パーキンソン病医療のお溢れに期待

昨晩は愛について語ろうとしましたが 最近の疲れ具合が気になることを白状して中断しました
本当は愛という人生の華を語るほどの豊かな味わいを知らないマイクのことを書けないと思ったからかも知れません
小さな細やかな愛なら数え切れずあるのですが 清水さんのお母さんのお父さんへの純粋さと深さの前には言葉が出ません

もう一つマイクが本当に書き難い相模原事件のことを 清水さんはどうしてか?無難に共感して頂いたように読み取りましたが マイクには難し過ぎるので 後回しにしたのです
マイクは殺人者植松の殺人という絶対悪を許せないのは当たり前ですが 他に共感すべき彼の持論の議論を避ける二律背反日本文化では恥ずべきだと思います
ディベート無しでは被害者を無駄死にになり そうは済ませられないのです

それにしても意思疎通できなければ生産性ないと彼は言う
マイクは殆ど文字盤頼りで 一昨日は主治医に殆どそうだと言ったら パーキンソン病のそれ用の薬を昨日から試して見ることになった
昨日も今日も主治医から効き目を確かめられた
ALSの薬は効くか効かないか疑問な薬しかないが パーキンソン病はオンオフハッキリしているからか でも性急過ぎるのでは?

マイクは本気で期待しているのです

愛には余裕がなければ・・・

昨日の清水さんの返信は いきなり愛についてマイクの思いを訊いてこられてドギマギしそうでした
しかし愛については清水さんから信ずるところから始まる ものと教えて頂きました
その頃の投稿を見てみます

まだまだ心の不安定な頃のことです 4/16

愛を信じましょう。


その日にマイクの思いを返信しました

Re:愛を信じましょう。


清水さんから直ぐ表現をストレートにと 4/23

愛の表現はストレートに


マイクが親切ある愛に気付き神様仏様に感謝 6/13

愛ある親切で絶望から救われました


この往復書簡で愛を学び体験した喜びを語っています

具体的とは言えないような愛のままではなく 具体的な愛に育つか育てるか
いや 愛は考えるものか・・・?
思うだけの愛は愛か・・・?

何だかあの頃と何か違うような感覚に・・・読み返してみると
気力が 体力も随分落ちて・・・

現実 右手を殆ど使っていません
吸引器のチューブの先端をスーパーALSが使うメラタイプをくわえながら これから寝るようになりました
タブレットに向かう姿勢も疲れ方がキツくだらしない

それより何より気力が・・・
あの頃は長文を 体力気力で・・・
この・・・・・もこんなに・・・・・?
今夜はここまでに

啓蟄を待つ

マイクさん

マイクさんはどんな「愛」を叫ばれるのでしょう。楽しみです。興味あります。先だって母のインタビューの一部を公開しましたが、やはり「愛」の力はすごい!と思いました。母の生きる力は、父への「愛」が支えているのです。愛する、愛されるというのは、とても大切なことだと思いました。だからマイクさんの「愛」にもとても興味があります。

〈世間には殺人を否定しても、価値で差別することに共感する者が多いのです〉

確かにぼくもそう思います。殺人は否定しながらも、重度の障害者や難病患者、高齢者の〈生産性〉を否定し、その上で安楽死を認めようというのです。係数としての〈生産性〉しか認められないのでしょうねえ。そういう人たちは、自らは死ぬ直前まで〈生産性〉を維持し、高め、係数で社会に貢献できると思っているのでしょうかねえ。

自分自身の〈生産性〉が否定されたとき、潔く安楽死を選択できるのでしょうかねえ。麻生さんに聞いてみたいですね。あなたが認知症になったり、その他の難病や病気でベッドに縛り付けられた状況になったら、自分をどう処しますか?と。
ああ、そうか、これは無駄な考察でした。彼らはうなるほどお金を持っているわけですから、お金をたっぷり使って介護を受けること自体が〈生産性〉を高めるわけですね。明らかなことでした。

