若い彼の命を見て見ぬ振りもできず

隣のベッドの若い彼のイビキと吸引のズルズル音だけが休み無く絶えないのですが それは確実に生きている証拠です
モニターは心拍129酸素98を示し時々警報音を発する
若い彼の命を見て見ぬ振りもできません
隣だから否応も無く 彼がどんなに辛いのか 何を考えているのも知りたく思うのです
しかし隣のベッドに引っ越してきた日に 妹さんが見舞いに来て励まして帰られとのを見ただけで どの程度の反応があったのかは見とれなかった
妹さんの言葉からは大事な兄さんであることを感じ取れましたことは どう言う訳かマイクを安堵させた

元々マイクには下方比較の性格があり 自分より劣性なものを見てとって安堵する嫌な性格であることを否定できません
いつかこの書簡で白状しました通りです
比較するためには何らかの基準が要ります
その物やその人の原価や生産性を捉えて順位付けすることまでを考えている訳ではありません
その物やその人の価値を知りたいのです

原価と違って価値を考えることは 関係する当事者同士がニーズによって決める事です
関係ない他人には無用なのです
しかしこんな見ず知らずの彼にもマイクは 命と言うものに尊厳を見出そうとして 近づきかったのですがどうも無理なのです
自分自身の命にどんな尊厳があるのかも定かでは無いのに
まして見ず知らずの彼については土台無理と分かっていても考えて見たかったのです

「命のコストを考える時代が来る」と言ったカール・ベッカーに刺激されただけで これまでも 命の価値について考えては見たものの 何ら考え至ったことはないのです
コストと違って 価値=プライスは人によって 状況にはよって決まるし揺れ動きもします
他人の命は所詮他人ごとだったのです
繋がりのある当事者同志によって命の価値は決めるものです

麻生の「老人はさっさと死んでくれ」との本音発言に刺激されたのも命の原価を考える刺激になったのです
人の命でも何でも原価があるのは事実ですが 価値を考えるべきは当事者なのです

いつもの様に命の また人間の価値を考えることは 生きる意味とと共に マイクの思考を超えます
清水さんからのお言葉だけで納得できたのか自信ありませんが 少しずつでも 生きることの意味を単純に捉えられるよう心掛けて見たいと思います
ありがとうございます

じゃあ俺も頑張るかな

みづよさん

マイクさん

「他人の命の価値」を見つけようとしても、そんなこと無理なんじゃないかとぼくは思います。だって、これはぼくに限ったことですけど、自分の命の価値さへわからないのに、他人の命の価値なんてわかるわけないじゃないですか。他人の命の価値を理解しようというならまだしも、他人の命の価値を決めるなどということになると、それはとんでもないことにつながるのじゃないかな。ぼくなんかいちばんに言われちゃいそうです。

「あなたは生きている意味も価値もないから、早く死んじゃいなさい」

って。怖い怖い。そんなこと人に決められたくないし、人にも言いたくないし。人の言葉に左右されることなく、意味なんて、価値なんてわからなくても、自分で生きたいだけ生きたいと思います。もちろん死ぬ自由を担保した上での話ですが。

ちょっと前に脳性麻痺の画家の話をしましたが、今日は脳性麻痺のふつうのおばさんの話をしたいと思います。ふつうって変な言い方だけど……。だって障害を持ってるだけでふつうじゃない逆境を生きてるわけですからね。この場合のふつうていうのは、障害を持っていても画家として活躍している彼とは違うという意味です。毎日を淡々と生きているという意味くらいかな。

彼女の名はみづよさん。彼女も脳性麻痺で重度の身体障害と、60年以上向き合って生きてきました。生まれてずっとです。ようやく座れるくらいで、手も足も思い通りに動かせるわけではありません。ずっと車椅子で、ずっと人の手を借りて生きてきたのです。彼女も家族もずっと不老の連続だったと思います。ぼくらには、それがどんな苦労だったか、どれだけ辛かったかを想像することや同情することはできても、共感することはできないのではないかと思います。だってぼくらはそんな苦労を知らずに生きてきたのですから。

