尺度は妄想の手段です/尺度音痴?

昨日のマイクは自分のことをまるで誇らしげであるかの様に身障者ぶってしまいました
そんなこと言ってよかったのかとの思いがしているのにです

身障者の級判定について 下半身重視すぎるのではと言うマイクの受け取り方が 正しいかどうかは無責任ながら推測でしかありません
しかしマイク本人が障害者と実感するのは事実で それまでの生活や仕事・遊びでの身体的満足度に比べ相当に不具合を感ずる様になっているからです
健康な時のQuaity Of Life を 100とするとあの頃のマイクは腰痛だけでも50になるほど辛く感じていて それにALS構音障害が加わって30減に 更にALS右手指の不自由で 10減に実感して 身体的QOLは10に低下していました
QOL 10では まるで生きた心地せず 完全に障害者意識でした

ところがマイクの今は一見 あの時の3倍の30くらいに 或いはもっとに 元気が出ている様に見えるかと思いますが 実は腰痛でのQOL 減が30に改善されたのに 構音障害が40に増え 右手先不自由も20と倍にきつくなっていて 身体的QOL 10は変わっていません

こう見ると 本当に危なかったあの頃と ハッピーハッピーな今の身体的QOLが同じ10であっても 見掛けのマイク つまり 精神的QOL は雲泥の差なのです
あの頃の精神的QOL は恥ずかしくも10以下で点の付けようもなかった心身共に 死に躰だったのです
或いは あの頃はまだ身体的に50はあったのに 精神的影響で 見掛けが10に落ち込んでいたのだと思います

ここでこの QOL とはとは一般に ひとりひとりの人生の内容の質や社会的にみた生活の質のことを指し つまりある人がどれだけ人間らしい生活や自分らしい生活を送り 人生に幸福を見出しているか ということを尺度としてとらえる概念でですが 色々の尺度がある様で 人夫々に価値が違うとしか言いようがないでしょう

病院での命の管理尺度として最も簡単なのは バイタルサイン(生命の兆候)です
脈拍・呼吸・体温・血圧・血中酸素飽和度・排泄有無くらいなのに 大袈裟にもこれらをバイタルチェック表に記録管理する
勿論重症患者にはもっと詳細なデータが

生活する質を尺度にすることで 療養や回復の改善具合を捉える ADL評価activities of daily living があります
日常生活活動度(ADL)とは 人が生活を送るために行う活動の能力のことです
基本的ADLとは移動・階段昇降・入浴・トイレの使用・食事・着衣・排泄などの基本的な日常生活活動度を示すもので 質問票により判定 認知症とかにも
手段的ADLとは高次のADLで 買い物・食事の準備・服薬管理・金銭管理・交通機関を使っての外出などのより複雑で多くの労作が求められる活動を意味する(日本老年医学会)

ALSに関連しては同様な尺度に ALSの重症度類(ALSFRSーR)(ALS Function also rating scale revised)があります
アンケートで1から5度を決める(新参者のマイクは2度以下で発症2年以内のラジカット点滴要件を満たすと判断されて受けた)

身体の健康状態評価に この程度の尺度と利用方法しかないのは実に寂しいと思うマイクです
ALSの効くか効かないか分からない高価な薬の効果を 血液検査のような分かりやすい尺度で知りたいものです
もっと患者の生活の質から 人格までも 精度はとりあえずとしても 尺度で捉えたいものです
更には命のコスト(原価)までも 捉えたいマイクです
コストを限定的にでも尺度で捉えれたら プライス(価値)は環境とか需要とで様々であることを前提として 試しとして利用すればいいのであって 障害者認定や 延命措置判断材料などに 誰でもが納得合意できる尺度ができるかも知れないのです

老後2000万円問題で馬鹿な討議をしている日本人はお笑いです
余分な金がなければ貧乏でも豊かな生活をすればいのです
あの程度の解析でも 何もないよりも多くを妄想させて老後を想像し考えさせるシミュレーションの資料になるのです
妄想嫌いの現物直視しかできないイチャモン付けばかりの日本人でしかないことを 恥じとも思わないとは情けない限りです

それより 2017年度末の家計の金融資産残高は 1,829兆円となり年度末の残高としては過去最高となる
しかも老人がガッポリ
現金は日本53%EU33%米13% 金ためる必要のない先進国
こんな話はどうしてタブーなのか 貧しい後進国だと誤解される?頭まで?

