マイクさん
おっと、油断してたら、ネガティブマイクが戻ってきましたね。明るいマイクさんも、暗いマイクさんも、どちらも本物のマイクさんでだと思います。というか、この振れ幅というか、揺れ幅というか、そのすべてがマイクさんなんだと思います。
ぼくは、人は誰でもポケットの中にいろんなものを突っ込んで人生という道のりを歩いているのだと思ってきました。そうしてその日の気分によって、ひょいとその中のひとつを取り出す。それが生きる喜びであったり虚しさであったり、死への願望であったり恐怖であったり、希望であったり絶望であったり、愛であったり憎悪であったりするのでしょう。
ぼくもそうです。がんなんかで死なないと思ったり、ああ、ぼくはがんで死ぬんだろうなあと思ったりです。明るい日もあれば暗い日もあります。生きている人間ですから、当たり前のことじゃないでしょうか。そう、それが生きているということだと思います。
でもぼくは、マイクさんのALSという病気のことを思うとき、マイクさんにどう声をかけたらいいのかすら見失うことがあります。愛だとか、支えだとか、抱きしめるとか、寄り添うとか、そんな言葉がマイクさんのこれから人生を、これからの時間を、どれだけ楽にするかと考えれば、とんでもない無力感に苛まれます。結局ぼくはどうでもいいようなことをしようとしているのか。ひょっとするとマイクさんの心の揺れ幅を、いたずらに大きくしているだけかもしれないとさえ考えてしまいます。もしそうだとしたら、ぼくはとんでもない間違いをしているのかもしれません。
でもぼくはすでに、マイクさんが揺れながら生きようとしている言葉、姿の中に、自分が生きて行くための希望を見出そうとしている自分に気づきはじめています。マイクさんにとっては大変な迷惑かもしれません。どうぞお許しください。こうやって言葉を交換することで、自分の中の生死に対する思いが深まり、自分自身のこれからのあり方を、自分自身で考えて行く。これがぼくが言う希望なのです。簡単に言えば、たとえそれが死ぬ日であっても、自分の明日は自分の目で見届けたいということです。
生きる義務ってなんでしょう……。
マイクさんの言葉に触発されて、生きる義務ってなんだろうと考えてみました。自分の中で浮かんだ答えは「人のために生きる」ということでした。誰かのために生きるということです。大切なのはもちろん、それが誰かということですが。
マイクさんの場合は、それがご家族やアオヤンさんのような親しいお仲間になるのじゃないでしょうか。その人たちのために生きるという人生があってもいいのではないでしょうか。生意気ですがぼくはそう思います。
いえ、ほんとうのことを言うと、この間何度かぼくのポケットの中で「死」というやつが暴れだすことがありました。でもそいつがポケットからひょいと顔を出しそうになった時、何人かの顔が浮かび、ああ、この人たちのためにもうちょっと生きたいなと思わせてくれるのです。
誰かのために生きてみるという人生も、ぼくは素敵じゃないかなと思っています。
前に父の話をしましたが、今日は母の話をしたいと思います。
母は今年95歳になりましたが、40歳代で子宮がんになりその後がんによる手術を6度経験しています。今のような腹腔鏡手術などではなく大きく開腹するという手術を繰り返してきているので、身体は切り刻まれた状態になっています。母はそれを「満身創痍や」と笑っています。そんな母にたずねたことがありました。死んでしまいたいほど苦しくはなかったか、と。それにも母は笑って答えました。
「あんたやらお父ちゃんを残して死ねへんさかいな」
と。それがほんとうだとしたら、母はぼくら家族と共にあることを生きる義務としてとらえていたのでしょう。
ぼくは母に自分の将来の姿を見ています。ぼくもいずれああなると。
その時ぼくを支えてくれる人がひとりでもいれば、ぼくはどんなに苦しくても生きる方に顔を向けたいと思っています。