクさんとぼくは限られた命という同じ水脈を生きる者同士だというふうに思えるようになったからです。

それに、ぼくにはぼくを抱きしめる思いで見てくれている人たちがいます。そういう人たちに支えられて、ぼくはこれまで自由にいろんなことを、思い通りにやってこれたのだと思っています。この人たちの愛情や思いやりがなければ、ぼくはここまで生きてこれなかったかもしれないし、これからも生きていこうなどという気になっていなかったかもしれません。
同じ水脈を生きる者としては、マイクさんにマイクさんを抱きしめるような思いで見つめている人たちの眼差しを感じて欲しいし、愛情と思いやりを実感して欲しいと思っています。余計なことかもしれませんが、ほんとうにそう思っているのです。ここに至って、ぼくの文屋根性は儚くも消え去ってしまったのです。

ですからどうぞ本心でお付き合いください。
ぼくも本心でお付き合いさせていただきます。

マイクさん
最後の余計なひと言を、飲み込まないでください。どうぞすべてをぶつけてください。

Re:愛を信じましょう。

この交換ブログを始めてそこそこになるのですが 気にしていることがあります
それはマイクがマイクのことばかりを懸命に書き込むばかりで 清水さんの病気のことを知らないわけでもなく 気にしていないわけでもなく 不確かなことしか分かっていないので でもそう思いながら それは言い訳で ついつい自分のことばかりを書き込んでしまいます
お許しください
気配り いや愛が足りないのです

マイクは北陸生まれで 元々シャイなため 話し下手ですが聞き上手なつもりです
それがこのALSになると自分のことばかりを伝えようとしてしまいます
このブログでも同じなのです

この悲運 この特殊性は本人でないと分からないと思ってしまい お茶飲み仲間との集いでも マイク独断のデス・カフェにしてしまいました
暗い面白くもない話をするマイクに 気持ちの持ちようで直せとか言うのは良いとしても 回数を重ねると 明らかに疫病神を見る目をされたりもしました
思い違いでなく
それは当たり前なのだとマイクは理解できています
だから自分から去ったのです
彼らを恨んではいません
彼等の立場になったらマイクもそうしないとは言えません
それに今のマイクには 仲間といつもしていた茶飲話には全く関心がなくなってしまい自分のことばかりを聞いてもらいたくなっていたのです
迷惑な話だと気がついたマイクから慮って去ったのです

明らかにマイクは 家族や友人に対しても 概して冷徹なのではないかと自覚しています
でも家族からは 家族には何と言っていいか分からぬ辛い思いがあるのは 家族からの愛を 今改めて確実に感ずるからです
マイクが友人知人に満遍なく愛を注いでいるとは言えないし 誰からも愛を感ずることも普段はありませんが ALS確定以降はもうマイクとの関係は多々で また複雑なのと 次第に離れて行くように感ずることも少なからずあるのです

多分治る可能性のある癌とは違う目があるのかも知れません
それ以上はまだ深く考えていませんので分かりません

でも確実に マイクに希望を持たせようとされる方がいることをマイクは知っています
その愛に応えるだけのマイクの愛を育みたいとマイクは誓います
そうでなくとも マイクを以前に変わらず心配し メールや手紙で問いかけていただく方も沢山います
愛を感じないマイクではありません
これまで何もできていなかったマイクに 嬉しい限りです

そうです
癌には希望があって ALSには希望がないかに思っているマイクに 今日のお言葉は心を刺激していただきました
愛も希望も忘れかけていたマイクに ALSも忘れられると語られているようですね

でもでも・・・・・・(余計なひと言)マイクは・・・・

愛を信じましょう。

マイクさん

何時も甘えったれのマイクで恥ずかしい限りです

   Re:決して孤独にはさせない

人はいったいいくつくらいから甘えることをしなくなるのでしょう。ぼくは、甘えることは決して悪いことではないと思っています。これが依かかりぱなしになると具合悪いし、依かかられる側にとっては面倒臭い話になると思いますが、甘えること自体はそんなに悪いことではないと思っています。
大切なことは、おたがいを思いやるということでじゃないでしょうか。思いやりがあれば少々の甘えは、甘えられる側にとってもうれしいことだと思います。そういう思いやりの通いあう関係をちゃんとつくること、それが大切なんじゃないかな、と。