その彼女が10年ほど前急性骨髄性白血病だと診断されました。多くの人がなぜ彼女がと声を失いました。重度の障害を抱えた上に白血病に、と。しかし彼女は辛い治療に耐え白血病を克服したのです。その後再発することもなく、まわりのみんなが安心しかけた頃に、今度は乳がんが見つかりました。

「私も女だったぁ」

という彼女の冗談に、素直に笑えなかった自分を覚えています。しかし今度も彼女はがんに打ち勝ちました。今はとても元気に過ごしています。先だって久しぶりに顔を合わせて、おたがいの病気自慢をしたばかりです。ふたりともこうやってがんを繰り返して生きていくんだろうねって笑いながら。
ぼくははっきり感じています。彼女が生きていく意味、価値は、彼女の中にこそあるのだと。それは人の理解を超えているのだと。そうしてそのことが彼女の生きる力につながっているのだと。制度による保護を受け、大勢の人の手を借りて、病と闘いながら、障害と向き合いながら、ふつうに生きていく。不幸でも、悲劇でもない、ありのままの人生を、ありのままに生きていく。その姿の中に生きる意味があるのだとすれば、それはぼくらがちゃんと受け止めればいい。

〈若い障害者を見て、しかも他人の命の価値を見つけ出そうとしましたが、その思考の入り口にさえ辿りついていません〉

マイクさん
もっと単純でいいんじゃないでしょうか。ああ、頑張って生きているんだなって。じゃあ俺も頑張るかなって。
ぼくは安易すぎるでしょうか。

病床削減しかないのでしょうか/

隣のベッドのMSAで殆どQOLを感じない30歳の若者について 生きている意味を考えてみようとしましたが 全く思考が進展せず疲れるばかりです
若い障害者を見て しかも他人の命の価値を見つけ出そうとしましたが その思考の入り口にさえ辿りついていません
やはりマイクには荷が重すぎるのです

そんな不遜な考えをやめて 9/28に厚労省が公的病院の再編成を打ち出したことを 古い新聞から考えて見ることにします
「地域医療・介護確保法2014」に基づいて 医療費抑制のために打ち出した「地域医療構想」として ベッド数を減らすべく全国の公的1455病院の内 名指しで全国424非効率病院を公表したのです
京都府全26の公的病院の内の対象4病院のひとつがマイクが世話になっているこの病院で 来年9月までに結論を迫られている

昨年度の全国医療機関に42.6兆円が支払われています
団塊世代が75歳以上になる2025年問題に合わせて 全国124万床を119万床に減らす方針を2015に示した
厚労省が2007に発表の 2030には47万人が彷徨うとする看取り場所推計は 何度もマイクが取り上げています
https://www.mhlw.go.jp/shingi/2009/06/dl/s0611-2b_0003.pdf
2030には 医療施設89万 介護施設9万 在宅20万 合わせて119万
その他47万人が彷徨うことを厚労省は黙認・無策

厚労省は124万床を119万床に減らして 更に在宅を強化して医療費削減しようとするのです
しかし日本の住宅事情と延命医療神話では 殆どの老人は病院療養に最期まで頼らざるを得ないのです
在宅死が多い欧米のような状況ではないために 在宅死もできず特養にも入れず 転院地獄ならまだラッキーで その他を探すにも見つからなく47万人も彷徨うのです

「欧米に寝たきり老人はいない – 自分で決める人生最後の医療」
宮本顕二 中央公論新社 (2015/6/10)
このブログにもありますように日本は 延命治療のし過ぎでベッドが足りないのです

