「おまえ、そんなんじゃダメだよ」

マイクさん

今日はぼくのもうひとつの病気についてお話ししたいと思います。マイクさんの昨日のお話しの中にこんな一節がありました。

メジャーとマイノリティーの線引きの意味
多様性と個性
それぞれの価値の捉え方
共生か棲み分けか
差別と区別
平等と自由と博愛
などを色々考えさせられました

これに似たようなことを以前にお話ししたことがあります。
その時に引いた例には再度触れませんが、ぼくは二項対立の価値観の中で物事を考えたくないと。そういうものの見方ではなく、もっと多様な物の見方をしたいのだというお話をしたと思います。
それはぼくが子どもの頃から抱えている病気も理由のひとつかもしれません。

ぼくは、心の中にふたつの選択肢があり、その間の強い葛藤が湧き上がると、それに耐えられなくなりパニックを起こしてしまいます。その精神的なパニックが欠伸失神という身体の症状になって顕れるのです。

心因性非てんかん発作(PNES:Psychogenic. Non-Epileptic Seizure)

という病名がついています。昔は「似非てんかん」などと言われていました。てんかんではありませんから、薬はありません。ただただ心の平穏を保っているのが予防であり、治療なのです。もし発作が起これば、その辺で寝っ転がって身体の拘縮が取れるのをじっと待っているだけなのです。

そんなぼくにとって、科学というのはとても厄介なものなのです。科学を否定しようとは思いませんが、多くのデータやエビデンスを積み上げて物事に白黒をつけるということには、馴染めないのです。善悪、白黒……。そういうことの間を揺れ動くことしかできないのです。だからでしょうか、ぼくは高校生の頃物理がいちばん苦手でした(笑)

だからぼくは、マイクさんの言う「線引き」が最も苦手なのです。で、「色々考えさせられ」る揺れ動く方を取ろうとするのかもしれません。

その最も大きな二項対立が「生きるか死ぬか」なのです。「生きるか死ぬか」を真っ正面から考えると、きっとぼくの頭は爆発してしまうことでしょう(笑) だからぼくは「生きるか死ぬか」より「どう生きて、どう死ぬか」というふうに考えているのだと思います。葛藤に弱いぼくの自己防衛本能がそうさせているのでしょうねえ(笑笑)
それは大腸がんという病を得たいまも同じです。

実は昨夜も発作を起こして頭をしたたか打ち、いま病院で痛む頭を抱えながらこれを書いています。
そうですぼくは弱い人間なのです。でもそれはぼくだけではないと思います。誰しもみんな多かれ少なかれ弱みを持っているのではないでしょうか。その弱みにちゃんと向きあえるかどうかが大切なのではないかなと思います。弱みに気づかない人もたくさんいるはずです。弱みを人に見せないために、自分の正しさや強さばかりを強調する人も少なくないでしょう。

ぼくの場合はその弱みがひょっこり顔を出してくれるのです。「おまえ、そんなんじゃダメだよ」とでも言うように。それがぼくにとっていいことか悪いことか、それすら考えることなく受け入れよう、向きあおうと思っています。
ぼくの弱みは、ぼくにいろんなことを教えてくれます。それでいいんだと。それがいいんだと思っています。

プライドの守り方

マイクさん

昨日の書き込みで マイクが生き地獄になった自分を卑下するような人間であることを白状しました
しかも まだ生き地獄とはどんな状態をマイクが思い込んでいるかも分からず 唯なんとなく惨めな自分を想像するだけなのに

で、辛いというマイクさんの気持ち、よくわかるような気がします。自分が実際どんなふうになるのかわからないけど、どうやらそれは生き地獄のような状態らしい。そうなったら自分も惨めだし、家族の負担にもなるし、それならそうなる前に……。マイクさんの中では至極当然の帰結だと思います。

QOLを弱者や他人だけでなく、自分自身の元気な時と生き地獄になった時とで絶対値比較で捉えようとするのもうなずけます。ただし命をコストでとらえることについては以前同意しかねる旨の書き込みをしましたので、ここで再び書くことはやめておきます。

ぼくは、自分のことにかぎって言うなら、絶えず二項対立の間を揺れて生きていると言っても過言ではありません。

生:死
強:弱
若:老
動ける:動けない
健康:病気
惨め:立派
……

この延長が自分の外に出た時、他者に対する同情、見下し、シンパシー、アンティパシー、さらには区別、差別などという感情に繋がっていくのではないかと思っています。すべては自分の中の好まざる自分への見方の投影だと思っています。

マイクさんの同室の患者さんへの見方は、まさに

ちゃんとしたマイクさん:生き地獄のマイクさん

という二項対立がそのまま投影された結果だと思います。マイクさんが「生き地獄になった自分を卑下するような人間」だと吐露されている通りです。

マイクさん
これから先、マイクさんがどのような予後が待っているのか。マイクさん自身がどのような道をたどるのか、準備としての知識の蓄積、心算としてはっきりしたいというマイクさんの気持ちは痛いほどわかります。しかし他者の姿を見て想像することはひとつの手段ですが、マイクさん個別の状況をきちんと前提にしたマイクさんの道を、主治医の先生にちゃんと説明してもらう必要があると思います。

もちろんすでに、主治医の先生にはおたずねになっているでしょう。これはぼくの知人である医者の言葉ですが、「そういう予後の説明はしにくいもんだ。あくまでも一般的なコトしか説明できない」と。でもそれでは死に方の選択ができないじゃないか。それがぼくの感想です。ちゃんと生きて、自分が思い描くような死に方を選択するためには、どうしてもそれを知らなければならないし、知る権利があると思います。逆に医療側にはそれを説明する義務があるのではないでしょうか。

ある意味医療の現場に波風を立てるかもしれませんが、マイクさんの辛さを取り除くにはそれが大前提になると思います。ちょっとした闘いになるかもしれませんが、自分自身がこの先どうなっていくのかちゃんと知っておきたいというのは当然のこと。それを訴え続けましょうよ。それは生き死にの問題だけではなく、家族への介護負担をどう軽くするか、どのような終末医療が受けられるのか、そういう問題も含めてですね。そこには目下の医療制度や、介護制度、行政の対応なども含めての話になるかもしれません。

多分、プライドというのは、そうやって徹底的に闘ってこそ守られるものだと思います。