では思いやりの通いあう関係はどうしたらできるのか……。まず自分の思いを伝えようとするのではなく、相手の思いをちゃんと汲み取ろうとすることからはじめたらいいんじゃないかな。自分の思いだけを一方的に伝えようとすると、受ける側は受け取ってあげなければいけないと思えば思うほどしんどくなるんじゃないかな、って思います。だから同じくらい思いあって、同じくらい甘えあって、そのくらいがちょうどいいのじゃないかと。

もう一つよく使うのは疫病神です

    Re:決して孤独にはさせない

だとすると、マイクさんが言う「疫病神」というのは、実はマイクさんの少し多い目の思いが、マイクさん自身に魔神となって取り憑いていると思えばいいんじゃないかな。ちょっと思いが強すぎたんですね。それが、自己嫌悪の種子になってやがて疫病神という魔神の姿をとり自分自身を苦しめている。そんな感じだと。

たとえば……。ぼくは以前マイクさんが話されていたことを思い出しました。それまでは親しくつきあっていた友人、知人が、ALSという診断がついた途端に自分を避けるようになったんじゃないか、楽しく参加していたサークルに顔を出しても邪魔者のような気がする。そんな話でした。

ぼくはその話を聞いて思いました。周囲の皆さんはとてもマイクさんに気をつかっておられるのだと。だって、不治の難病だと診断された人にどう声をかけていいか、わからないのが普通じゃないでしょうか。慰めたらいいのか、励ましたらいいのか、知らんぷりをしたらいいのか……。マイクさんはありのまま、普通に扱ってくれたらいいのにと思うかもしれませんが、そうは簡単に割り切れないと思います。それだけこのALSという病気について、皆さんが深刻に受け止めておられるという証だと思います。マイクさんからそうなんだと歩み寄るだけで、状況は一変するのではないかなと思います。

それはご家族にとっても同じだと思います。ぼくは数少ない機会ですがご家族の話を聞き、これからの介護に備える構えや、心算の中に、マイクさんを疫病神のように思う気持ちなんて微塵もないと思います。家族愛ですよ。愛です。
長年暮らしをともにしてきて、いろんな感情をそれぞれに持っているわけです。ある日突然それまでの感情を水に流して、さあ新しい日々をというのは不可能じゃないかな。それまでの感情を引きずりながらも、どうするのが一番いいのかを考えるはずだと思います。
ぼくだって、大嫌いな父でしたが、それでも自分の父としてどうするのが、どう接するのがいいのか、必死で考えていた記憶があります。

マイクさんは決して厄介者でも、疫病神でもありません。それはぼくだけじゃなく、ケアマネさんやリハビリのPTさんなどから見ても同じだと思います。マイクさん、マイクさんがご家族を愛しているのと同じ愛で、ご家族はマイクさんのことを考えていると思います。その表し方は人それぞれです。でも愛を信じましょうよ。それで疫病神は消えるはずです。

まして ALSの最期や尊厳死の辛さなど 医師は語ってくれるのでしょうか

   リハと点滴より生き地獄を見ておきたい

これから飛行機に乗る、としましょう。いつ墜落するか不安で不安で仕方ないと。で、CAさんに聞いたとしましょう。

「この飛行機は堕ちませんか? 堕ちるとしたらどんな時ですか? 堕ちるとしたら、どんな兆候がありますか? 堕ちたらどうなりますか?」
と。さてCAさんはちゃんと納得のいく返答をしてくれるでしょうか? ぼくはそんな話にちゃんとした返答は望めないと思います。
「これから離陸しようという時に、そんなことをお聞きになりたいですか? それなら目的地にちゃんと着くことを願いましょう」
くらいの返答があるのが関の山じゃないでしょうか。

