安楽死できればギリギリ迄頑張れるのです

土日の外泊は 自宅で在宅療養の練習みたいなものです
その為に事前に家族は 調理師からの指導と 看護師からの吸引器の指導を受けているのですそれでも在宅中の安心感が備わったとはとても思えません

病院のミキサー食なら30分で完食するに 家ではチョビチョビと呑みながらにしても 90分どころでない時間がかかるのです
一日中食べているようで その週の新聞を飛ばし読みするくらいの事しか時間の余裕が有りません
その新聞に この前の10/24の書込みのベルギーのパラメダリスト(40)が10/22に安楽死したニュースがもう少し詳しく新聞に載っている
ベルギーの安楽死は2002年に18歳以上を合法化(オランダ2001年)し 2014年には年齢制限を外し2018年には2357人が恩恵に
10/12に許可証を得た後のインタビューで「本当に幸せになった。全ての国で合法化すべきだ」と訴え タブーなき議論を呼び掛けた とある
「自分の命をコントロールできるようになったことで 安らぎを得られたが 2008年の許可証がなければずいぶん前に自殺していた」と
2017/4〜5には 日本旅行をと楽しみ 一番印象に残ったのは原爆資料館だったと 新聞にある

Nスペの「彼女は安楽死を選んだ」でもスイスの医師が貴方の国に制度があれば遠くの国でこんなに早く受けなくてもと言っていた
法制化してあればギリギリ迄安心して生き続けられるのです
https://hikurashi.com/archives/576

必要な人と要らない人があってもいいのですが 自分は要らないからと言って 要る人にまで否定することは許されないのではないでしょうか

こんな要る人要らない人のサイトがあります
「死を目の前にして、苦しんで死にたくないと思った」 幡野広志さん 安楽死について考える
https://www.buzzfeed.com/jp/naokoiwanaga/hatano-2019-1

これを知れば日本で『安楽死』を望む人はいなくなる
https://ironna.jp/article/8622
「安楽死は安楽に死ねない死」小笠原文雄(日本在宅ホスピス協会会長、小笠原内科院長)
国家戦略として在宅ホスピス緩和ケアを推進していくこと、在宅ホスピス緩和ケアを国民に啓蒙(けいもう)していくことが近道

VSEDとか鎮静死より安楽死だけで!(4/30)

VSEDとか鎮静死より安楽死だけで!


マイクのギリギリは まだまだです

苦しんでない死にたくもない人に掛ける言葉

ラジオの深夜ニュースに次の話題があった

「ベルギーの車いすパラリンピック選手、40歳で安楽死」yahoo-news10/23(水) 16:32配信より
ベルギーの車いす陸上女子選手で、メダリストのマリーケ・フェルフールトさんが22日、安楽死を選んで死去した。40歳だった。
フェルフールトさんは、筋力が次第に衰える進行性の脊髄(せきずい)の病気に苦しんでいた。治療は不可能とされていた。両脚に絶え間ない痛みと発作、しびれが起こり、眠ることすら難しい状態だった。
「たくさんの人から、どうしたらあんなにすごい結果を出せて、痛みと薬による筋肉の衰えを感じながら笑顔でいられるのかと聞かれます。私には、スポーツと車いすの競争が、薬のようなものなんです」
フェルフールトさんはリオ大会後、安楽死の書類にサインしたことについて、「これで休息できる感じ。もうたくさんだと思ったら、私にはこの書類がある」とBBCに話していた。
ディーストでは23日から、市役所に追悼の記帳所を用意するという。

日本では尊厳死希望者には延命拒否カードを事前に用意していれば 安楽死できると錯覚させていることをマイクは詐欺行為だとここで何度も取り上げています
希望すればギリギリ迄生きようと自分で死に時を決められると言うことも錯覚してしまいます
尊厳死は 延命治療のタイミングだけで その時は既に相当苦しいのです
安らかな死ではないのです
それを知りながら 緩和も鎮静ケアも医師は積極的にはしないのです
ただ延命しないと自殺幇助や殺人罪になるのです
苦しみながら死に逝く人を放置できるでしょうか
情けある医師なら安楽死を・・・・