マイクに自然死せよ/ 癌も苦しまない/と言う売れっ子医師


医療費抑制の政策としてベッド数を減らすという構想だけでは転院地獄を増やすばかりです
マイクが安楽自死施設を考えるようになったのはこのような背景があるのです

いい天候です
話の途中ですがこのまま 土日の自宅外泊に病院から脱出します

同室の患者がすっかり変わり静かに

最高に澄んだ秋空です
昨日の憂鬱な気持ちが仏飛んでしまいそうだと書きたいところですが 最近は食事やリハビリの後 直ぐにベッドで横になってしまいます

体が疲れ易くなったのではなく 球麻痺が如何してこんなに早く進んだのかを気にしているからの憂鬱なのに間違いありません
直ぐにでも胃瘻をと覚悟している状況なのですが 主治医は海外での学会に出張中で回診は10日程ありません
胃瘻はこうなってからではなく 早めにしておいたほうが良いとは色々の方から聞いてはいたのですが 主治医からは1ヶ月前に胃瘻するかを尋ねられましたが 緊急な言い方ではありませんでした

これまではマイクの症状を自己判断し まだまだ新参者と見做していましたが 10日ほど前から既に新参者ではないと自覚しました
それからはもうALS成り上がり者へ つまり第2ステージに移行していると納得しました
第2ステージの区切りは胃瘻だと思います
その前後は多分肉体的にも精神的にも不安定になるのではないかとまで実感しています
(第3ステージは人工呼吸器が区切りでしょう
ALSにとって大変重い区切りなのですが これはまだまだだと思っておきます)

このようにALSの進行は胃瘻ステージⅡと呼吸器気管切開の手術ステージⅢを区切りにステージが上がるとマイクが勝手に思っています

夕方遅く主治医の回診があり予約を入れてもらう様に頼みました
この病院には消化器外科の医師がいなく別の病院ですることになるので今月中になるかどうかは未定です
出来るだけ急ぎたい程のことなのかは良く分かりませんが 窒息死のリスクが相当高いのだとリハビリ療法士から言われているのです
手術自体は簡単らしいので早目にしておくべきと勧められています

元々マイクは4/8のリハビリ入院中に胃瘻を拒否して病院で死亡することを考えていた程でしたことを思うと 全く恥ずかしい限りです
胃瘻拒否では死ねないことを分かっていなかったのです
栄養が口から取れなくなって 体重が1割減ったら考えるべきだと言うことを知っていて まだまだ先のこと思っていましたが 早いにこしたことはないようです
今夜もここまで書いたところで疲れました
もう少しエンジョイ・デスらしい話題をと思っても浮かびません
今の同室の患者さんは静かなのが原因かも知れません

ラジカット3週間休んで 球麻痺が進行した?

3連休の11/2〜4は自宅でゆっくりする積もりで家に戻るのですが 実は毎回自宅では相当疲れてしまうのです
食事の時間が病院食なら30分で済ませられるのですが 自宅ではテレビ見ながらチビチビやっているにしても2時間以上になるのです
元々ゆっくり食べるマイクなのですが 食べるのに疲れを覚えますし ALSにとっては良くないことなのです
病院と同じくらいのミキサー食なのですが 嚥下のタイミングが取れず咳き込んでしまう頻度が多いのです
最近は嚥下失敗で窒息の可能性が心配なレベルにあることは確かなのです
自宅でなったら家族が吸引器で対応ができるとは思えません
それどころか 土日には家族がいない時が多くそう成れば 救急車も呼べずサヨナラ孤独死間違いないのです
慎重に飲み込むのですが舌の上にある程度の収まる量のものしか飲み込めないのです
少量だとゴックンするタイミングが全く掴めないのです
唾を飲み込むのを忘れてしまっている様で その為口内の唾が溜まって喋られないのです
喉にはネバネバの唾がたくさん溜まっていて それを誤嚥すると咽せて 咳払いで十分追い出せなければ ネバネバの痰唾が気管に詰まり窒息するのです
食べ物が詰まったりすると窒息死間違いないらしく 療法士にはいやほど脅されています
それで胃瘻の手術の予定を急ぐ積もりになっています
こんな事があって随分憂鬱な最近なのです