ぼくは思います。
不安に打ち克つのはとても難しいことだと。そして不安に立ち向かうには希望が欠かせないと。
だからぼくは希望を捨てたくないと思います。今この時も、ぼくのがんという病気と、マイクさんのALSという病気と、そのほかたくさんの難病と言われる病と、全力で向き合っている研究者がたくさんいるはずです。そういう人たちの努力の中にも希望はあるはずです。
マイクさんがはじめられたラジカットの治験も、効果は4人に1人だと言われていますが、なぜ効く人と効かない人がいるのかを徹底的に研究することで、その効果は劇的に改善されるはずです。そこに患者個人の希望はもちろんですが、ALSという病気に立ち向かうすべての人々の希望があると思います。

そうして家族の愛の中にも希望は隠れているはずなのです。
ぼくはマイクさんと一緒にその希望を見つけたいと思っています。

マイクさん
愛を信じましょう。
希望を信じましょう。

決して孤独にはさせない

マイクさん

ぼくは何よりも、マイクさんがこの場にたくさんの思いを書き込んでくれていることを、とてもうれしく思います。突然ご自宅にまで押しかけて、いろんなお話をさせていただき、マイクさんを決して孤独にはさせないし、そのためにも外の世界とのパイプにぼくを使ってくださいなどと、大層なことを話した自分を、何を偉そうなこと言ったんだろと少々自嘲もしていました。でもマイクさんがこの場を使って繰り返すたくさんの発言・発信を目の当たりにして、ああこれをはじめてよかったと率直に思っています。だって、明日にでも死んでしまいたいなどと思わせるようなことを言っていたマイクさんが、こんなにパワフルだなんて。ちょっと驚いてしまいました。

このブログ、はじまったばかりですが、予想をはるかに上回る大勢の人が見てくれています。それだけでもマイクさんは孤独ではないと言えます。注目すら集めていると言っても過言ではないかと。

マイクさんが繰り返し使われる言葉に「生き地獄」があります。思うに、症状が進行した後の閉じ込め症候群や、このALSという病がどんなプロセスをたどって、つまりどんな苦しみを味わいながら亡くなっていくのかがはっきりしない不安を抱えた毎日がこれに当たるのだろうと。それはぼくだって同じです。自分がどんなプロセスをたどって死んでいくのか。それを考えると不安でたまりません。それを解消するのは、病を確実に治すということが第一だと思います。でもそれが今の時点で不可能だったらどうか……、そう考えた時そこに残るのは周囲の人の支えではないかなとも思います。そのためにはまず、自分が抱える病の事実やそれに対するご自身の思いを伝え、理解と共有を求めていくということが大切ではないでしょうか。

きっとマイクさんは言われると思います。

「理解と共有を求めるためにも、このALSという病気の事実を正確に知らなければならない」

と。その通りだと思います。だけどぼくは、たとえALSという病気の事実が正確にわからなくとも、マイクさんの場合ご自身でもおっしゃっているように、周囲の人やご家族からすると少々ネガティブな発言が目立つのではないかと気にしています。前回の書き込みで明らかにしたように、ぼくは決して安楽死を否定する立場にはありません。マイクさんだって無条件に死にたいと思っているのじゃないということは知っています。だったらもう少しだけ、周囲の人々やご家族の想いに、マイクさんから寄り添ってみられたらどうでしょう。

マイクさんはご自宅に自分の居場所がないと、だから入院を望むのだと言っておられます。だけどぼくが聞いている話では、自宅で療養生活を送ることは可能だし、ご家族はそのように環境を整えつつあると聞いています。ただ前にも書きましたが、大切なことは現実の暮らしを維持しつつ療養生活と必要な介護を維持するということです。ここでもマイクさんから歩み寄る、寄り添うということが大切になるような気がします。
確かに、マイクさんのご家族の愛情表現は少々独特のものがあるかな、とも思います(ご家族の皆さん失礼、ごめんなさい)。でも心配し、できる限りのことをしようとしておられることに疑いを挟む余地はありません。
「生き地獄」を回避するために安楽死をという想いに100%理解を示した上で言います。ネガティブな発言をする前にひとつ深呼吸をして、周囲の人々やご家族に少しだけ歩み寄り、思いをあわせてみてください。それでやはり孤独かどうかを考えてみてください。