〈法廷ではその様な差別を否定する哲学で無念を晴らして欲しいのです〉

ぼくもそう思います。〈生産性〉ではない、命そのものの価値、生きるという意味、価値を、追究して欲しいと。そうでなければ、あの事件で無残にも奪われた命を、犠牲者の命の価値を本当の意味で切り捨てることになるのではないかと思います。奪われた命の価値を取り戻すことこそ、この法廷に課せられた使命だと思います。

ぼくの闘病ですが、実はぼく自身闘っているという実感はないのです。治療に身を委ねている。そうとしか言えません。確かに少々ではありますが、身体に異変、変化が現れはじめているようです。だからと言って、何をどうするということもありません。どうにもならないものなら、耐えるしかないな……。その程度です。だから、

〈どんな闘病かは今まだ分かりませんが、そう心配せずその時その時を粉すことを・・・・〉

というマイクさんの言葉通りの状態になっているのです。ただ厄介なのは、気のせいか身体がだるくって、なんだかやる気が出ない感じがします。まあ、やる気はいつもてげてげ(鹿児島弁でちょうどいい感じ、かな)ですから、取り立てて言うことでもありませんが。だからやる気が出ないというのはぼくも同じです。

〈清水&マイクの部屋構想立ち上げや、友の会ピアネットの種撒きらしきことも出来ていません〉

これは焚きつけたぼくにも責任の一端があります。マイクさんだけじゃなくて、周囲のぼくらが、支えると言ったぼくらが、いえ、ぼくが、もっとちゃんと動かないとって思っています。3月まで待ってください。ぼくの治療が終わったら動きたいと思います。今はウゴウゴといろんなことを考え、動けずに悶々としています。まるで啓蟄を待つ土の中の虫みたいなもんです。春になれば一気に、元気よく動き出しましょう。
そのための闘病だと思って耐えていきたいと思います。

えんじょい・ですは早めにしないと

ALS新参者と自らをそう言っていた頃の マイクは 喋りと右手指先の不自由くらいで 病人は病人でも病気でそんなに落ち込むことなどありませんでした
だからエンジョイ宣言ができたのです
そのエンジョイ・ですのネタ探しには気力に余裕があったと思います
確かにそう宣言したことを 今更反故には出来ません

それが胃瘻造設後の第2ステージになると体力もそれ相応に疲れ それより気力低下が行動を鈍らすのではないか 全くその通りになったような最近の入院生活です
土日は自宅に外泊してる入院だと言っても 自宅では家内にミキサー食を作らせ それを口から注意しながら食べるのも時間が掛かり疲れを感じます
加えて薬と栄養剤を胃瘻注入するのも 日に6回もありモタモタとした老老介護ズバリなのです
する方もされる方も疲れるのです
なので家では殆どエンジョイ構想を考える余裕がありません

病院では慣れた看護師の手早い仕事で安心感もある
だからと言って療養以外の時間は余りなく 平日主体となる外との繋がりは これまで活動らしい事をできていません
今でこうだから これからは加速度的に食べるのと喋るのに疲れてベッドに横たわるだけの療養時間がどんどん多くなるのです
往復書簡の話題探しも結構ままならないのです
新参者であった頃は 神さま仏さまに助けられたラッキーハッピーな状況でした
社会と繋がり続ければ何か恩返しも出来て エンジョイにもなることが出来そうだと信じていました
ところが最近病院のベッドにすぐ横になるのです
テレビでニュースの話題とか相撲やエンタメ番組を見ていれば 病人らしくてそれで良いのだと納得してしまいます
残り少ない老人の余生をこれでは無駄に削って行くのではないかとの心配も分かっていながら
病人はこれでいいのだ
何の罪悪感もなく こんな幸せもハッピーと味わっているのです