お世話になって「生きてます」

「生きる宣言」の後 「世話になるならない」が続いたので 今夜で締めます

世話になるくらいなら
誰に
家族や社会からも
何を 何処まで 最後の最期とは
邪魔したくないから
家族の生活を?それだけで?

色々あるにしても 諦めないこと 詰まり「生きる」ことこそ原点なのです
例え自死願望であった頃のマイクでも 「生きること」を真剣にメメント・モリした結果が今にあるのです

マイクが安楽自死しか考えていなかった始めの頃からの思いを
「世話になる」で ブログ内検索すると次のように 8件あります(「世話に」では27件)

https://sky.ap.teacup.com/applet/jishi/msgsearch?0str=%82%A0&skey=%90%A2%98b%82%C9%82%C8%82%E9&x=59&y=12&inside=1

それを見返し見て 気になる中身を拾って見ます

2018/9/23 早めに別れて ひとり者になった方が 誰に遠慮することもなく最善の最期を迎えられる筈です

2015/2/16 終末期やそれに近い老人には トリアージタグを貰えない程の老人を延命処置することになる
余計なお世話になるでしょう

2014/5/23 生活死(健康寿命が尽きて)の後 生物死(臨終・寿命)までは 医療ビジネスに貢献する神様としてのお客様であり 皺寄せは他人様に降りかかるのです
麻生がさっさと死んで欲しいというのも尤もですが 安上がりに最後を楽しむのもアリなのです

2012/8/25 親族や国費でこれだけの世話になる価値がある命なのか如何かを考えることが如何してタブーなのか マイクには分かりません
生きている価値がなければ直ぐに死ぬべきとは思いませんが 考えるだけはすべきだと思います(認知症のコストデータも)

勿論 命の価値や人権についても難しいと理解しながらも考え続けようとしていました
しかし何時も何度も言ってますように麻生の言葉と 厚労省データで洗脳されていたことは事実です

麻生副総裁兼財務相は2013.1.22「終末期の高額医療費に関連し、「死にたいと思っても生きられる。政府の金で(高額医療を)やっていると思うと寝覚めが悪い。さっさと死ねるようにしてもらうなど、いろいろと考えないと解決しない」と持論を展開した。」
2013.4.24「食いたいだけ食って、飲みたいだけ飲んで、糖尿病になって病院に入っているやつの医療費はおれたちが払っている。公平ではない。」とか本音を語った

延命や大往生も出来なくなる人が多くでる 2030年問題が頭から外れなかった頃です
https://www.mhlw.go.jp/shingi/2009/06/dl/s0611-2b_0003.pdf

被扶養者が扶養者を妄想で変える

今日は 今日も 何時もの何にでもコスパなマイクに 身に迫り来る刺激を頂きました
しかもお母さんとお二人で・・・参りました 生きます そしてお母さんありがとうございます

そこで今日は 今日もズルして 頂いた清水さんのお言葉をそのまま 出来るだけ残して 不遜覚悟で マイクの言葉にしてみます

死に場所を求めて彷徨う数十万人の老人。これは老人、高齢者の問題ではなく、社会全体、とりわけ若い世代がどうやって社会を支えるのかという問題です。財政を盾にコストカットされない様にするには、どれほどのコストがかかるのかを算出するのは大切なことだし、それをどうやって捻出するかはもっと大変だけど、今社会はそれをカットしちゃえという方向に安易に向いていないかと不安です。また自分たちにコストをかけるのは勿体無いから、どうぞ他に使ってくださいと言い出すことは、まさにコストカットしちゃえという人たちの思うツボなのです。
だから、だから勇気ある老人や共感する若い世代や知識人が現実を把握し、 解決策を妄想し、政府に反発し、共感者を募り、共闘し、妄想を完成させ、アングラでもなんとしてでも実践する拠点を立ち上げ、やれたという実績を示すしか道はないのです。
国民のほんの一部でも、政治家でもこの実態を旗印にすれば、社会や国家が動かざるを得ないのです。国民としての義務をこれまでに十分果たしてきたかではなく、これから先は権利として様々な制度を打ち立て、生き続けられると思います。最後にもうひとつお母さんへの言葉を。
「うちは社会の扶養家族や。それだけのことは受けられる筈や」と言って憚らない社会に近付けるに違いないのです。
我々の世代が妄想し頑張りますので!急がないと‼️

