
マイクさん
新年を迎えると、ああ時間の経つのは速いなあとつくづく思います。
一休禅師に、
正月は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし
という歌があります。めでたい正月も自分の寿命、死に向かってまた一里(1年)進んだと思うと、そう喜んではいられないというくらいの意味でしょうか。人間は誰もが死に向かって、それでも前向きに自分の〈生〉を生きているということですね。死にゆく自分とそれでも生きてゆく自分の間を揺れ動きながら。
僕はあなたとの1年半の交誼の中で、人が生きて死ぬ意味を、それでも生きていく意味を嫌というほど考えました。こう書くとなんだか陰気で暗い毎日を送っていたように見えますが、とんでもない、まったくその逆で、どうせ死ぬんだったらマイクさんのように〈死にゆく過程〉を楽しんじゃえと思いながら日々過ごしてきました。まさに〈ENJOY DEATH〉ですよ。
「どういう意味だ!? 死を楽しむって」とは、この〈往復書簡〉をはじめて以来多くの人に言われ続けてきたことでした。こんなこと、ちょっと考えてみればすぐにわかることですよ。死を楽しむなんてできないです。できることは死に至る日々をしっかり楽しむということ。つまり毎日毎日、その1日を精一杯生きる、楽しむということなんです。最期の瞬間までね。だから僕は今日もこの瞬間を楽しんでいます。
「思い出さえあったらいつでも会える」
これは母清水千鶴の口癖です。両親、兄弟、多くの知人友人を見送り90歳を過ぎ、そうして92歳で最愛の夫を見送りました。94歳で可愛くて仕方のなかった孫、曽孫と別れ、住み慣れた京都から鹿児島に移り住みました。さみしくないかと問うと、
「出会うことがあったら必ず別れはある。けど、思い出さえあったらいつでも会える」と笑って答えました。「心の中でみんな生きてる。みんな笑うてる。そやし大丈夫や」と。
こんなことも言っていました。
「死というのは、健全な肉体が地球からぽとりと落ちて宇宙に還ること。人の命は宇宙の一部。そやしうちが死んでも、みんなの中で生き続けるんや。いつも一緒や。みんなそうなんやで」
97歳の母は、そう言いながら毎日を精一杯楽しみながら生きています。〈ENJOY DEATH〉そのものなのです。
マイクさん
あなたと会えなくなったことはさみしいけど、思い出の中をのぞいてみれば、あなたの姿、あなたの言葉がはっきり浮かび上がります。あなたはいつも僕の隣にいるのです。生き方に迷った時はあなたと一緒に過ごした最後の1週間を思い浮かべます。父と過ごした最後の1週間を思い浮かべます。よみがえる思い出の一つひとつが僕の背中を押し、一歩前へ踏み出す力となるのです。
母の言葉を借りれば、父もマイクさんも僕の中に生き続けているのです。僕にはまだそれが何なのかはっきりとはわかりませんが、何かとても大切なものを伝えるために。それをしっかり受け継ぎたいと思っています。