隣のベッドの若者は 殆ど寝たきりで 全てを医師や家族に任せるしかありません
多分元気なうちに延命治療拒否宣言などしていないと思います
此の儘 それも此れ迄と変わらず病院での長期療養の上 死亡退院を待つしかないように思います
こんな彼に転院地獄などあり得ません
長期入院が許されているのでしょうか

また在宅介護地獄も避けたいものです
入院であれば延命であれなんでもして生き続けて欲しいと言うでしょう
指定難病で莫大な医療費でも自己負担が少ないから 生きていて欲しいと言えるのです
在宅でも相当な負担になっても  家族としては生き続けてと言うしかないのです

昨日も同じようなことを書きながら何を言おうとしているか分からなくなりました
疲れのせいではありません
マイクの思考の限界なのです

フェルフールトさんは苦しみながらも安楽死を急がず ギリギリまで生きたのです
日本では安楽死制度がないのは苦しみながらの死をせよと言っているのです
今 日本で無責任に言い囃している自然死するしかないのです
癌まで自然死で苦しまず大往生できると言う医師や宗教学者を何とかしたいものです
マイクまで隣りの若者のに自然死ができればいいのにと思ったところで 不遜な自分を弁えなければと ここで辞めます

ケ・セラ・セラな気持ちには中々

「ありのままに 全力で」
清水さんの返信にある東福さんのこの言葉を見て 3月頃の悩めるマイクに知人友人から多く頂いた言葉を思い出します
「成るがままに」も 友人知人からの励ましの言葉として頂いたことを大変嬉しく思いました
だけど不遜にもこれをケ・セラ・セラぐらいにしか受け止められず 他力本願で あるがまま なるがまま と考えることで確かに気持ちが安らぐのですが 暫くするとどうにでもなれと思ってしまいそうなのです
確かに安らぐのですが それだけでなく何か物足りなさがあるのに気付くのです
それは間違いなくマイクには邪念や未練を振り切ることが難しいからなのです
しかも 「全力で」生き抜いたら尚更ケ・セラ・セラでいいのかと思ってしまいます

心身の衰えを過剰に感じてしまい易いマイクには 全力とは無理かも知れません
これまで マイクが安楽自死を勧めるのは 力衰えた終末期の老人しか対象にしていません
若者や身障者で自死を望む人にも必要なのではないかと そんな想いは心にないことはないのですが 倫理的な問題視はマイクの手に負えない事と決め込んで触れることを避けてきました

しかし今 30歳のMSA患者が隣のベッドいることは マイクを否応なく マイクが卑怯にも避けてきた若者・障害者にまで当て嵌めてもいいものか?
それを考え直さねばならないようになったのです
30歳とは言え殆ど寝たきりで終末期のように見える彼に 安楽自死を勧めることは無責任な不届き者でしかありません
そう思わせるのは家族(妹さん)の励ましの言葉を聞いたからです
当事者の彼の想いは全く聞けないのですが 家族は生き続けてくれることを願っているのです

マイクが他人事のような無責任を避けるには 彼に変わって考えることだと 昨日今日と悩んでいるうちに思い付きました
それも数日前から隣にベッドを並べているのです
考えざるを得ないのです
しかし本人から本人の意向を聞くにはかなり難しい病状なのです
パイプを幾つも付け 一日中イビキを掻いているだけです
それならマイクが彼に成り切って考えることしかありません
彼に自分のQOLを語れるだけの生命力を感じません
またマイクにも彼に代わってQOLの向上を考えられるように思えません
それでも 考えることにします

