「Mr.No!」から「Mr.Yes!」に

マイクさん

怒涛の連投、ありがとうございます。追いつけていないこと、とても申し訳なく思います。「往復書簡」になってないですね。どうぞご勘弁を。

まだ6月29日の熱気と興奮が身体の中に充満しています。そうして時折、あれは夢だったんだろうかとも思ってしまいます。しかし、250人もの人が集い、そのすべての人がマイクさんへの思いでつながったというのは、紛れもない事実です。あれは現実の光景だったのです。
ぼくはあのフィナーレの光景を眺めながら、はじめてマイクさんに会った日のことを思い出していました。マイクさんの第一印象は「Mr.No!」って、すべてに否定的な姿勢でした。ぼくは、〈この人、ひとりぼっちで人生を終わろうとしている〉としか思えませんでした。

そんなのつまんないじゃん。マイクさん自身から聞いたように、それまでボランティアとか地域の活動とか、人にまみれて生きてきたのに、大勢の人の中で生きてきたのに、もっと生きようよ。ぼくならそうするし、もっと大勢の人をふりまわしてでもそうしたいと思いました。だから社会とのパイプを閉ざさないでと言ったのです。ぼくがそのパイプ役をやりますと。でもそれはぼくだけじゃなかった。
生前葬パフォーマンスを企画して実行した市川まやさんやKDE(Kyoto Dance Exchange)の仲間のみなさんもそうでした。そうしてあの一体感が生まれたのですね。ぼくにとっては鳥肌が立つような経験でした。

どうです? マイクさんは決してひとりぼっちじゃなかったでしょ。
きっとマイクさんもそう感じたはずです。そうして驚かれたはずです。こんなに大勢の人が支えてくれているのかと。でもそれは、これまでにマイクさんが大勢の人を支えてきたからにほかならないのです。
ぼくは思いました。
たしかにALSという病気になったことは不幸なことです。でもまだマイクさんにはこれだけ多くの仲間の支えがあって、これは間違いなく幸せなことなんだろうなって。

マイクさん、ぼくはマイクさんがあのイベントの最中に、「Mr.No!」から劇的に「Mr.Yes!」に変わっていく姿を目の当たりにしました。それはこれからガンに立ち向かっていくぼくにとっても大きな励みになると思いました。マイクさんの姿を自分自身にあてはめて前へ進もうと。

「ALS患者としての社会的役割を生き甲斐ならぬ死に甲斐に」
これはマイクさんがあの後よく口にしたり文字にしたりしている言葉です。
誰もが自分の人生の終わりを意識して思うことなんだろうなって思います。たしかにぼくだって、死に甲斐というものを求めて、すでに右往左往してるんだろうなって。でも一方でこうも思います。死に甲斐って最後の最後まで徹底的に生きないと見えないものだろうなって。

マイクさん
もうちょっと生きましょう。
大勢の人と一緒に、右往左往しながら生きましょう。
徹底的に生きましょう。

右往左往ジタバタが続く

マイクさん

難しい問題ですね。
この問題は我々の倫理観、生死観はもちろん、政治や制度、経済のあり方まで幅広く複雑な問題を孕んでいると思います。ぼくのようなあやふやな人間が軽々に論ずるようなことではないと。
だけどこの死をどう扱うか、どう見るかについて、ぼくが大きな影響を受けた一文があります。徒然草第九十三段です。短いので全文を引いておきます。

牛を売る者あり。買ふ人、明日、その値をやりて、牛を取らんといふ。夜の間に牛死ぬ。買はんとする人に利あり、売らんとする人に損あり」と語る人あり。
これを聞きて、かたへなる者の云はく、「牛の主、まことに損ありといへども、また、大きなる利あり。その故は、生あるもの、死の近き事を知らざる事、牛、既にしかなり。人、また同じ。はからざるに牛は死し、はからざるに主は存ぜり。一日の命、万金よりも重し。牛の値、鵝毛よりも軽し。万金を得て一銭を失はん人、損ありと言ふべからず」と言ふに、皆人嘲りて、「その理は、牛の主に限るべからず」と言ふ。
また云はく、「されば、人、死を憎まば、生を愛すべし。存命の喜び、日々に楽しまざらんや。愚かなる人、この楽しびを忘れて、いたづがはしく外の楽しびを求め、この財を忘れて、危く他の財を貪るには、志満つ事なし。 生ける間生を楽しまずして、死に臨みて死を恐れば、この理あるべからず*。人皆生を楽しまざるは、死を恐れざる故なり。死を恐れざるにはあらず、死の近き事を忘るゝなり。もしまた、生死の相にあづからずといはば、実の理を得たりといふべし」と言ふに、人、いよいよ嘲る。