清水&マイクの部屋構想立ち上げや 友の会ピアネットの種撒きらしきことも出来ていません
エンジョイ・ですのネタ探しを妄想することを忘れそうな ベッドとテレビが安心・安全を醸し出し 気力と闘争心なしでも安穏をもたらすのです
このままでは生前葬で多くの方から頂いた愛とつながりを無駄にしそうです
次のステージが近づく前に身の程にあった出来そうなネタを見つけなければ・・・・
一昨日は次のステージが来れば逃病では済まず 闘病なしでは済まされないと言っていたのに・・・
元気なうちに・・・

ALSにも闘病が迫りくる覚悟ありや

清水さんの治療の様子を想像してみますが経験のないマイクはイメージすらできません
癌の友人は多い筈なのに治療の詳細を面会とかでも話題にしたことはなかったと思います
国民の半分が癌を経験するほどポピュラーで お互い理解し合えるからでしょうか しかも一般の手術ならば 切除する位で特別な施術とも思わないからでしょうか?
それより抗癌剤の副作用での苦しみとそれとの戦いが話題として多い様に思います
ホルモン注射や放射線は手術より闘病を実感しにくそうですが?
(大腸癌手術の時と比べ)
実際は 転移やもっと複雑な戦いに悩まれるのです

堀ちえみの舌癌は 舌半分切り取って腿の肉を移植で喋られるまでに
(妹の旦那も30年前に同じだったのです 回復も)
マイクの球麻痺は舌をかなりに萎縮させているのですが 移植は?

小心のマイクが闘病が似合わないことを何度もここで話題にしました
然しどうした事か今日はチラッとALSのマイクが闘病もやってみなければ!とチラッと思いました
と言うのは最近の喋りの劣化の速さに生き地獄の入り口が見えて来たなどと書き込んでしまいました
これは正直な話ですがこのままだと皆さんに心配かけるだけで許されません
闘病でなく逃病がALSに相応しいなどと粋がっているのは見っともない
そうチラッと思いました
チラッとだけですが 今夜はこれを生かして何が出来るか あるかは自信がないのですが ここにオープンする事で少しばかり逃げずに闘える何かを探してみることに!

追記;少し考えただけで少し分かりました
放って置いても生き地獄の前のこれからは色々と辛い状態になり これこそ闘病が迫りくるのです
どんな闘病かは今まだ分かりませんが そう心配せずその時その時を粉すことを・・・・

意思疎通は喋りでなくとも

清水さんからの返信をしっかり読み返しました
何でも比較したがるマイクを懸念しての有り難いお言葉です
今 病室に全く意思疎通できない患者が居られるのですが その方 他人の命を価値をマイクが詮索できません
ましてや ランキングする意味もありません
いのちはそのひとだけのものです
その方の家族を見ると(本人より)家族のものです

だけどそんな尺度があるならマイクのQOLとして知ってみるのも面白い
自分の幸せと 誰彼への感謝となるかも知れません
マイクが価値比較をできるものならと期待したのは 元々 終末期を迎えた老人に限っての安楽死の価値を比較のためです
しかも社会的に それが必要な時期が迫って来ると推察してのことです
勿論清水さんのお母さんの様な元気老人には無用なことです(考えておいた方がいいに決まってますが)

老人のことでなく障害者のことでは相模原事件を考えない訳にはいけません
意思疎通できない障害者には生きる価値がないとする植松哲学を否定する論客が現れるのを待っているのですが 3年経って未だ植松は堂々と正当化している
間違いなく殺人については 罪であるのは明白です
本人自ら殺人を詫びていますが 障害者の無価値論は全く変えていない

弁護士は大麻精神病による無罪とする戦略ですが 植松哲学をどう論ずるのかに期待しています
検察側も単なる殺人の量刑では済まされない
被害者の無念を晴らすには社会の障害者差別を明かにしなければならない