徹底的に妄想を!

マイクさん

ぼくはどんなにコストがかかっても、助けたい命があり、救わなければならないのが社会だという論点に立っています。
そういう社会でありたいということですね。コストを否定しているわけではありません「命のコスト」から、どんな社会が望ましいか、どんな制度が望ましいかという議論になれば面白いかなあ。救いたい命のためのコストを社会全体でどう分担するか……。福祉の全体像みたいな話ですが。目指すべき社会のあり方も遠くに見えているような気がします。

でも、「救いたい命にかけるコスト」という表現は捉え方によっては違和感を感じる人もいるかもしれませんねえ。
たとえば「救いたい」と「救いたくない」の選択の話や、ぼくが思うように「命」に対して「コスト」という表現が適切かどうかというところですね。
たとえその先に社会や福祉の理想像があるあったとしても。

それに「救いたい命」の対極に「救いたくない命」「救う必要のない命」があるのかと指摘する人もいるでしょう。
その指摘に対しては、「たぶんぼくは、すべての人の命を救いたい!と思う」と答えたいと思います。
というか、生きたいと人が思うさま生きられない社会の矛盾をただしたい、と。

そうかと言って、死にたいという人を、簡単に死なせたくはないとも思います。
死にたいと思う理由、原因を見極めて、それを改善の方向に持っていけるような社会を目指せないのかということです。
「妄想ラジオ」では、そういう妄想を徹底的にしてみたいと思ってます。

救いとしての安楽死や尊厳死の判断も難しいですね。でもそこも妄想したいと思います。極論が出てくるかもしれませんが、極論を楽しみたいとも思います。思うに、誰もが言いたいことが言えない世の中なんじゃないかな。マイクさんみたいに言いたいこと言ってる人は珍しいと思います。だから極論で議論することも時にはいいかもって。
今流行りのプラグマティズムのような、現実にがんじがらめにされた議論は、結局何も生み出さないんじゃないかと思っています。
現実から離れた所の議論を自由に、活発にすることだけでも、なにがしかの意味があるのではないでしょうか。

コストあってのプライスレス/安楽自死支援施設

マイクもそういう社会であって欲しいと思います

しかし 昨夜の最後を繰り返しますが「命に値段などつけられない、つけるべきではないと言う見解はずっとありました。それはつまるところ、実際はそうせざるをえないけれども、それを認めることはできないという意味です」と経済学者のルイーズ・ラッセルに言わしめた現実が 日本の途轍もない大勢の高齢者に迫ってくるのです

厚労省の今後の看取り場所(2006)がマイクの原点です

https://www.mhlw.go.jp/shingi/2009/06/dl/s0611-2b_0003.pdf

83%が65歳以上で 病床を減らし 在宅死を増やしたい厚労省・財務省でも そんな幸せな家族はほんの一握り
僅かな老人施設にも入れないその他47万人が彷徨う残酷さを見過ごしたくないのは 誰にしても当たり前のことですが 余りにもデカイ人数・割合と その殆どが 恵まれない老人であろうことを憂わざるを得ないのです

杉浦敏之 幻冬舎(2017/2/28)にある「死ねない老人」のために 看取りの施設を と考えてきたマイクです
高齢者ビジネスとして プライスレスでも儲かるまでの施設なのですが わずかな施設の赤ちゃんポストのような困難があって然るべきではないと思います

