遅れましたが敬老の日とはを考えます/強くなりたい

敬老とは?
70年前は 55歳以上が老人であり 敬えるべき老人が多かった頃の発想だったのでしょう?
長寿天国と日本を褒め称えたいい時代があった様に思いますが 今は?
高齢者医療無料のバブル時代もあったのは S48年頃〜(老人保険法S58〜)

断然トップ と 言われ出した高齢化率も 今や28.4% 長寿先進国?
平均寿命より切実です
人生100年時代は流行語に(金融庁まで95を標準に)
不老長寿を究める薬でも?出来たのでしょうか
2017に日本老年学会が「高齢者を75歳以上」と提言し 65から一挙に10年先に

麻生の「老人はさっさと死んで欲しい」発言2013を待たず 老人の社会負担が 言われる様になり 嫌老社会の風潮が生まれる
それに対して健老社会をコスパだとの信仰を起こし 健康寿命まで設定した
人夫々のバラツキを忘れて 恰も誰でも100年と錯覚する迄に嵌る

マイクのネガティブ思考は 尊敬に値する老人だけを敬老せよと言いそうですが マイクとしては敬老を 羨まれるほどの尊敬される老人で在りたいとの願望祈念を意味すると 無難に思うことに
但しそれは人生55年時代のことで 健康寿命を越した老人にはバラツキがある 100まで生きると 現実には 敬意敬老より要支援要介護認定?
支援の要否が社会的な問題・福祉として取り上げられたのです
介護保険法1997〜 支援の時代そして人権の時代へ

敬老の日9/16と老人の日9/15の違いは
祝日法1966の敬老の日の趣旨は、多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝うこと。
老人福祉法1963の老人の日の趣旨は、国民の間に広く老人の福祉についての関心と理解を深めるとともに、老人に対し自らの生活の向上に努める意欲を促すことである。

社会に尽くして来た老人は敬老されて まだQOL向上の可能性ある老人しか社会は受付けないと言っているようなものです
これから見ても2000年以前の日本の福祉は人権問題がありそうです

さて 今日の清水さんの言葉に感心して繰り返し読んでいます
「利己か利他か……。
ぼくは他者との比較で自分の在り方、立ち位置や境遇、さらには恵まれているかどうかなどを探ったり、確認したりというやり方を好みません。ぼくは徹底的に自分自身に集中したいと思っています。自分に徹するということです。ぼく自身がやりたいように、徹底的にやる。そのぼくが自分のことだけを考えているようなら、それはとんでもなく利己的な結果を招くでしょうが、そのぼくが社会との関わりの中で生きることをやめない限り、他を利することに繋がると思っています。そこではじめて利己・利他という二項対立を止揚できるのではないかと。そういう生き方をしたいと思っています。」

マイクは今日のテーマの文章でも 最近の書き込みでも何時も白状している通りです
マイク自身が利他であったり利己であったり 比較や差別志向があったり 時と場合にふらつく人間であることを自己不信に思ったりするのです
清水さんはそれを自分に徹することで避けられるとの信念をお持ちだと読み解きました
社会との関わりをやめないと言う強い信念も何処から生まれるのか羨ましい限りです
繰り返し読んでみますが 弱々しいマイクには刺激的ですが そのようになれないことを 何度もここで白状するだけで悩みが消えません
清水さんの様な強い信念を身に付けたく思うマイクをご叱責下さることを強く望みます

不良な療養生活

マイクさん

この往復書簡への時間も割けなくなってって……。ぼくにはちょうどいいタイミングになってきました(笑)充実の退院生活ですね。精力的に動き回るマイクさんの姿を思い浮かべて、ぼくも頑張ろうと思いました。ぼくはまだ治療の方針も立たず、宙ぶらりんのままというか、取り残されたままというか、はっきりしない時間を過ごしています。いまはただ、来週の写真展に向けてあれやこれやと準備に追われ、がんのことなど考えているヒマもないというのが、実際のところです。

ご夫婦での里帰りとご兄妹との再会、お墓まいり……。楽しい時間を過ごされたことが手に取るようにわかります。奥様と水入らずの道中、特に在宅療養のことについてどのような会話があったのか、とても気になるところです。ただ今回のポストを読む限り、マイクさんがご家族との時間を切望されていることが、ぼくにはよくわかります。マイクさんのことだから、どうしたら思いを遂げられるかいろいろと考えて、いろいろと試行されていることでしょうね。しかもこれからの時間を、社会との関わりを持ち続けるという視点で考えておられること、とても力強く感じました。

難病連を訪れて患者会の結成を探ったり、マヤさんのワークショップの広報をしたり、不動産屋を訪ねて「マイクの家」(ぼくの居場所も考えてもらったりして)の実現の可探ったり、そういう動きの積み重ねが、あの6月29日の「えんじょい・デス」のものすごい人の数に繋がってるんだなと思うと、これまでマイクさんが深く社会と関わってきた風景が鮮やかに浮かび上がりました。そんなマイクさんに「最後まで社会との関わりを諦めないで」などと……。まるで釈迦に説法でした。お恥ずかしい。

利己か利他か……。

ぼくは他者との比較で自分の在り方、立ち位置や境遇、さらには恵まれているかどうかなどを探ったり、確認したりというやり方を好みません。ぼくは徹底的に自分自身に集中したいと思っています。自分に徹するということです。ぼく自身がやりたいように、徹底的にやる。そのぼくが自分のことだけを考えているようなら、それはとんでもなく利己的な結果を招くでしょうが、そのぼくが社会との関わりの中で生きることをやめない限り、他を利することに繋がると思っています。そこではじめて利己・利他という二項対立を止揚できるのではないかと。そういう生き方をしたいと思っています。

こんな小理屈を書きながらも、「マイクと哲男の家」のことを思い浮かべて、ついニヤッとしてしまいます。マイクさんとひとつ屋根の下で議論したり、冗談を言いあったり、いろんな行動を起こしていく。なんだか楽しそうな感じです。

当たり前のことですが、楽しいことを考えることで、元気が湧いてきます。ぼくがそばにいたら、マイクさんがもし胃ろうになっても、お酒を入れてあげようと思います。ぼくがそうなったら、お酒を入れてくださいね。そんな不良な療養生活も面白いかも。お酒には申し訳ないですが(笑)