世間には殺人を否定しても 価値で差別することに共感する者が多いのです
法廷ではその様な差別を否定する哲学で無念を晴らして欲しいのです
なのに法廷で被害者が匿名で闘うのは悲しい

返信には 清水さんからマイクの価値を痛く持ち上げて頂くばかりで恥ずかしい限りです
意思疎通が極めて困難になったマイクは 指差し文字盤から タブレット入力読み上げ にこれからチャレンジします
2/1に 京都芸術センターで 前田耕平(コンテアーティスト)企画の パフォーマンスに参加します
テーマLove Noise でグランドに集まった目標500人が 「愛について」声を発する
その映像が作品化される
マイクは音声読み上げの文章をこれから・・

現実を紡いで生きる

マイクさん

おはようございます。
前回返信の続きのような話から。命の価値の話ですね。
写真はとある社会福祉法人の広報紙を送る際の帯封です。母の写真と手書きの言葉が入っています。そこにはこう書かれています。

外に出る事ができるうれしさ
1人ぽっちでも みんなと溶けあえるから 淋しさはうすれる
毎朝大きい声で「おはようございます」の交かんは
元気100倍になります
今日もよろしくね

そうしてこれをぼくに見せながら、母はこう言って笑いました。
「いくつになってもどんなになっても活躍する場はあるんや」
94歳という高齢で鹿児島に移って2年半、ぼくは母がちゃんと自分の居場所、生き方を見つけてくれたような気がして、とてもうれしく思いました。それだけではありません。必要とされている自分、だからこそ愛されているという自分、そういう自分が96歳になってなおも生きていくという意味、価値をちゃんと知っているということ、それが他者に対する大きな愛になっていると、強く感じることができました。命の価値ってこういうもんじゃないかなあと。

生産性の問題でいうと、果たしてどれだけのものがあるのかはわかりませんが、少なくともこの帯封で届けられた広報紙は、読んでみようかなと思わせるだけの力は持っていると思います。生産性とは係数で測らないとダメだと言われるとそれまでですが、それこそがあの殺人鬼のトリアージュの理屈を支えているものじゃないでしょうか。

〈夢も愛も欠けた現実思考だからなのでしょう〉

マイクさん
マイクさんは少なくとも大勢の人に愛されていますよ。2度の「ENJOY DEATH」がそれを物語っているし、象徴していると思います。サポートしているまやさんたちKDEの皆さんは、「マイクさんを最後までダンサーとして」って一緒に夢を描いてくれているのではないでしょうか。それに実際の療養生活の面でも何とかサポートしたいと考えているはずです。これがマイクさんの現実だと思います。夢も愛もあるじゃないですか。ぼくはとっても羨ましいです。

〈マイクが自身の価値を知り得るものなら知り、自分の価値を実感・納得して生きたいと思うからです。その為には先達の一般的な基準があれば参考に出来ないかと〉

マイクさんの命の価値は、マイクさんが思っている以上にすごいものがあるんじゃないでしょうか。〈先達の一般的な基準〉なんてとうに上回っていると思います。マイクさん自身が新しい基準になるのだと思います。マイクさんがよく言う〈Super ALS〉ですよ。

〈本当言うて知らんけど・・・〉

これ、ぼくも同じ気分です。これから先ぼくの体内のがん細胞がどんなふうになっていくのか、ぼくにはわかりません。不安でいっぱいです。
マイクさんも、胃ろう造設後の暮らし方、気管切開と、これからたくさんの困難が待ち受けていると思います。だから頑張りましょうなどと言うのが、マイクさん、いや当事者である患者本人や家族にとってどれだけ無責任かということはわかっているつもりです。でもその上でなおかつぼくは言いたいと思います。
みんなで、現実を一つひとつ紡いでいきましょう。そうすることでぼく自身の、マイクさんの人生を最後まで織り上げて生きましょうよ。そうすることではじめて命の価値って、生きてきた意味ってわかるんじゃないでしょうか。

