昨日の中途半端を気にして/博愛こそと

台風はこちらは 何もなく 今夜の大文字も無事終わっている事でしょう
仕切り直して考え続けてみます

単純に世の中が善人(Z)と悪人(A)で成り立ち 夫々を互いに意識するとします
人間はバラバラに住まいして生きるよりも 集団を作るメリットを学習している筈です
ZとAは ZとAが混在したままの共生集団に居るべきか ZとA夫々だけの集団に棲み分けすべきか
ZA共生では善悪混在のイザコザがあって問題であり 自然に棲み分け社会や世間ができてイザコザを避けようとする
多分Z集団は問題ないが AばかりのA集団では内部問題があるばかりか A集団がZ集団を襲うことまで考えられる(A山賊)
A集団が纏まるにはリーダーがZを少し取り込み虐めること(被差別・奴隷)で治まることがある
Aのなかには Z集団に紛れ込む方が住みやすいことを知る者もいる(泥棒A)
Z集団が このAを認識すれば排除したいが簡単ではない
実際にはAかZかの判定と排除の労力をリーダーが取れば Z集団の中にAを棲み分けた集団(被差別)が発生する
共生Z集団とは言え棲み分けシステム(除外者A排除捨て場)を備えていれば成り立ちやすいのです

このようにZとA集団共に 共生集団ですが 所謂マジョリティがマイノリティを必要悪として利用するシステムなのです

現実の社会や 地域(世間)には善悪という単純な人間ではなく見方(視点)と程度(深さ)で多様性(個性)を持つために 人間を棲み分けることは 判定困難で不可能なのです
世界に実際にある国家や民族・地域性などの棲み分けは 長い歴史の闘争と支配の試行錯誤の結果なのです
21世紀が民族と宗教の戦争で始まり 今起こっている経済戦争では済みそうもない全体主義と自分ファースト主義の遣りかねない危機が目前に迫っているのも 「人間の多様性とその淘汰」という「神々の悪戯」なのです

では マイノリティは 共生を理想とする共生マジョリティ集団にとって必要ないのでしょうか
マイノリティを排除すれば治まるのか?
否 共生マジョリティとて 実は 多様性の集団でしかないのですから 個性の定かでない曖昧なマイノリティの崩れた集団なのです
つまりは マイノリティとは 万人受けはしないが はっきりした個性を持っているだけで 本来なら棲み分けすれば見過ごされるほどの個性集団なのです
ところが棲み分けとは誰にでもできるものではなく 多様性に依存し合う社会がなくては生きられない生き物に進化し 共生社会に依存している同じ人間なのです
それなのに マジョリティ側はマイノリティは無用で 何も依存する必要性を全く気付かないのです
マジョリティだけで それの方が より有利に生活できると考えるからです

それならマイノリティはこの集団に依存する権利を主張する理由を見つけ 支援を受けるのが当然であって その代わりにマジョリティに少なくとも依頼や感謝を示さなければなりません

マジョリティとは言え実は多様なマイノリティの集団で相互依存なくては成り立たない集団なのです
世界が社会(国家)がそして世間(地域)が 相互依存する共生社会に向かっていることは 神々の悪戯(ゲーム)の「上がり」なのです
マイクは人間の試練が淘汰の結果を生むのだと信ずるにしても 神々を憎みたくなります
それくらい人生には天国や地獄の混在する多様な世界なのです
こんな世界に一杯の生き地獄があるのは避けられません
だからこの世にユートピアを求め民主主義を求めても 人類滅亡までにも辿り着けないのです

でもこんな多様な個性を持つ 個性を主張する人間社会を住みよくする方法はあるのです
人の幅広い個性を決める「自由」についての思いは 生まれ持ったものや育ちにあり 進化の結果であり大事にしたいものです
「平等」も 全ての人間の欲望を最大限に満たすべく絶対的に大事ですが 考え方は多様であることは避けられません
しかし 「博愛」はただ一つ 人類に共通して存在してきたからこそこれを共生の旗印にした社会だから進化してきたのです
「博愛」を人類共通のキーワードに生きる事です