吉田兼好著・吾妻利秋訳

この文の眼目は3段目の「」の中です。

「死を怖がるのなら、命を慈しめ。今、ここに命がある事を喜べば、毎日は薔薇色だろう。この喜びを知らない馬鹿者は、財や欲にまみれ、命の尊さを忘れて、危険を犯してまで金に溺れる。いつまで経っても満たされないだろう。生きている間に命の尊さを感じず、死の直前で怖がるのは、命を大切にしていない証拠である。人が皆、軽薄に生きているのは、死を恐れていないからだ。死を恐れていないのではなく、死が刻々と近づく事を忘れていると言っても過言ではない。もし、生死の事など、どうでも良い人がいたら、その人は悟りを開いたと言えるだろう」

嘲る人々を世間あるいは社会と考えればいいでしょうね。
生死についてまともに議論することを回避して、そのことすら経済と結びつけて損得でしか論じられない。なんだか今の時代にもピッタリあてはまりますね。
実際に医療の現場で起きていることに目をつむり、近い将来47万人もの人が自分の最期をめぐって彷徨うことが明らかなのに何も手を打たない。
死に方の問題など、現世の損得になんの関係もない。そんなことよりもっと儲けることを考えなくっちゃ。だって金があったら死に方だって思い通りになるんだよ、と嘯く社会ですね。

これは政治の問題ではなく、ぼくら自身の問題なのだと思います。マイクさんとお付き合いさせてもらうようになってから、ぼくは自分の生死について、特に死に方の選択についてはよく考えるようになりましたが、それを社会でどう受け止めたらいいのか、個人の死を社会がどう受け止めてどう扱ったらいいのか、よくわかりません。苦しいのは嫌だ、安楽な最期を迎えたい、とは思いますが……。
どうやらぼくはまだまだ悟りなどという境地とは対極にいるようです。右往左往ジタバタが続く毎日です。

Re:我が儘になれないマイク

マイクさん

ぼくはいま、死を強く意識しています。これまでにこんなに強く意識したことはないと言ってもいいでしょう。
数年前、父が肺がんで半年の余命宣告を受けた後、宣告通り亡くなった時にもこれほど強くは意識しませんでした。でも、マイクさんという存在に触れて、とても強く意識するようになりました。冗談のように聞こえるかもしれませんが、ポケットにいつも「死」というしわくちゃになったメモ紙をつっこんでほっつき歩いているような、そんな感じなのです。「強く意識している」を「身近に感じている」と言い換えてもいいかもしれません。マイクさんが、死を身近に引き寄せてくれたのかもしれません。

「日々できることが少なくなっていく。でも、まだ何かできるはず。できることがあるはず」と轟木さんは夢を手放さなかったのは若さだったのでしょう。

若いから……、ぼくもそう思います。でも、敏秀をそばで見ていたぼくは、とても複雑でした。彼の中には同世代の若者が経験してきたことを、そういちばん大きいのは恋愛や性体験でしたが、何も経験できなかったというとてつもない悔しさや口惜しさがありました。「そんなぼくにできること。残されているものを、人を振り回してでも追求したい」という貪欲さがありました。「でないとやがて死んでしまうぼくは不幸すぎる」と。敏秀は夢を手放さなかったというよりも、ジタバタしていたのです。右往左往していたのです。何かができるということで、近づきつつある自分の死を遠ざけたいというように。

ぼくはと言えば、正直な話をすれば、とても不安な毎日を過ごしています。体調が悪いとか、苦しいとか、しんどいとかはありません。あるいは身体が衰えつつあるということでもありません。自分の体内の「死の種子」がいつか芽吹いて、この身体を蝕んでいくのではないかと不安なのです。こんな話をすると、「そんな後ろ向きな言葉を発するもんじゃない」とか「前向きに生きろ」とか「頑張れ」とか言われます。そんな時は心の片隅でクスッと笑いながら、言葉を飲み込みます。「言われなくても前向きになろうとしてるし、頑張ってるよ」って。

しかし、発症からは、遅かれ早かれ生き地獄の終末期が訪れることを成るように成ると楽観的に見ることは出来ませんでした。どうせなら、苦悩を味わう時間積分を少なくするためにも、マイクの死は早い方がいいのです。

不安の根源は得体の知れないものだと思います。おそらく、すべての人が「地獄の終末期」に対して漠然とした、得体の知れない不安と恐怖感を抱いているのだと思います。それに打ち克つことは、一体全体可能なことなのでしょうか。多分受け容れることはできても打ち克つことなど、ぼくには到底無理なように感じられます。いや、受け容れる自信だってありません。だからぼくの死はできるだけ遠い方がいいのです。死にたくはないのです。