マイクさん
マイクさんは決してひとりじゃありません。たくさんの仲間が、マイクさんをひとりにしないと、させないと思っています。

胃瘻造設は簡単でも胃瘻生活は大変です

相模原事件で思うところを書き始めても 直ぐに行き詰まるのは毎度のことです
マイクには障害者の領域を考える思考能力がないことに気付くかからです
障害者当人になったのですからとの思いがあるのに!
元より 安楽死について考えるのも 終末期の老人だけに限っています
人の(命の)価値を数量で認識することが 将来財政的に必要な時代になるとするベッカーや麻生の社会的見方に マイクもそれに染まりかけなのを清水さんが懸念されているのです
その程度の思考レベルでしかないのですが 夢も愛も欠けた現実思考だからなのでしょう

清水さんからの返信で昨日気がついたのは 命の価値を一般論で理解しようとすることの間違いを指摘されて目が覚めたかもしれません
しかし多様な命の個性をランキングするほど不埒なことを望んでいる訳ではありません
他人のことでなく マイクが自身の価値を知り得るものなら知り 自分の価値を実感・納得して生きたいと思うからです
その為には先達の一般的な基準があれば参考に出来ないかと思った時にベッカーを知ったのです
絶対比較の意味はありませんし 出来ないでしょう
自己満足としての自分の価値を求めているのだけなのです

ここまでで書いたところで 実はふらふらなのです
今日の朝食後エンシュア500ccの胃瘻注入を終えて ベッドで寝転んでいたら 胃液が逆流して それをうがいしたら誤嚥してしまいました
相当苦しく昼食をやめたくらいです
胃瘻注入の後は寝転ぶのはまずいとリハビリ療養士から事後注意されました
入院生活で胃瘻造設後は色々と問題があります
胃瘻後は気切まで ゆるゆると体力が落ちるだけかと思っていましたが 殆ど会話が通じなくなり 右手の使い勝手も殆ど使えません
これからはもう新参者でなく 既に生き地獄の入り口らしき雰囲気なのです
胃瘻造設は簡単でも胃瘻生活は大変かも
気切はもっと大変なのです
本当言うて 知らんけど・・・

これはもう新参者でなく 既に生き地獄の入り口らしき雰囲気なのです

命の価値に一般論なんていらない

マイクさん

怒涛の3連投ですね。まず、参りましたと。どこからその元気、出てくるんでしょうねえ。ここらあたりで返信しておかないと、大変なことになりそうなので。で、今回は「命の価値」と「トリアージュ」について考えてみました。

1点目。

〈清水さんは、マイクがカール・ベッカーと麻生財務大臣に刺激されて命の価値を知りたがるマイクを懸念されていることは分かっていています〉

ぼくが何を懸念しているかを、もう少しはっきりさせておきたいと思います。ぼくは命の価値を知ろうとすること自体、悪いことだとは思っていません。自分の命の価値をちゃんと知ることは大切なことだと。じゃあ何に懸念しているかというと、他人の命の価値をどうのこうのと評価することです。カール・ベッカーも麻生某もそこが問題だと思っているのです。

自分の命の価値を考えることは、あるいは自分の命、人生とは一体何なのかを考えることこそが哲学だと思います。「いやあ、普遍的に物事を考えるには、人間一般の命にの価値を考えることこそが大切でしょう」と、〈私は世間を知っています〉という物知り顔をした人ならいいそうです。でも本当にそうなのでしょうか。

ぼくは思います。大切なことは一般論では何の答えも出ないと。自分の問題として、個別の問題として徹底的に考える。そこに普遍性が見えてくるのではないでしょうか。自分の命の価値を徹底的に考えることが、命というものの本質に近づくことだと。だから自分の命のことを考えるべきです。他人の命の価値なんてどうでもいいじゃないですか。それに一番厄介なのは〈コミュニティマインド〉ってやつですよ。これって直訳したら〈世間〉とか〈世情〉になるんでしょうね。