安楽自死の終末期老人のことは 誰でも賛同してくれるのです
しかも自分が認知症になったら 安楽死を望むと言います
しかし認知症の老人は終末期に自己判断できないかも知れず その程度ならと言うような基準も難しいと思われます
マイクが心身障害者のことを考えないのもそのことなのです

こんなことを考えていたここ数日ですが 何も進展せず 書き上げた文章も支離滅裂で 考え続けることができないことを改めて知っただけでした
投稿の価値がないのですが 悩んでいることを知っていただくために返信します

ありのままに、全力で

東福光治さん

マイクさん

〈彼の様子を見ながら若者の患者とマイクのような年寄りの患者での生き続ける命の意味を考える機会を頂いたとの思いで〉の一節、ぼくもある人たちの生き様に触れて、同じようなことを考えていました。その前に〈豊かでもない人達が死を大げさに考える余裕がどこから生まれるのか〉の行でもちょっと考え込んでしまいました。とても素朴な疑問なのです。

死を大げさに考える余裕があるなら、なんで生をもっと大げさに考えないのだろうか、と。生きることを徹底的に考えた上で死を考えているのだろうか、と。

ぼくには重い障害と向き合いながら生きる友人が何人かいます。彼らの生き様をみながら思うのです。ぼくはちゃんと生きているだろうかと。そういう思いを持たせてくれる何人かの友人を、これから少しずつ紹介したいと思います。

東福光治さん(65歳)は重い脳性麻痺と向き合って生きてきました。自分の意思で動かすことができるのは左右の足だけです。が、立って歩くことはできません。車椅子を離れると座っていることすらできないのです。構音障害のために言葉を発することもできませんし、嚥下障害もあり普通の食事もままなりません。

彼は電動車いすのスティックを左足で操り自力で移動をし、音声発生器付きワープロのキーボードを足の指で入力し意思を伝えます。もっとも簡単なイエス・ノーの表明は、右足を高く上げるとイエス、上げなければノーと、そうやって65年を生きてきました。

いくつか、いやかなりの不自由を抱えながらも、ぼくとまったく同じ時間を生きてきたのです。ぼくとまったく同じ、酒が好きで、少々エッチで、冗談の好きなおじさんなのです。でも彼がぼくと違うところは、彼がれっきとした画家であるということです。これまでに鹿児島県県美展に何度も入選、入賞した経験を持ち、多くの尊敬を集める芸術家なのです。

彼がどのようにして絵を描くのかというと、自由のきく足に下駄を履き、特別な器具をつけてそこに絵筆をつけて絵を描くのです。はじめて県美展に入賞した時、審査にあたった審査員はその絵を純粋に評価しました。それどころか彼が重度の障害を持っていることなど知らされてはいなかったのです。後に審査にあたったは「東福さんの絵には生きる力と生きる喜びがあふれていると、誰もが感じたと思います。テクニックやうまさじゃない、ありのままの描きたいという思いが素直に表現されているんですよ」と話してくれました。

ぼくも彼の絵に秘められた力に惹きつけられたひとりです。鹿児島の出版社から出した本の表紙に彼の絵を使わせてもらい、何点かの挿画を描いてもらいました。その作業の合間に彼と話し合ったことは、今も忘れることができません。ぼくがつまらないことを聞いてしまったのです。

「もしあなたに障害がなかったら。あなたはどんな画家になっていただろうか……」
「障害があるなしは、絵を描くことに関係はない」
「関係ない?」
「障害があるから絵を描いているのではない。描きたいから描いている」
「でももっとすごい絵が描けたんじゃないか?」
「すごい絵ってなんだ」
そこでぼくは言葉に詰まってしまいました。
「重い障害があろうがなかろうが、自分の思いをありのままに表現することができるかどうか。それが問題なんだ。俺はありのままに生きて、ありのままに描きたい」

ありのまま……。ぼくはこの言葉に強い衝撃を受けました。ぼくはその頃、いえ、今だって、思い切り虚勢を張って、実際以上に自分を大きく見せようと必死になっているのです。ぼくのありのままって一体なんなんだろうって考え込んでしまいました。ぼくが黙り込んでいると、彼は言葉を継ぎました。