清水さんからはこれまで何度もマイクが命の価値を定量的に知りたがっていることに命とはそんなものではないとのお叱りをいただいています
マイクもカール・ベッカーも簡単ではないことを知りながら現実的な状況になれば他人の命の価値を比較する場面があって定性的にでも選択するしかない事があるのです
定性的で済ますことは いくら頑張っても個人的見解でしかありません
根拠が薄い主観的な選択よりも少しでも数字が欲しいのがマイクの癖なのです
見方の違いで 条件の違いで違った価値があるかも知れないのです

またこの話になると手に負えなくなるどころか 疲れてきました
今食も かなり咽せました
今夜もこれくらいで失礼します

不遜に生きる

「かごしま酒場探訪」なる新企画をはじめました
マイクさん、鹿児島に来られませんか?
一緒に飲み歩きましょう

マイクさん

長く返信できずにすみません。ここしばらくのマイクさんの投稿を読んで、どんなふうに返信していいか、ちょっと悩んでいたんです。ひとつには雅子さんからマイクさんの様子を聞いて、嚥下障害がひどくなったり、言葉が出なくなったり、ああ、この間病院であった時よりもずいぶん症状も進行したんだなって、どう声をかけていいかわからないなって思ったこと。もうひとつは、

〈生きている価値や生き続ける価値まで定量化できるものならして見たいと思っているマイクですが、そんなこと考えるだけで不遜な人間だとは分かっているばかりに、妄想すらできません〉

という言葉に触れて、ぼくはぼく自身の〈人としての価値〉というものを考えてしまったのです。〈生きている価値や生き続ける価値〉と〈人としての価値〉はまったく違うなと思ったからです。〈人としての価値〉は死んでいなくなった後も残るんじゃないかと。じゃあ、ぼくはいったい何を残せるんだろうかと考え込んでしまいました。そんなことを考えるのはもっと不遜なのかもしれません。

たとえば40歳で安楽死ベルギーの車いすパラリンピック選手は、QOLと苦痛を考えた時〈QOL<苦痛〉という結論に立っただろうし、さらにはその間で可能な限り生きていくつかの生きた証を残せたと思ったんじゃないでしょうか。自分自身十分よくやった。よく生きたと。自分自身の〈人としての価値〉に納得したということなんでしょうね。他者からの評価ではなく、自身としての評価が明確になったとき、人は満足して死を選べるんだなって思いました。

ぼくはそこまでギリギリに生きているかと自問したとき、あまりにもちゃらんぽらん、いい加減な自分ばかりが目についちゃって自己嫌悪の泥沼にはまっちゃいました。で、マイクさんにも偉そうなことばかり言ってるなと。

でもひとつ思ったことは、何を思っても、何を言っても不遜になるなら、それでもいいかなって。あらためて、ぼくはこの往復書簡でマイクさんにいろんなことを教えてもらってるし、いろんなことを気づかせてもらってます。ここはとても大切な場所なんです。

誰にでも、これを失うと生きていけないという大切なものがあると思います。生き甲斐みたいなものかな。でもそれはそんなに簡単に見つかるものでもないなとも思います。ぼくは65年生きてきて、これがぼくの生き甲斐だと自信を持って言えるものはありません。でもマイクさんや、いろんな人との会話ややり取り、関係の中で、必ずそう言えるものを見つけ出したいと思っています。もちろん自分自身のために。

前立腺がんの治療は未だにはじまりません。年明け早々からの予定ですが、がんが見つかったのが6月。半年が経過することになります。ステージ2で見つかったがんが、その半年でどうなるのか不安がないと言えば嘘になります。でも医者が大丈夫だと言うので、それを信じてそれまでに自分にできることに全力を注ぎたいと思っています。12月には京都で写真展をやる予定でいます。並行して新刊の準備も進めています。さらに治療後の写真展の準備も進めています。臆病ながん患者ですが、忙しくすることで不安を蹴散らしたいと。