2点目ですが、ここから〈トリアージュ〉などという考えが出てくるんでしょうね。例えば震災時の限られた施設、人員、医薬品で、怪我をした人をその程度に応じて、すべての人の命を救うことを前提にどう治療していくかを考えた場合。例えば限られた予算でどこに手厚く福祉の手を差し伸べるか。最大多数の幸せを実現するかを考えるときなど、選別ではなくて優先する思想、基準というのは必要だと思います。

でもこれは切り捨てるということではありませんよね。誰にだって生きる権利は保証されているのです。〈あいつら生かしといても生産することなんかないのに、だったらあいつらに無駄な金を使うなら、こっちに回せ〉って、トリアージュでも何でもない。優勢なものをもっと優勢にって、そういう背景に〈コミュニティマインド〉があるのだとしたら、そんな世間は腐っていると思います。ここで注意していただきたいのは、ぼくが〈社会〉ではなく〈世間〉という言葉を使っていることです。このことに対してはまた。

だから、繰り返しますが、自分の命の価値をちゃんと知ることは大切なことだけど、他人の命の価値をどうのこうのと評価するなんて余計なお世話です。そのことだけ明らかにしておきたいと思いました。

命の価値に一般論なんていらないのです。

身障者本人として考えなければなりませんが・・

今日は家内の稽古日で 帰宅は邪魔になるので病院でのんびりすることにしました
明日には マヤちゃん主催のパーキンソン患者向けダンスワークショップがあるので 朝一に日帰りで病院から会場へ参ります
マヤちゃんの行動力には頭が下がります
ワークショップはパーキンソン患者への福祉事業ですし またKDEのリーダーも仲間にとっても 地域にも貢献する慈善事業です
生前葬も個人マイクの命の救済イベントでしたし そこで集まったカンパを難病研究のクラウドファンディングに寄付したのです

さて1/16には3年前の事件に関心があることを話しました
意思疎通できず生産性もない人間は生きている意味がないと 知的障害者を1時間に45人を 然もトリアージして殺傷した植松聖(29)被告の津久井やまゆり園相模原事件(2016/7/26)の初公判が1/10から始まったことのニュースと解説で賑わう

3年前のマイクの安楽死のブログで「相模原」を検索すると18件でます
https://sky.ap.teacup.com/applet/jishi/msgsearch?0str=%82%A0&skey=%91%8A%96%CD%8C%B4&inside=1&b=15

終末期老人にとって 死にたくても死ねない現実の儘でいいのかを考えて 安楽死の社会的容認に考え至りブログで考え続けました
しかし終末期老人に限定しているのは 身障者まで含めるのはマイクの思考能力の範囲を超えるからです
そしてこの事件はマイクに障害者について 命の価値をも考えることを強いてきました

清水さんは マイクがカール・ベッカーと麻生財務大臣に刺激されて命の価値を知りたがるマイクを懸念されていることは分かっていています
しかし難問の答えを見つけられず3年経過しました
3月の結審にどの様な福祉哲学が使われるのか 知りたいのはのはマイクだけではないでしょう
被害者の人権は明白で  殺人を許せる筈がありません
しかし単なる殺人ではなく人権と福祉の哲学としての考えが反映されなければこの事件は収まらせてはいけないと思います
マイクが知りたいのはベッカーのマイクも考えるのを諦めた命の価値に対する植松の哲学とそれへの知識人や社会の批判です
3年経っても変わってないようではまた繰り返されるのです

現実 生きているだけで大事だと言う家族が 患者を施設に入れっ放しであったりその施設のケアの悪態事件があったらしく本人より家族が・・・とかとでマイクが書けない
実態が表に出ない様では単なる殺人で終わるでしょう
被害者が匿名でしか話せない様では家族の真実を明かせないものを・・・

この問題はやっぱりこれ以上に話を進められる自信がありません