「俺だって、こんな身体じゃなかったらって、こんな障害がなかったらって、思わないことはない。でもそんなこと思ったって仕方のないことなんだよ。でもこれは諦めじゃないよ。今の自分の力を全部使って、全力で絵を描くってことなんだ。それしかできないんだよ」
ありのままは、全力で生きること。ぼくにそれができているだろうか……。答えはノーでした。

「でもな、全力を出したって、人の手を煩わせないと絵は描けないんだ」
イーゼルを立ててキャンバスを掛け、絵筆をつけ、絵の具を出し、筆を洗う……。そんないろんなことを誰かに手伝ってもらわないと、彼は絵が描けないのです。
「だから、全力で絵を描くんだ。手伝ってくれた人たちに報いるためにも」
ここでも彼は教えてくれました。ありのままは決してひとりで生きることじゃないって。それに、人は決してひとりで生きてはいけないと。

障害があろうがなかろうが、人は多かれ少なかれ人の力を借りて生きている、多くの期待があり、支援があり、その期待を超えた結果を産もうと全力をふり絞る。頑張るっていう言葉はあんまり好きではありませんが、自分自身をありのままに表現することなら、なんとなくできそうかな。彼と話していて、肩の力がすうっと抜けていくのを感じていました。

マイクさん

〈金額的に国の厄介に相当なっています〉

ぼくは国や人に厄介にならずに生きている人などいないと思います。東福光治さんの言葉を借りれば、たとえ厄介になってもありのまま、全力で生きればいいんじゃないかと思います。ぼくは彼のようにありのままに生きたいと強く思っています。

トリアージもQOLも理解できていません/ランク付なんて

もう一度 難病とはを考えてみます
難病法における「難病」とは、「発病の機構が明らかでなく、かつ、治療方法が確立していない希少な疾病であって、当該疾病にかかることにより長期にわたり療養を必要とすることとなるものをいう。」
5,000から7,000種類あるとされる
その中で 研究事業対象の333種類が「指定難病」となる

29年度末現在 特定医療費(指定難病)受給者証所持者数,対象疾患・都道府県別 出典:厚生労働省衛生行政報告例(平成29年度末現在)
http://www.nanbyou.or.jp/upload_files/koufu20182.pdf
(所持者数は)  全国総数. /京都
全国総数/京都   892,445 20,044
筋萎縮性側索硬化症  9,636 190
パーキンソン病   127,536 3,311
潰瘍性大 腸炎   128,734 2,744

日本の公的な「難病対策」は1972年(昭和47年)に厚生省が発表した「難病対策要綱」に端を発します
アメリカで2002年の「希少疾患対策法」が
EUでは2009年の「欧州連合理事会の難病・希少疾患対策に関する勧告」ですが それらの中身の比較はマイクには出来ないのが残念です
しかし十分過ぎる日本の施作である様に思えますが 運営の煩雑性とか 非効率とかの問題は色々あると思います

ここからマイクの経験での意見を
指定難病に認定されるには 医師の確定診断を行政に提出し審査するのを長時間待つ不安が付き纏うのです
また主治医・ケアマネを決め 在宅の訪問看護の介護資格認定にも長時間で ストレスになる
そのストレスも 認定され 医療費助成の目安が付いて経済な見通しがついて安堵するには2〜4ヶ月掛かるのです
しかも介護地獄や転院地獄の現実を知るのもその頃です
地域包括センター・難病連などの相談窓口のあることは直ぐに分かるのですが お役所仕事で積極性が感じられません
障害者手帳や生活保護まで多彩な福祉支援施作が憲法25条(生存権)に基づいて用意されている筈なのです
その頃の弱っている患者にもう少し丁寧に説明し導いて欲しいのです