それでも紆余曲折の苦難の現実があり 多様な社会にはマイノリティ排除がある過程で生まれます
その時には闘争(ライオン)の道と棲み分け(狼)の道があるのです
人間は弱い生き物と自覚して 進化したのです
そこで身につけたのが相互扶助 つまり共生なのです
それでも時には 自由三昧なライオンであった事を 忘れられず
時には負けて孤独になった狼が 平等をと雄叫びし
(負けるが勝ち)(逃争)(寝返り)(出戻り)などの生きるテクニックを使い熟し 共生社会が最も住みやすい事を人間のDNAにしているのです

その姿は世界に求めても色々ありすぎるので見えないかも知れません
しかし身の回りの地域社会(世間)の生活の中に探すならば 絶対あるし 探し知って見習わなければならないと思います

この妄想は これから社会的弱者を考えるために してみたのですが 果たして素人思考で何のためかも分からず マイクの悪戯でしか?

ぼくらは同じ水脈を一緒に生きている

マイクさん

「異物を受け入れないなんて」という言葉に、思わず反応してしまいました。異物を受け入れられてないのは、ぼくだって。いや、異物というより、もうひとつの自分といってもいいかもしれません。「がん」のことです。

「がん」は自分にとって異物であり厄介な「悪」なのですから、受け入れられなくて当たり前かもしれませんね。でもね、それでも自分の一部なのです。これが性格ならどうでしょう。人から「君は性格が悪い」と言われたとしたら、「何を言ってるんだか、お互い様じゃないか」などと笑ってすませたり、言われちゃったとしょぼんとしたり、仕方ないなと諦めたり、見抜かれちゃったとどきっとしたり、ああ自分が嫌になっちゃうなと思ったり、いろんな感情は持つけれど、まあ自分は自分だとそれなりに折り合いをつけて生きていけるものじゃないかなとも思います。性格が悪いっていうのも、人から見た自分の側面のひとつですから。

でもね、これが「がん」となると、紛れもなく自分の細胞のひとつ、自分の一部そのものなのに、まったく受け入れられない。当たり前です。命に関わる問題ですから。でももうちょっと突っ込んで考えてみると、性格が悪いっていうのもひょっとしたら命に関わる問題かもしれない……。でも「がん」の方がはるかに深刻だと誰もが考えます。で、その悪を排除する。異物は排除しないと、と。

でも「がん」ってほんとうに異物なんだろうか? 悪なんだろうか? そう考えた時、それが自分の一部だと思うと、自分自身を異物だ、悪だと否定しているような気分になってしまいます。

これを社会に置き換えたらどうなるか。マイクさんの投稿を読みながら考えてしまいました。
自分とは異なった外見、感情、意見を持つ人を、「異物」「悪」だと決めつける窮屈な、狭隘な社会になってしまっていると感じるのはぼくだけなのでしょうか。「がん」の例えで言うと異物を否定するということは、自分自身を否定することに他ならないのに。

そもそもぼくたちが暮らすこの国は、太古の時代から大陸の東の果てで様々なもの、文化、人々を受け入れながら歴史をつないできた社会だったんじゃないかと思います。異物を受け入れて、自分たちのものにする、そういう社会、歴史だったんじゃないかと。
だとすると、マイクさん流にいうと、異物=マイノリティこそが、この社会、歴史、文化を豊かにする原動力だったと言ってもいいんじゃないでしょうか。

「がん」だって排除するだけではなくて、排除するたびに心に得るものがたくさんあります。筋ジス患者轟木敏秀さんは、かつてぼくに、動かなくなる自分の身体を指してこう言いました。
「失うものがあっても、まだ得るものはたくさんある。何かひとつできなくなると、何かひとつ豊かになるような気がする」
と。どうして?と聞くと
「何かできなくなると、清水さんみたいな人が現れて、ぼくの手となり足となっていろいろやってくれるからね」
と笑いました。

ぼくらは誰でも同じ水脈を一緒に生きているのだと思います。
排除からは何も生まれない。異物を排除する前に、まず自ら一歩近づいてみる、寄り添ってみる。自分はそうありたいと思っています。