それからもうひとつ。ALSの原因究明や治療法確率に向けて医療の現場で大きな努力が払われている一方で、リハビリテーション工学という分野では最新テクノロジーを駆使した閉じ込め症候群の解消に向けた研究が続けられていることにも触れておきたいと思います。先だって私の知人である研究者から、閉じ込め症候群に近い症状のALS患者さんに単語発信を可能にするシステムの実験に成功したとの知らせがありました。詳しくは、日本ALS協会のホームページに掲載されています。以下からどうぞ。

http://alsjapan.org/2019/03/26/post-2211/

このように、患者さん個人の周辺だけではなく、大勢の人が決して孤独にしない、させない取り組みを前へ進めています。どれだけ時間がかかるかはわかりません。マイクさんの症状進行にそれらが間に合うかどうかもわかりません。でも希望はあるということです。それだけはどうぞ忘れないでくださいね。

一ヶ月前には遺影と辞世の句を準備

先月のこの日は「安楽自死の計画」を急がなければならない位にあやぶいマイクでした
その様子を マイクスタンディングのブログ2019.3.14の転記でみてみます

「決めていたのに全く今頃になって」
『「完全自殺マニュアル」で探して 迷惑が少なく確実なのは首吊りだと決めていたのですが 今頃になってサイトで 自殺の後処理について調べてビックリ
体から出るものが出て後始末が大変で 病院か警察で検視され 家族の負担は大きいとある
簡単には死ねないと言う事でした

それでも急ぐべきと思い今夜は 孫に着物を着たマイクの遺影を取ってもらった
それと HPの「私の解脱道」にあるマイクの辞世の句を色紙に書き込みました

太田「道灌の山吹伝説」で有名な
七重八重 花は咲けども 山吹の 実の一つだに 無きぞ悲しき
を本歌取りした

山吹の 花も実もなく ただ幹の 燈明にてや 片隅照らさん

です(幹と明は マイクのファーストネームから)

まだこの程度の余裕があるとは思えないのですが 自死しかないと思っているマイクにまたセーブが入り またまた悩みが深くなりそうです』

かなり深刻だったのですが 家族のこと考えると 世間から理解されることもない自死を マイクが選べるはずがない`
在宅療養したくないマイクにはどんな死が約束されているのか
自分の症状がどう進むのか そ以上に 生き地獄をどこで迎えるのか 先行きの見えない不安に悩んでいたのです
しかし マイクが天命をいただいていることと エンジョイデスの精神はどこかに必ず残していました

自死の3条件を満しかねないマイク

2月6日のALS確定後 ALSの特殊性を認識しても 死を覚悟することには苦労はなかった
78歳まで充分楽しんだ人生に満足し 思い残すことはありません
それより何よりどうせなら 生き地獄になる前に また家族の負担を考えると少しでも早い死をと覚悟を決めました

しかし天命としてのマイクの死に方を 詰まり 安楽死を実践するべく考えるようになると 現実には当然不可能と知ることになる
それで直ぐにでもとなると自死しかないのです

その頃のマイクは 自死しか考えられなくて 「完全自殺マニュアル」雨宮処凛 太田出版 を読み直したり その準備や遺書まで用意しました
しかし家族のこと考えると思い留まるしかないとの結論しかありません
命の電話に電話してみました
警察で自死の始末を知ろうと行ってきました
また3月24日に いのちの電話主催「もしも『死にたい』といわれたら」と題した講演会を聴講してき ました

その講演で 国立精神・神経医療研究センターの精神科医 松本俊彦氏が 「自殺」と言う言葉が言いやすい自殺社会になった 次に目指すのは死にたいと思っている人が「死にたい」と言え それを聞いてくれる人がたくさんいる社会です と語られた
マイクは「死にたい」立場で聞いたのですが 自殺願望者の心理をうまくとらえ 教えられることが多かった
自殺を否定するのではなく また聞き出すばかりでもなく 原因解決すべく支援資源にまでつなぐところまでをと
マイクの場合には 自死願望の理由は 先行きの不透明感であり 他の死に方が見つからないからで それを解決しなければ 直ぐにでも やりかねないのです