さて指定難病に潰瘍性大腸炎を取り上げたのは 難病の中でパーキンソン病より人数多く ビオフェルミンで完治したとかエエッという話もあり 他にも軽い難病もある事を知ったからです
5〜7000もある中のたったの333が認定されているのです
しかも患者数が18万以下という条件があるのです

今日はこれくらいにして 看護学校性の3週間の実習が終わったのでその事を
前の二人が社会人経験してからの30歳だったので 今度の21歳では頼りないのではと思ったりしたのですが 災害支援の看護師を目指していると聞いて頼もしく思いました
それでマイクが調べたかったトリアージとかQOLについて調べるよう宿題を出してきました
胃瘻についても 気管切開も宿題にしてお互い勉強になりました
医師や看護師から以上に深く教えてもらったように思いいました
今まだウブで頼りなさそうですが 逞しい看護師に成長するでしょう

もう一つ 今日85歳のパーキンソン患者が向かいのベッドに再入院された
胃瘻をされていて 病院がマイクに胃瘻を勧めんがためのご配慮?かも知れません
パーキンソンは胃瘻される方がこんなに多いとは
それがみんな構音障害が少ないのです
パーキンソン病でもALSには色々教えられて 似たもの患者のピアもありなのです

胃瘻の話しでの疲れか/卑怯では居られなくなった

10/11の後 書き込みが滞っていました
胃瘻の話が主治医から突然出た事が出たことの精神的な疲れかも知れません
実は 一月前から食べ辛くなっていることは自覚していて そろそろかと覚悟していたのですが 突然であるのはそれ程急ぐべき状態なのか 余裕のある事なのかハッキリ言われていないのです
今週の日曜日は瀬田の東光寺で恒例のアートフェスで またその翌々日10/22は 琵琶湖ホールでのパフォーマンスフェスにマイクが参加するのは問題ないのですが 11/17と大事な12/29には生前葬Vol2もあるのです
胃瘻するには2週ほど別の病院に入院する事になるのですが 医師には生前葬のことはまだ相談していません
ミキサー食のメニューは見ても意味ないくらいなので 直接胃に入れる抵抗は全くありません

書き込みが滞っていたもう一つは 例の甘えったれの騒がしい叔父さんの隣では眠れぬだろうと 10/10に看護師長が別の静かな患者の部屋に変えてくださったのです
所が 今日はその叔父さんをナースセンター近くに変えたと言うのでまた元のベッドに戻ったのです
そしたら隣には既に30歳の若者が入っていて それがもっと治療で大変な患者なのです
彼は小さい頃からのMSAで 胃瘻をしていて気管切開はしていないが殆ど喋れていないのです
多分向かいの93歳の胃瘻のお爺さんを勉強だと言って真剣に観察しているマイクのために もう一人の胃瘻の先輩を当てがって下さったのでしょうか?
しかし彼は殆どイビキで寝たままで 妹さんのお見舞いの間も寝たままに近かった
それでも妹さんとその友達に実に明かるく励まされていて マイクにまで頑張る様に励ましの拳タッチを貰った

マイクには甘えったれの叔父さんのお相手している面白さより 彼の様子を見ながら若者の患者とマイクのような年寄りの患者での生き続ける命の意味を考える機会を頂いたとの思いで すっかり疲れが吹っ飛んだのです
しかし明日からは 多分これまでとは違った見方ができる様になるかは自信ありませんが 刺激されたことは間違いありません

でもマイクには余りにも難しそうです
実はマイクは 安楽自死の考えを 終末期の老人に限定してきたのです
それを マイク自信の卑怯さと自覚してきたくらいです
47万人の死ねない老人のためだけに考えてきたことにしているのです
他の死にたい人 自殺願望者や 末期の病人や身障者については マイクの思考を超えると考えて避けてきたのです
それが 今日からです 間違ってでも考えるべき立場になったように思います
どうなる事でしょう