前向きに生きることを強いられることは、つらいことだと思います。それでも生きている以上は前向きに生きたいし、生きなければならないと、ぼくは自分に言い聞かせています。妙な言い方をしますが、ぼくはぼくが死ぬその時まで、一生懸命生きようと思っています。そのために死をいつも身近に感じていたいとも。ぼくにとっては、死を身近に感じることは、死にたいということではないのです。

マイクさんがよく口にされる「memento mori」という言葉、「死を忘れるな」。だからこそ生きるんだ、生きるために忘れるなと、背中を少し押されているような気分になります。もうちょっと頑張ってみようかなって。ジタバタしたって、右往左往したっていいんじゃないかな。それでも生きていこうと思います。でなかったら、無念のうちに死んでいった敏秀に申し訳がないなとも思います。

ぼくももっともっと考えたいと思います。マイクさん、一緒に考えましょう。マイクさんの最後のひとことに強く共感して、今回のお返事を終わります。ぼくもありのままに生きたいと思いました。

Re:成るように成るしかないと

マイクさん

こんにちは。
ぼくはあなたからのからのお便りが、日々長くなり深くなっていくことに、喜びを感じるとともに、問題の深刻さに打ちのめされるような気がしています。なんとかぼくも一緒に立ち向かおうと思うのですが、正直にお話しすると、もし自分がマイクさんの立場に置かれたらどんなにつらいだろうと、どんなに右往左往ジタバタするかと、立ちすくむ思いがします。

見るのも辛いのに ご本人の体の辛さを思うと心痛むのに それ以上にどんな気持ちでおられるのか 聞くまでもなく また聞いてもこちらが辛くなるばかりだと思う

その通りだと思います。だけどぼくは、これまで難病患者の方からたくさんお話を聞いてきました。そんなぼくにできることは、ただお話を聞かせていただいた方を強くぎゅっと抱きしめたいという思うことだけでした。ぼくはこの「抱きしめる思い」を大切にいろんな人に接してきたし、これからも接していこうと思っています。無力なぼくにできるのは、話を聞き、そうして心の中でぎゅっと抱きしめることくらいなのです。

件の教授が、どのような意味で「命のコスト」とおっしゃっているのか、ぼくにははかりかねるところがあります。それどころか、「生きる価値」をコストで測ることに少々違和感を抱かざるを得ません。「命のコスト」とは、生きるためにどれほどのお金が必要かということでしょうか。するとコストで測る「生きる価値」とは、どれだけお金をかけたかで決まるということなのでしょうか。ぼくにはよくわかりません。

東京で暮らす人と鹿児島の秘境といわれるトカラ列島のような離島で生きる人では、明らかに「命のコスト」は異なるはずです。でも、自分の居場所でそれぞれ必死で生きている人の「生きる価値」は比較すべきじゃないと思います。「生きる価値」を「人生の価値」と言い換えるとしたら、それぞれの場所で、それぞれの人が、自分の人生を生き切るかどうかで、「人生の価値」は決まるんじゃないかと思います。それも、人に評価されるのではなく、自分自身の評価として。

それでも今のマイクには 自分のQOLくらいは 考えるまでもなく ALSを自覚してからは毎日毎日減衰するしかないQOL体感しているのです。勿論 精神的にまで影響されることのないようなマイクでありたいのですが

ぼくのかつての友人で「死亡退院」の主人公・轟木敏秀さんは、デュシェンヌ型筋ジスで衰えゆく筋肉、動けなくなりつつある身体を自分でこう評しました。

「日々できることが少なくなっていく。でも、まだ何かできるはず。できることがあるはず」

と。そうして彼は亡くなるまで外の世界に向けて自身の思いを発信し続けました。そのためにITエンジニア、リハビリテーションの専門家、数多くのボランティア、友人を徹底的に振り回して自分の思いを遂げようとしましたし、それらの人々は喜んで振り回されていました。おそらくそれらの人々は、それぞれが「抱きしめる思い」を身体に充満させていたのだと思います。

マイクさん
どうぞわがままになってください。そんなに重い病を得てまで、善人でい続ける必要はないと思います。マイクさん自身の「生きる価値」を高めるために、どうぞわがままになってください。そうしてまず、ぼくを第一に振り回せるだけ振り回してみてください。

ラジカット、効果があるといいですね。ぼくも期待をしています。
それにマイクさんは、思ったよりも進行が遅いのではと聞きました。
これからゆっくり何をするか。そんなことを考える6週間になればいいなと思います。