まず始めは 赤ちゃんポストのようで ホスピスのような小さな そういう会社であって欲しいのです

そういう社会であって欲しい

マイクさん

命のコストの問題は、経済効率最優先のこの社会では、どうしても考えざるを得ないテーマですね。障がい者や高齢者の支援や介助に「サービス」という言葉が使われていることが、その典型でしょう。生きることにもお金がかかる社会、時代ですね。それは否定しません。ぼくががんの治療をしながら生きていくにもそれ相応のお金が必要だし、保険制度という社会システムに頼り、社会全体で支えてもらっていることも事実です。それを認めた上で、ぼくは思います。

ぼく自身の生きていく価値は、生きていくためにどれだけのお金が必要かというコストでは測られたくないと。
ぼく自身の生きていく価値は、ぼく自身で決めたいと。そうして自分の価値を他者との比較するのではなく、これがぼくなんだと自信を持って生きていきたいと思います。

以前NHKの「病院ラジオ」という番組の話をしたことがあります。
人気コントコンビのサンドウィッチマンが、東京・世田谷区にある、子どもに関するさまざまな病気を診る国立病院に出向き、2日間限定のラジオ局を開設。入院しながら難病に向き合う子どもたちや、闘病するわが子に寄り添う家族の、日ごろ言えない気持ちを、リクエスト曲とともに聞いていくというものでした。

その中でとても印象に残った男の子がいました。繰り返しになりますが、彼の話を。
その子はわずかでも紫外線に曝されと皮膚がんを発症する恐れがあるという難病と向き合っています。UVをカットする顔まで覆う帽子をかぶり、その上に日傘をさし、服は長袖、長ズボン、付き添っていた父親は、夏がかわいそうだとつぶやきました。

男の子は友だちからきかれたそうです。
「なんでそんな帽子をかぶってるの?」と。
男の子はその問いにすぐさま答えたそうです。
「これがぼくだもん」と。
この何気ないやりとりの中に、ぼくはこの男の子の勇気をものすごく感じました。ちゃんと自分を受け止めて生きて行こうとしているなと。難しい治療を続けながら、その上で不自由な生活を続ける。外で友だちと遊ぶこともできない……。でもそれがぼくなんだと。

「これがぼくだもん」
そのひと言は自分と向き合う力に溢れ、前を向いて生きていく自信を感じさせてくれました。
どれだけのコストをかけても、彼を救いたいと思うのは間違いでしょうか。間違いだという人がどれだけ多くても、ぼくは彼を救いたいと思うし、そういう社会であって欲しいと思います。

付加価値を覗き見る為のコスト

一昨日投稿の「命のコスト」はカール・ベッカーの発想に刺激されたと 昨夜 清水さんのラヂオ・バーン出演の最中のご多忙をいいことに 「ベッカー」についての見解をどうしても続きとしてお話ししたく 長文で投稿してしまいました

今夜もお忙しいのは当たり前でしょうと勝手に思い 「コスト」という言葉の使い方に 気になることがあったのでまたも連続投稿をと 日曜外出から戻ってきましたので 今からシツコイですが 一寸付け足しします

サイト検索で「命のコスト」は殆どなく「命の価値・値段・価格・プライス」としての見解や応用が多く見られます
詰まり 「命のコスト」は ベッカーのオリジナル発想でもなんでもなく 但し そんな発想をすべき時代がくると予測しただけなのかも知れません

それでもマイクは コストを原価と捉えるていて 何にごとにもコストを定量的に把握することが大事で しかも出来ると思っています
難しいのは コストに加え得る付加価値が何であって どう評価されて価値が決まるかです
価値は環境や個人個人の多様さに任せるべき定性的なことが多いので難しさや見解で違いが出るのです
マイクは プライスレスであっても コスト把握した上での見解の理由に関心があるのです
その理由の中に 人間の匂いを嗅げると思っています

最後に 命の価値のサイトにある内容を紹介して終わります

人々に金額をつけるという発想に私たちが嫌悪感を覚えるのは、近代的原理と一致するものだ。すなわち、「国連世界人権宣言」などの文書にまとめられたように、人命はみな平等であり、願わくは、平等に「プライスレス」であってほしい、という原理だ。
https://courrier.jp/news/archives/70188/から以下抜粋転記します
現実には 19世紀半ば、米国南部諸州で奴隷制が廃止される以前、「最高級の男性農業労働者」は1100ドルほどで売買されていた。いまなら3万ドルほどだ。