「理念」を数字で裏付ける力あるか

「れいわ維新組」について もう少し問い詰めて見たい
「安楽会」が今ひとつ頑張り不足だったのは何故かを問い詰めたいからでもあるのです

国民や難病身障者の代表者としての 228万票の数字の重さの実感を前々回のブログでしました
それにはそれだけの重さだけの魅きつけたものがあったからです
それは 山本太郎の演説で繰り返し取り上げたのが 社会のあるべき「理念」です
新聞から選挙活動を読み解いてみます
「生産性がないと(生きる)価値がないのではなく 存在するだけで価値があるのです」
「弱者が住みやすい国に なって欲しい そんな社会をつくろうとする政治を」
こんな弱者の愚痴を問題提起に持ち上げ 「生産能力で 人の価値を測る風潮が『同調圧力』となり 弱者自身に自己責任論を押し付けてしまっているのだ」と熱弁を振るう
「権力へのゴマスリと忖度が横行する社会を壊して欲しい」とツイッターで広がる
欲望社会が社会をトリクルダウンで潤すとの体制側の「理念」に裏切られ信じられなくなった右派ポピュリストが期待したのでしょうか

この選挙結果は 繁栄を前提とする欲望社会ではなく 平等を前提とする社会への理念作りに新しい社会の可能性を求めようとするマイノリティの存在を ハッキリした数字で見える化したものとして 認識されているのです
ただの一時的左派ポピュリズムだと軽視していたのに 自民幹部に「やっかいな敵が現れた」と身構えさせたともある

日本農業新聞には
参院選で示した政策を見ると、食料安全保障を「最重要事項」とし、食料自給率目標は「100%」に据える。その実現に向け、農業だけでなく全ての第1次産業就業者への戸別所得補償を主張する。夢のような政策も並ぶが、政権批判の舌鋒はどの政党よりも鋭い。国会での農政論戦でも“台風の目”となるか注目だ。・・・・・

理念だけでは政治はできないが 理念なき保守政治に理念を求め始めた大衆が左派ポピュリストに育ってゆくようにも感じられてなりません

しかしながら実際は山本太郎への信頼性を疑わない人はいないではなくて当然2人へのヘイトも飛び交う
議員としての仕事を疑問視し 無駄とは言わなくても余計な税金を使うなとのバッシングがツイッターに
れいわは 「5%に減税」ほか ウケ狙いの公約も見えるが 2人を確実に守ることなくば・・・

所が 5%減税については 山本の税収に関する「独自計算」に基づき「財政赤字にはならない おつりが来る」と言う
計算の論拠が公開されていて討議に値するものであることを期待したい
まさか 財務省の年金2000万円不足の二の舞でないことをと 祈ります

さて「安楽会」については マイクが「安楽自死施設」の採算性を説いています
安楽会の公約に使って欲しかったと今更ながら悔んでいます?

情けない・みっともない・勿体無い/NO!虐めの文化

今日の祇園後祭巡行は 梅雨明けに合わせたかのように盛大に行われた様です

昨日は 山田創平さんのジェンダー芸術論に刺激され 社会に於ける弱者と平等について考えながら返信を書き込んでいるうちに 支離滅裂の状態にはまり込んでしまい抜け出せなくなりました
エクセル型の升枠を埋め尽くそうとするマイクの文章癖が 何時まで経っても抜けません

言いたかったのは 「虐め文化」の日本社会を非難したかっただけなのです
実に「情けなく」も「みっともない」ことだと思うからです

例えば弱者を差別する虐め側の本当の理由は 弱者排除と言う意地ましい敵対意識以前に 軽い気持ちで偶々見付けたくらいのマイノリティであっても それをターゲットにしてみたことで 自分がマジョリティのリーダー感覚を味わえたことから始まるのです
こんな程度の弱い者虐めの構造は 確実に脆弱に決まっていますし リーダーの信念も熱意もないに等しいのです
だけど一度味わうと簡単には手放そうとしません
その構造が持続するのはリーダーの思想や信念が優れているからでもなく その軍団の一体感によるのです
一体感は付和雷同する国民性にあると言ってもいいかも知れません
マジョリティ帰属本能なのかも知れません
大衆迎合型の民族レベルなのです
政治と国民を見てもそれを否定できません
国家の保守的構造は 革新的な筈の明治維新の不完全さによるものなのでしょう
今現在の問題は 野党まで与党を虐めることしか考えていない政治文化なのです
(れいわ維新や安楽会がそれを気づかせてくれればいいのですが)

ではどうすればいいのか
例えばマイノリティであっても自国民なのです
排除や差別を自国の文化と言い切るなら別ですが 共生と平等を掲げる日本であろうとするなら マイノリティの存在を蔑視することは罪に値するのです
弱者や少数者がいる社会は現実であり それを敵対視や虐める現実があっても それは歴史の中で改善されるべきものです

