スローペース/こんな事でスーパーになれるか?

清水さんが「同じ水脈」と言われる意味を考えているうちに5日もゆったりした時間を過ごしてしまいました
この間 心境が少し変化しているかも知れません

その前に「同じ水脈」についてマイクも妄想してみます
この世の中が理想郷を求めているからこそ 人間の歴史には紆余曲折があったにしても進歩を歴史に見ることができます
地球の生物が 長い時間を経て進化しているのは 生物の進化系統図が証明しているのですが そのシステムが「突然変異による多様性の自然淘汰」だとするのは動物だけで このシステムだけでは絶滅の危機は避けられないのも事実です
人間には 自然淘汰に加えて 人と人の繋がりをより強くするシステムとして 王者ライオンの子育てのような「優生保護」と 孤独な狼などの「棲み分け」と 群れを作る弱い者・植物にまで見られる「共存/共生/協調」を意識する事を覚え それらの選択を時には学習して「世間」を作ってきた結果の進歩なのです

マイクはそう考えてユートピアとは何か?はあるか?を考え 優勢保護の持つ意味(絶対悪か?)を知ろうとし 多様性を棲み分けることで保つべきか? 共生に限界がありや? など 随分昔に「マイクスタンディングのHP」で 「マインドイノベーション」のテーマの一つにして考えてきた事なのです
(マイクが中々悩んだもう一つの「ユートピア」と同じようなテーマは「民主主義はあるか?」です)

「同じ水脈」とは 社会全体のこととではなく ほんの少しでも繋がりのある範囲という意味の「世間」のことだと思います

国家社会には優秀な人材を必要とし社会をリードして理想世界に導いて欲しいものです
(歴史には これを完全否定した史実が多数の国にあります)

世界には自治権を尊重した棲み分けで治まっている国も多いのです(合衆国・自治国)

しかし世間と言う眼の届く範囲では 差別は見たくないものです
世間は必ずしも公平ではありませんが 世間は平等でなければなりません
そうでなくとも自由博愛も備わって そうありたいものです
同じ水脈に生きるものは平等でなければなりません
そしてまた実際の社会の世間は多様であり また多様に構成されてあるのです
現実 あることではある仲間 あるところでは別のグループと渡り歩く変身者にもなれる
それらの世間はこのように棲み分けられることで格差を閉ざし容認することで 多様性と共存することができてい複雑な閉鎖社会でもあるのです

では世間の中にも多様性と自由を保ったっまま平等を権利として主張できるか
お互いが見える世間では 死にかけの人でも生きる権利がある事を否定しない博愛を示すのが世間での共存の条件なのです
妄想は中途半端ですが マイクに纏める力がありませんのでここまでにします

最後に 初めに言いかけた心境の変化というのは マイクの自立生活プロジェクトの思考が進展していないことです
8月末に退院を決めたので プロジェクトのタイミングにピッタリなのですがこれをチャンスとはいかないお尻の重いマイクに自分ながらがっくりしているのです
それは借家調査ぐらいは始められるにしてもこの暑さでと言い訳したくなりますが そうではなく 体の力が全身落ちてきた感じが強く それ以上に球麻痺が進行しているのに何故退院?と言う疑問も重なっているのです
でも退院後でも歩けない訳でもなくしたいこともある筈なので 決心は決まっています
しかし次のマイクの症状の予測がつかず 再入院や胃瘻の説明が全くないのです
と言うのは人工呼吸器の気管切開にしても色々のケースがあり事前に知っておかないといけない事を他の患者から知りました

でもこんな程度のことですのでご心配入りません
でも確かに言えそうなのは 始めの入院以来のハッピーラッキー続きも退院まで?

ぼくらは同じ水脈を一緒に生きている

マイクさん

「異物を受け入れないなんて」という言葉に、思わず反応してしまいました。異物を受け入れられてないのは、ぼくだって。いや、異物というより、もうひとつの自分といってもいいかもしれません。「がん」のことです。

「がん」は自分にとって異物であり厄介な「悪」なのですから、受け入れられなくて当たり前かもしれませんね。でもね、それでも自分の一部なのです。これが性格ならどうでしょう。人から「君は性格が悪い」と言われたとしたら、「何を言ってるんだか、お互い様じゃないか」などと笑ってすませたり、言われちゃったとしょぼんとしたり、仕方ないなと諦めたり、見抜かれちゃったとどきっとしたり、ああ自分が嫌になっちゃうなと思ったり、いろんな感情は持つけれど、まあ自分は自分だとそれなりに折り合いをつけて生きていけるものじゃないかなとも思います。性格が悪いっていうのも、人から見た自分の側面のひとつですから。

でもね、これが「がん」となると、紛れもなく自分の細胞のひとつ、自分の一部そのものなのに、まったく受け入れられない。当たり前です。命に関わる問題ですから。でももうちょっと突っ込んで考えてみると、性格が悪いっていうのもひょっとしたら命に関わる問題かもしれない……。でも「がん」の方がはるかに深刻だと誰もが考えます。で、その悪を排除する。異物は排除しないと、と。

でも「がん」ってほんとうに異物なんだろうか? 悪なんだろうか? そう考えた時、それが自分の一部だと思うと、自分自身を異物だ、悪だと否定しているような気分になってしまいます。

これを社会に置き換えたらどうなるか。マイクさんの投稿を読みながら考えてしまいました。
自分とは異なった外見、感情、意見を持つ人を、「異物」「悪」だと決めつける窮屈な、狭隘な社会になってしまっていると感じるのはぼくだけなのでしょうか。「がん」の例えで言うと異物を否定するということは、自分自身を否定することに他ならないのに。

そもそもぼくたちが暮らすこの国は、太古の時代から大陸の東の果てで様々なもの、文化、人々を受け入れながら歴史をつないできた社会だったんじゃないかと思います。異物を受け入れて、自分たちのものにする、そういう社会、歴史だったんじゃないかと。
だとすると、マイクさん流にいうと、異物=マイノリティこそが、この社会、歴史、文化を豊かにする原動力だったと言ってもいいんじゃないでしょうか。

「がん」だって排除するだけではなくて、排除するたびに心に得るものがたくさんあります。筋ジス患者轟木敏秀さんは、かつてぼくに、動かなくなる自分の身体を指してこう言いました。
「失うものがあっても、まだ得るものはたくさんある。何かひとつできなくなると、何かひとつ豊かになるような気がする」
と。どうして?と聞くと
「何かできなくなると、清水さんみたいな人が現れて、ぼくの手となり足となっていろいろやってくれるからね」
と笑いました。

ぼくらは誰でも同じ水脈を一緒に生きているのだと思います。
排除からは何も生まれない。異物を排除する前に、まず自ら一歩近づいてみる、寄り添ってみる。自分はそうありたいと思っています。