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厚労省と麻生と赤ちゃんポストとベッカーに刺激されて

昨日は本当によく寝付き 今日の京都は夏日とかでも 病棟は爽やかです

今夜の清水さんは7時から鹿児島のMBC Radio Burn に出演し この往復書簡を話題にしてくださっています
多分今夜の返信はお疲れで無理と思いますので マイクが 昨日の面白くもない「命のコスト」に更に言い訳みたいな またも長文を追加させて下さい
サイトアクセスダウンにならないかと心配ですので 済みません 飛ばし読みして下さい

昨日の「命のコスト」の提唱者はカール・ベッカーさんです
そのアイデアに惹かれ また失望したことを

「ベッカーさんに不満」

元々 マイクが須原一秀の著書「自死という生き方」を批判するために始めたマイクのブログ(2008〜)が 次に自分の理想の死に方を考え出し 次々に現れる終活本を紹介してきました
それが麻生の「老人はさっさと死ね」発言 (2013)と 厚労省の「今後の看取り場所」(2006)と 「赤ちゃんポスト」(2007〜)に刺激され 死は個人の問題を超えて 高齢社会には安楽死センターがあるべきと発想したのです
それを論理的根拠としてカール・ベッカーの「命のコスト」発想に共感し 持論を発展させようとしたのです

そのベッカーも 保身的に倫理問題を数字で論ずることを避けてしまったのです
そのようなことで マイクの個人的で拙い妄想でしかありませんが 安楽死センターの必要性を 世間に分かりやすく説得できる一助になればと 継続して考えようとしてきたのです

今年2月の告知が即 終末期宣言ともなるALSと確定しました
死について人並み以上に考えてきたマイクには 確実に来る死を 不思議なくらい容易に受け入れることができました
それよりも この事は 安楽死を自分の為のものと考え直し 安楽死を実践せよとの天命として受け入れました

命をコストで考える事の不遜さは 充分に意識している積もりですが 単なる比較にしても 判断材料にするべきものではなく目安の側面としての可能性があればとの思いなのですが 具体的な事は何一つできていません
ベッカーさん追悼の意味で また安樂自死センターを継続して考え直すために ブログで「ベッカー」検索した順に マイクの煩悶を見返ししたく思います

*****ベッカーを知ったのは
2012/6/9「ラジオで終焉をテーマに」(終活本紹介)

ラジオ深夜便は 毎晩 悩み多く眠れぬマイクの癒しと刺激になっています
今朝の4時の心の時代は 京都大学・こころの未来研究センター教授 カール・ベッカーさんが 「理想の終焉」を見つめてと題して 理想的な死に方を語られた

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向き合うことは好きだったのに/命のコスト

今日からラジカット(ALS 対応2種類の一つ)の点滴の第2クール10日間の点滴が始まった
その後は退院か継続かは 怖くてまだ未確認です
このまま棲みつきたいような そんなことさせてくれないのではないか 退院の方が楽しいのではないか まだ決断も了解もつかないくらい住み良いのは間違いない

今日もリハビリ3種類あり 風呂もあった
看護学校の実習生のお相手もあり 結構忙しいのはいいのですが リハビリだけでなく風呂場も付き合う熱心さで 背中ぐらいは実習させてあげなければと洗って貰いました

もう一つ今月の12日は 近代介護を築いたナイチンゲールの誕生日で 看護学校の1・2年生20人がコーラスで慰問されました
中に3〜4人が 重症の患者に泣きながら歌う生徒さんがいてたのですが 誰かが その純真さも色々知ったベテランになると こんなんになるんやと看護師と笑い合っていた
それくらい毎日毎日の職場を見る患者の方もお互い冗談なしではの現場なのです