弱者差別する者を非難することも世間で多く見られるし 嬉しいことに多くの社会運動にもなっています
しかし 弱者差別する者を非難することは戦いに違いなく 時に悲惨で醜い
彼等は彼等で 既得権保身で身を張るのです
彼らと戦うのは至難で歴史の運命を待たねばならないほどです
政治とはこのような無駄な戦いなのです

しかし 弱者差別する者を非難する前に 弱者を蔑視し 弱者を無視すろことをも非難したい
実はこの輩は 必ずしも弱者批判者でもなく関心が無いだけのポピュリストでしかないのです
しかも国民の大方はポピュリズムの中身も知らず 大衆迎合に満足していて しかもそれがマジョリティなので 安心感と一体感で結ばれているだけなのです
問題はこの無頓着層を少しでも減らすこととで解決させたいのですが 理論も信念もない保身だけの自己中を崩すことです
甘い水や人参ぐらいで済むのですが そこはもっと別のやり方があるはずです

虐められる者を救うためには 虐める者やそれに加担する者だけでなく その前に 虐めを黙認したり 見ぬ振りしたり 自己保身の心しかない者全てを漏れなく非難せねばならないのです
虐める者より その方が効率的で 確実性が良いのです
この考え方は 個人主義が蔓延る以前は 文化としてあったのです
エリートがポピリスト導く責務があるのに それを忘れた政治家・知識人・報道人までもが保身の自己中ポピュリストに落ちぶれ 彼等がマジョリティなる大衆を先導しているのです
彼等を閻魔様に裁かせる前に いや無関心で騙されているだけでも地獄へ行くことを 国民こそ知るべきなのです

昨日と代わりなくなりました
明日は別のテーマを探してみます

参院選終わる/安樂会は議席なしで比例27万票議席22万票

昨日の選挙結果からマイクの関心だけを! 先ず
京都の立憲民主は中々美人で 勝間和代(51)をパートナーとする増原 裕子(41)を候補としたが残念にも僅差で敗れました
LGBT活動家が議席を持てば 京都の革新性が共産党だけでないと言う意味で期待していたのですが残念でした

もう一つ残念でしたのは安楽会が議席なしで また話題にもなってもいないことです
でも比例27万票議席22万票をどう評価したらいいのか 考えてみたいです
安楽会のことは 7/17のこのブログの通りで マイクは比例に投票しました
(れいわ228万で2人 N国党79万1人 で 安楽死への関心が NHK以下とは)

もう一つ れいわの比例特別枠からALSと重度身障者が当選しました

「それにしては参院選:れいわ新選組・NHKから国民を守る党、大躍進で既存野党の議席数を上回る勢い
https://biz-journal.jp/2019/07/post_109874_3.html

れいわ新選組を筆頭に N国党や安楽会といった「諸派」が勢力を拡大すれば 政治や社会は大きく動くことになるだろう」
とある
ALSの船後のかとは 次から読み取ってください
舩後 靖彦ふなご・やすひこ
http://www.arsvi.com/w/fy04.htm
『しあわせの王様――全身麻痺のALSを生きる舩後靖彦の挑戦』
http://www.arsvi.com/b2000/0808fy.htm

これはどマイノリティのことが話題になり 政治に変化をと願う流れが見えてきます
7/17のブログに安楽会が世直しの奔りになって欲しいと願ったことが 既に政治の風潮になっているように感じました

マイノリティのことですが 話が変わりますます
7/10のこのブログに話しました彼女と その後話しますと 彼女のパートナーがマイクの知人何人かと繋がりのあることを知って不思議な縁を感じます
彼は芸大の准教授としてマイノリティの重要性を鑑み その面で優れて且つダイバーシティの象徴となる人物として アフリカ人学長を擁立した一人のようです
美術手帖2019/7/13に 彼 山田創平さんの専門をベースとした芸術論を下記のように投稿しています

『まずは知っておきたい「芸術実践とジェンダーの平等」について。社会学者・山田創平
シリーズ:ジェンダーフリーは可能か?』
https://bijutsutecho.com/magazine/series/s21/20162
世界経済フォーラム(WEF)による2018年度版「ジェンダー・ギャップ指数」で、日本は「調査対象の149ヶ国中110位」という低順位であることが明らかになった・・・・・・・第5回では芸術、地域、マイノリティといったテーマを研究してきた社会学者・山田創平があるべき「芸術実践とジェンダーの平等」を示す。