講演で松本氏は 自殺には3条件あって 潜在自殺能力(死の怖さが少なくなる)と 孤独感が高まった時と また 疼痛がある時の3条件が揃うと危ないと

マイクは腰痛持ちで疼痛状態 また死の怖さはすでになく 布団の中とか家で一人っきりの時 3条件が揃うのだと納得しました

このことを清水さんに話したら マイクには家族があり孤独ではないし 清水さんとか社会との繋がりを大切にして欲しいと言われました
ありがたいお言葉に感激し 今日今の交換ブログに至ったのです
勿論 清水さんのような神様とか まやちゃんのような仏さんの他の方からも 死にたいマイクを見守り励ましていただけるのは嬉しいのですが 本当は篭ろうとするマイクなのです
今のうちはいいのですが 生き地獄になったら篭るしかないのです

死に方の選択、生き方の選択

マイクさん

ぼくはひとつ気づいたことがあります。何かというと、マイクさんの自死、安楽死についての言及についてです。
ほとんどの人が「後ろ向き」だととらえているし、ネガテイブ思考だと指摘しているはずです。そんなんじゃダメだ、もっと前向きに生きて欲しいと。たとえALSで命の時間を限られようと、最後まで精一杯生きて欲しいと。実際ぼくもそう思っていました。マイクさんご自身もネガテイブマイクと仰いますね。

でも、ほんとうにそうなんだろうかって思っているのです。
マイクさんが求められているのは平穏な死なんですよね。いずれ死ぬってわかっているALSという病気になってしまった以上、症状が進み身体が衰え、ただじっとして死ぬのを待つより、地獄のような閉じ込め症候群のような状況になる前に、自ら進んで、安らかに死にたい。そういうことなんですよね。それなら、ありかなと。

父の話をします。
父は肺がんで亡くなりましたが、がんが見つかった時は既に手の施しようがなく、一般的にいうと余命半年だと宣告されました。父は医師の言葉通り半年を待たずに亡くなりました。その父の最期はとても壮絶なものでした。父はモルヒネの投与を拒みました。寝てるうちに死ぬのは、自分もわからないうちに死んでしまうのは嫌だと。医師は「苦しさは大変なものだ。到底無理だ、お父さんを説得してくれ」と何度もぼくに頼みました。しかし父から「みんなに囲まれて、これで最期だと自分で納得して死にたい。がんかて笑て死ねるわい」と言われた時、ぼくは説得を諦めました。父は自分の言葉通りの最期を迎えました。長年連れ添った妻、息子、孫、曾孫に看取られて、苦痛に表情を歪めながらも、一人ひとりの手を取り、頷くような仕草を見せ、最後に大きく息を吸い込み目を閉じました。ぼくは父の死を納得して受け入れました。父は後に遺る家族に自分の死を納得させようとしたのだろうか、ぼくは今もそう思っています。それどころか、最後までよく頑張ったなと、父を誇らしく思っています。元気なころは、顔を合わすと必ず喧嘩になる大嫌いな父でしたが。

父の死に方も、ひとつの死に方だと思うと、マイクさんの言う安楽死もひとつの死に方なのかなあと思いました。父の嫌がった、モルヒネで眠らせて苦痛なく最期を迎えさせる。これはまさに安楽死だと思いました。それにマイクさんからはオランダやフランスの事情も聞きました。避けられない苦しい死なら、安楽死という選択肢があってもいいのかも、と。何と言っても、当事者のつらさなんて決してわかるものじゃないと思いますから。
だったら絶望的な状況になったとわかったら、安楽死もその選択肢のひとつに加えてもいいのじゃないかと思いました。しかしここで明確にしなければならないのは、絶望的な状況とはどういう状況かということです。そこにぼくは、安楽死と自殺の明確な差異を求めたいと思います。それはおそらく家族や周囲の人々の納得ということも含まれるかと。絶望的な状況を誰が見てもそうだと思えなければ、まだまだ生きられるのに、死を選択するという余計な死や、家族に迷惑をかける厄介な死もありえるんじゃないかと。