そして今夜頂いた清水さんからのお言葉にハッと気付いたことがあります
それは前々から納得できていないのにそう信じようとばかりしてたことです
ネガティブマイクから脱出するために 何も考えずにただ「成るように成る」「あるがままに」ALSを受け入れようとしていたことです
そうではなく ALSにただ「向きあう」だけのことだと言われてやっと気付きました

お風呂も良かったが 今夜は もともと何にでも向き合うのを恐れないマイクなのに ただ考えることを放棄することだと誤解していたことから解放されて とてもいい気持ちで寝られます

序でですが 多様な命に価値判断することの意味に否定的な清水さんを知りながら いつかご意見をお聞きできると思い準備していたものを蛇足の多い文で 纏まりのないのを省みずそのまま追加します

「命にコスト?」
このテーマは 色々の側面から命を捉えるために カール・ベッカーに刺激され 何度も考えてきましたが 具体性のある結果には至っていません
マイクのブログのブログ内検索「ベッカー」で23件あります 「命のコスト」では 15件ありますが 難問のままです

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プライドの守り方

マイクさん

昨日の書き込みで マイクが生き地獄になった自分を卑下するような人間であることを白状しました
しかも まだ生き地獄とはどんな状態をマイクが思い込んでいるかも分からず 唯なんとなく惨めな自分を想像するだけなのに

で、辛いというマイクさんの気持ち、よくわかるような気がします。自分が実際どんなふうになるのかわからないけど、どうやらそれは生き地獄のような状態らしい。そうなったら自分も惨めだし、家族の負担にもなるし、それならそうなる前に……。マイクさんの中では至極当然の帰結だと思います。

QOLを弱者や他人だけでなく、自分自身の元気な時と生き地獄になった時とで絶対値比較で捉えようとするのもうなずけます。ただし命をコストでとらえることについては以前同意しかねる旨の書き込みをしましたので、ここで再び書くことはやめておきます。

ぼくは、自分のことにかぎって言うなら、絶えず二項対立の間を揺れて生きていると言っても過言ではありません。

生:死
強:弱
若:老
動ける:動けない
健康:病気
惨め:立派
……

この延長が自分の外に出た時、他者に対する同情、見下し、シンパシー、アンティパシー、さらには区別、差別などという感情に繋がっていくのではないかと思っています。すべては自分の中の好まざる自分への見方の投影だと思っています。

マイクさんの同室の患者さんへの見方は、まさに

ちゃんとしたマイクさん:生き地獄のマイクさん

という二項対立がそのまま投影された結果だと思います。マイクさんが「生き地獄になった自分を卑下するような人間」だと吐露されている通りです。

マイクさん
これから先、マイクさんがどのような予後が待っているのか。マイクさん自身がどのような道をたどるのか、準備としての知識の蓄積、心算としてはっきりしたいというマイクさんの気持ちは痛いほどわかります。しかし他者の姿を見て想像することはひとつの手段ですが、マイクさん個別の状況をきちんと前提にしたマイクさんの道を、主治医の先生にちゃんと説明してもらう必要があると思います。

もちろんすでに、主治医の先生にはおたずねになっているでしょう。これはぼくの知人である医者の言葉ですが、「そういう予後の説明はしにくいもんだ。あくまでも一般的なコトしか説明できない」と。でもそれでは死に方の選択ができないじゃないか。それがぼくの感想です。ちゃんと生きて、自分が思い描くような死に方を選択するためには、どうしてもそれを知らなければならないし、知る権利があると思います。逆に医療側にはそれを説明する義務があるのではないでしょうか。

ある意味医療の現場に波風を立てるかもしれませんが、マイクさんの辛さを取り除くにはそれが大前提になると思います。ちょっとした闘いになるかもしれませんが、自分自身がこの先どうなっていくのかちゃんと知っておきたいというのは当然のこと。それを訴え続けましょうよ。それは生き死にの問題だけではなく、家族への介護負担をどう軽くするか、どのような終末医療が受けられるのか、そういう問題も含めてですね。そこには目下の医療制度や、介護制度、行政の対応なども含めての話になるかもしれません。

多分、プライドというのは、そうやって徹底的に闘ってこそ守られるものだと思います。