ピア同士がオープンに繋がりたい

昨日は清水さんからの返信を頂いておりながら マイクの書き掛けていた原稿は 上中下卷で 3日間に連続投稿の積もりだったので 返信より下巻を 優先して投稿しました

そこには マイク自身がが占い師であるかのように 天命としてのALSを予感していたことを 1年前のマイクのブログ見直しで検証できたと思っています
或いは その頃はボランティアもマンネリ化し アート鑑賞も ダンスの仲間との付き合いも運動神経の遅れや姿勢に限界を感じていた頃でした
またそれ以上に安楽死問題のことに限界を悟ってしまったからの虚脱感が 余生の為の変身を懸命に探っていたのです
その変身もなかなか定まらず 却って安楽自死から去り難くさせていたのです

さて ピアカウンセリングの事が 清水さんのような癌患者にも向いているとは考えてはいませんでした
難病のようにピアの数が少ないから ピア同士がサポートし合う西欧のシステムが重宝がられているのです
癌は国民の3分の1が経験者になるのですからリアルな情報に満ち溢れているのではないでしょうか
しかし大病で肉体的よりも精神的な辛さは比較するべくもないかも知れません
同病で無くとも 大いに参考になり 癒し会えるはずです

特に経済的情報は何方も得難いのです
日本人は隠蔽の風土から抜けきれないのです
卑しいこと 恥ずかしいとには蓋をする
お金は汚ものとして 病気であることを 死までを
そんな国民性ですから ピアで纏まるのは 患者の1割もなさそうです

共同体志向の強い欧米では 自分を曝け出すことで周囲からの正直者としての信頼を得るのです
また自分を曝け出すだけではなく 相互扶助の精神が生まれ育っているのです
そこには移民や他の宗教が混ざるだけで気遣いあって生活しています
ところが格差が共同体の無防備をいいこととし犯罪が蔓延る
その防衛としての管理社会化や個人情報保護が必要になった欧米とは違って 敗戦で知った個人主義を自由勝手に理解し批判するものもないことをいい事に 企業や政治まで自己ファーストな日本を管理社会や個人隠蔽社会にすることで保身を図ろうとしている

またも清水さんのピアカウンセリングについて マイクの見方を書いてる積もりが 他所道してしまいました
「迷惑をかけたくない死に方を望むのが最近の終活の流行り」の問題については 現に難病指定を受けているので 金額的に国の厄介に相当なっています
在宅看護推奨するのは当たり前だと入院してから調べたことで理解しこのブログに載せています
家族に厄介なっても実はそれ以上の負担を掛けていることになると結論しました

指定された難病だけで300を超え 病気や本人の生活状況や家族も様々です
しかも突然の未知の世界に投げ込まれ 戸惑うばかりなのです
ピア活動や貸し出しできるガイダンス映像があれば大いに救われると思い 希望を述べた事があります

今日の返信の 夢の納棺体験は最近の終活として流行っていますね
京都でもイベント好きの若いお寺さんがやっています
9月20日に観たもっとNHKドキュメンタリー「ガーナにある“棺おけの村”へ」
https://www.nhk.or.jp/docudocu/program/3599/2325994/index.html
弔いは最高の笑顔で 漫画家 西原理恵子 ガーナ共和国(2012年)相次いで身近な人を送った西原さんが、西アフリカ・ガーナにある“棺おけの村”を訪れる。とびっきり明るい弔いの場で、改めて死について考える。

を思い出します
この田舎の村の金持ちが死ぬと1年間冷凍しその間にそれこそ立派から派手まで色々奇抜な棺桶を作って村を挙げて楽しい葬儀をする
西原も自分用をデザインした棺桶を購入する
古くからのしきたりでなく 若者が父親のために考えたのが広がったそうです