芸大で社会学を教えるだけあって この記事のトップの写真の背景にある「釜ヶ崎大学」は マイクがよく知る上田加奈代代表が共通の知人でしたし 多分と思って小山田徹京芸教授も確認するとそうだった
二人ともマイノリティに絡んだアーティストですし マイクは彼らのファンです

漸くマイノリティを掲げ出してきた政治です
それに先駆け 芸術は その芸術より先駆けることを使命とする社会哲学の導きを受け継ぎ ジェンダーをテーマとして社会に芸術の眼差しを熱く注いでいるのです
変革の必要性と兆しを可視化する使命を芸術は果たさんとしています
政治家に芸術を!

魅せられる個性に惹かれて

流石の文筆家の文章を読んで泣けました
一昨日から始まった看護学校実習でマイク担当の生徒さんにも読んでもらったら 心に沁みますねえと感心されました
こんな美しい原点となる出会いは誰にでもあることはないと清水さんが自覚されたこと抜きには 今の天職に繋がらなかったのだと思います
痺れさせられ また 情けに沁みた心を自分でも感じられたことで 自分にもこんな心があるのだと安心させていただきました

理系のマイクは 人の心に何かを見つけようとする気持ちはあるものの 目に見えるものにしか また数字で心を捉えようとしたり 命にまでコスパで価値を認めようとしたりしがちです
清水さんの最も嫌われるこんな考え方を 自分自身初めっから自覚はしてはいますが 先ずはそう言う掴み方をした上で 現実では避けるべき矛盾や 現実を見付け出せれば 大事な間違いなどに気づくこともありかなと思っているのです
昨日の書き込みも 障害者の現実を把握することで それこそ普通人と弱者の密度を把握した上で 社会の現状を掴もうとしたのです

分析しながら
メジャーとマイノリティーの線引きの意味
多様性と個性
それぞれの価値の捉え方
共生か棲み分けか
差別と区別
平等と自由と博愛
などを色々考えさせられました

これらを意識すべきは 生きるか死ぬかと同じくらい社会で生きる為のべースとして生活に関わっているのです

まだまだ発展させたいテーマがありそうです

「普通」ってなんだ

マイクさん

今から50年以上前です。ぼくが中学校に入学した頃の話です。
ぼくの通っていた中学校は、明治33年に開校したいう旧制中学系譜を引く古い中学校でした。校舎はモダンなタイル張りの3階建てで、とても立派な学校でした。その広い校庭の片隅に小さな木造の校舎が、ひっそり立っていました。その前には幼稚園の園庭のような小さな校庭もありました。

ぼくは少々風変わりな生徒で、同級生や誰に馴染むこともなく、休み時間はひとりでポツンと過ごしていました。入学直後、ぼくは校庭をぶらぶらしていて隠れるように立つその校舎を見つけました。この建物はいったいなんだろう。不思議に思って、休み時間終了のチャイムにも気づかず、離れた場所でじっと校舎を眺めていました。すると体操服姿の何人かの生徒が中から出てきて、1列に並び女性教師の掛け声に合わせて楽しそうに身体を動かしはじめました。その光景は、ぼくらの体育とは違い、とても楽しそうでした。

その中に小学校の同級生のT子さんの姿がありました。なぜあの子はここにいるのだろう。どうしてぼくらと違う校舎で、違う校庭で……。遅れて教室に戻ったぼくを叱責する教師に向ってたずねました。あの校舎は何なのか、と。

「特殊学級」

その時はじめて耳にした言葉でした。教師の説明では、障害や病気を持って「普通」の授業を受けられない生徒たちが集められているということでした。ぼくは「普通」という言葉に激しい違和感をおぼえて、「普通」とはどういうことなのかと詰め寄りましたが、何も答えてくれませんでした。

ぼくはT子さんのことを思い浮かべました。あの子は小学校の時、確かにぼくらと同じ教室で、ぼくらと同じ授業を受けていたのです。あの子はどうして「普通」の授業を受けられないのだろう。いったい「普通」ってなんなんだろう。ぼくの中でどうしようもない不思議が膨張していきました。それからぼくは休み時間になると、離れた場所からその校舎を眺めていました。

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