諦めという意味では父は明らかに生きることを諦めていたと思います。その上での死に方の選択だったと思います。敏秀も、前提として病気からは逃れられないと、そこは諦めていたと思います。その上での生き方の選択だったと思います。難病であっても、重い障害を持っていても、寝たきりになって何もできなくても、生き方の選択はできる。そう言いたかったのだと思います。ぼくだって、おそらくぼくはこのがんという病気で死ぬんだろうなあという予感はあります。それでも、この病気と向き合ってできるだけ長く生きて死ぬという選択をしたいと思っています。そうして死ぬまで社会と関わりを持って、発言をし続けたいと思っています。これがぼくの生き方の選択であり、死に方の選択だと思っています。つまりぼくは、死に方を選択するなら必ず生き方を選択しなければならないと思っているのです。生きた上での死だと。

マイクさん

「闘病と逃病」ってとっても面白いと思いました。ぼくもこんなややこしい病気からさっさと逃げ出したいと思います。だけど逃げられない。じゃあどうするか、たっぷり考えないとと思います。その果てにマイクさんのいう安楽死、尊厳死という選択もあるかもしれません。ただしぼくの選択肢には自死、自殺というものはありません。
ここまで考えると、マイクさんのいう安楽死、尊厳死に限っては、決してネガテイブでもなく、後ろ向きでもなく、選択肢のひとつとしてとらえなければならないと思いました。その上で、生き方の選択とセットにして考えなければならないとも思いました。

マイクさん

この場所をどうぞお好きなようにお使いください。そうしてぼくに考える材料をたくさん見せてください。ぼくにもやがて死が訪れます。ぼくがぼくなりの生き方をしてぼくなりの最期を迎えられるように、たくさん考えるチャンスをください。

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Re:マイクは即身仏を夢みる

マイクさん

リハビリの様子を見せていただきました。今のマイクさんが、嚥下がし辛く、食事に時間がかかること、誤嚥しかけてむせるととんでもなく苦しいこと、だから食事にとてつもないエネルギーが必要なことなど、ようくわかりました。そういったことも愚痴やネガティブな考え方の原因のひとつなんだなあと。

このまま経口で食事ができなくなったら、胃ろうは拒否すると言っておられましたね。それも緩やかな自死だということでしょうか……。

マイクさんは自死の条件に、死が怖くなくなる、耐えられない疼痛がある、強い孤独感があるという3つをあげられています。前の2つは仕方ないとしましょう。個人的な感じ方の差もあるでしょうし。でも、孤独っていうのはどうかな。ぼくはマイクさんのくらしを垣間見て、決して孤独じゃないと思いました。家族の皆さんに囲まれて、必要なサポートがあって、大切にされているじゃないですか。

たしかに家族それぞれに仕事や生活の在りようが違うわけですから、マイクさんが絶対的なメインになるのは難しいかもしれません。でも暮らしのシフトはマイクさんの療養のために、という方向になってるんじゃないかなと思います。

自分でできることは自分で、できないことは家族の手を借りて、家族でカバーできないことは公的な介助の手を借りて。とてもシンプルなことだと思います。家族にあまり手をかけてもらえないことを、自分は厄介者だ、迷惑をかけているんだと嘆く療養者もたくさん見てきました。だから私は孤独だ、と。居場所がない、と。

大切なこと、かつ大変なことは暮らしを維持することだと思います。在宅での療養で、そこがいちばんの問題になるんじゃないでしょうか。経済の問題もそうですが、ルーティンの暮らしを維持するということがいちばん大変なんだろうと思います。働く人は普通に働く、学校へ行く人は普通に通い勉強する、つまり当たり前のことを当たり前に続けるということです。

そういう暮らしの中に、誤解を恐れずに言うと、療養を、介護を持ち込むわけですから、少々の軋轢、摩擦が起こっても仕方のないことだと思います。それを自分は邪魔だ、居場所がないととらえれば孤独になるし、逆に自分のために出来る範囲で頑張ってくれていると思えばうれしい気分になれるんじゃないでしょうか。

結局ものは取りよう、考えようだと思います。マイクさんの居場所は間違いなく、いまの場所、家族の中だと思います。そして決して孤独じゃないと思います。

それにぼくは、決してマイクさんを孤独にはさせないと思っています。