不遜ですが、マイクさんにお願いします。言葉が出なくなったら筆で、筆が持てなくなったら身振り手振りで、それもダメになったらあらゆる手段・テクノロジーを使って意思を表明してください。伝えることを諦めないでください。そのためにぼくに何ができるか、ぼくの仲間たちと何ができるか、話し合い試行錯誤を繰り返しています。

人からなんと言われようと、人がどう思おうと、ぼくはでかい顔をして不遜に生きていきます。自分の〈人としての価値〉を見つけるまでは。

命は原価割れのプライスでも生きる?

最近書き込みが進んでいません
現役の清水さんと違い  年金暮らしでしかも入院生活7ヶ月と言う呑気な病院暮らしです
自由時間と静かな空間に恵まれ また入院当初からこの往復書簡には話題がいっぱいありました
それなのにここ数日  書き留めるほどの話題がなく 日中からベッドに寝そべってしまっています

ALSの病状を知って頂くだけでも普通の人には馴染みのない筈の病気ですから  マイクの球麻痺症状の進行具合を報告すればいいのですが しかしながら ALSは日に日に悪くなるという訳でもなく 微妙な変化を説明しても面白くもないと思います
全く話題がない訳でもなく 隣のベッドの若者がいることチャンスに彼のことを考えてみようとしましたが それが逆にマイクの妄想のブレーキになったのです

これまでの病室にはパーキンソン病の方ばかりですが色々の症状や人生を抱えてきた人ばかりで お聞きするだけで勉強になり マイクと絡めて妄想するのに役に立ちました
ところが 今度の9/30再入院は全く同じ部屋へ戻ったのですが 隣のベッドは30歳の若者で殆ど会話もできずズッとイビキだけなのです
これまで若者の難病患者と話していないのでいいチャンスだと期待したのですが 全く喋ることなく近づけません
それでも折角だから 彼になった積もりで 年寄りの安楽死と違って若者のこととして考えてみようとこの2週間妄想してみたのです
元々 障害者や若者ことを考えないようにしてきたマイクですが それは倫理的な問題になると手に負えないと自覚していたからです
それでもこれがチャンスと夜な夜な考えようとしましたがとても無理だと分かり 分かっただけでなく疲れを覚えてしまいました

彼にはQOLとして何かありそうか?全く意思表示できていないのです
彼の身になってマイクが考えようとしても イエスが奇跡をもたらさない限りQOLらしき希望や生きている証になる現象を見つける可能性はありません
それでもいずれマイクが 彼の様になったら マイクならどうするかぐらいを考えようとしたのですが 結果がすぐ見えてしまうのです
その様な結論をここでは書き留めるなんて出来ません
生きている価値や生き続ける価値まで 定量化できるものならして見たいと思っているマイクですが そんなこと考えるだけで不遜な人間だとは分かっているばかりに 妄想すらできません

実は明日 マイクに命にコストを考える時代が来ると思わせた超本人 カール・ベッカー京大大学院特任教授の講演会を聴講するのです
このブログでも5/11他何度も取り上げています

厚労省と麻生と赤ちゃんポストとベッカーに刺激されて


石田梅岩先生開講290周年記念講演会で 「心学を未来に活かす」が演題です
彼は命のコストについてはかなり前から訳あって 話するのを避けているのです
マイクと同じく倫理的な難しさからだと思います
しかし命をコストだけで見ることはミクロな見方にしか参考にならないのですが 保険業界や裁判で使われているように必要でまた可能です
命の価値はコストよりプライスで表すもので プライスは主観的なものであり QOLと同じ様に 抽象的であり 扱いは難しいのです

またもこんな話をしてしまいました