それだけの事ですが 死生観も作られたもので 最近の簡素化と真逆です

豊かでもない人達が死を大げさに考える余裕がどこから生まれるのか
そう思っただけですがなぜか忘れられないので紹介しました

すぐに業火に焼かれるはずですから……

マイクさん
連投で、しかもつまらない内容です。笑ってください。

死に際に人の手を煩わせるというようなことを書いたからでしょうか、嫌な夢を見ました。記憶にしっかり残る夢です。大きなキャリーバグのようなキャスターのついた箱が、目の前に運ばれてきました。にこやかな男の人が黒づくめの衣装を着て立っています。

「なんですか?」とぼく。
「最新の商品をご紹介いたします」と男。
「それはなんですか?」
「コンパクトな棺桶です」
「身体を折りたたんで入るんですか」
「いいえ、このようにのびるんです」
男がボタンを押すと、その箱はスッと縦方向に倍の大きさにのびた。
「ほらあなた様なら、十分入れます」
男は蓋を開けて、ほうらというように中を指差した。綺麗なシルクで覆われた箱の中は、寝心地がとてもよさそうに見えた。
「寝心地はどうだろうと思っておられますね?」
「ええ、まあ……」
「どうぞお入りになってみてください。ものは試しと言いますから」
恐る恐る中に入り寝転んでみた。どうだろう、冷たくて、気持ちがいい。
「ただいまフルオプションサービス中で、ドライアイスを入れてございます。気持ちよござんしょ」
男は耳まで裂けたような口で笑った。と、その瞬間パタンと蓋を閉じた。暗闇に中で慌てるぼくに、男は箱の外から語りかけた。
「大丈夫ですよ。光採りの窓もございます。ほら」
顔のあたりに小さな窓が開き、光が差し込んだ。いつの間にか、シルクの布はぼくの身体にぴったりになり、いや、身体を押さえつけるように自由を奪った。ぼくは冷気に包まれていく。
「寒いです。身体が凍っていくみたいで……」
「大丈夫ですよ、すぐに業火に焼かれるはずですから」
男の口は本当に耳まで裂けていた。

とまあこんな夢です。
恐怖で目がさめた後もしばらパニックに陥ってました。
ぼくはどうもエンジョイ・デスとはいかないようです。情けないですが。

仕方がないなあという生き方!?

ある陶芸家の先生にいただいた骨壷。これだって骨を拾ってくれる人がいないと……。

マイクさん

「迷惑をかけたくない死に方を望むのが最近の終活の流行り」という一節に引っかかってしまいました。果たして人に迷惑をかけない死に方なんてあるのでしょうか。たとえば猫は死期を悟ると身を隠しひっそり死ぬと聞いたことがあります。もっと大きな動物では象もそんなことをすると聞いたことがあります。人でもそういうふうに、ひっそり誰の目にも触れずに死にたいと思う人もいるようです。富士山の麓の樹海に入って死ぬという人はそうなのかもしれません。でもそれにしたって、年に1回はそういう人に遺体を捜索するということが行われているようです。これって、ごっつう迷惑な話ですよね。

ぼくは思います。人間って社会的な生き物だと言われていて、その通りだとしたら、死んだら必ず人の手を煩わせるものだと。勘違いしないでくださいね、迷惑だと言っているのではありません。煩わせると言っているのです。煩わされて迷惑だと思うか、思わないかは、亡くなった人と見送る人の関係によるのじゃないでしょうか。迷惑をかけないというなら、何が迷惑で、何にが迷惑でないかを、ちゃんとわきまえておくことが大切じゃないかと。

ぼくには3人の子どもがいますが、早くに家族関係を解消したので、ぼくが亡くなったからといって子どもたちに後始末をしてくれと頼めば、これは言うまでもなく彼らにとって迷惑な話になるでしょう。だけどぼくにだってそれ以降の人間関係というものがあります。その関係の上で後始末を頼めば、まあまあ仕方ないなあと動いてくれる人もいるでしょう。そういう人たちに甘えなければ、自分の始末もつけられないのです。そう、人は誰でも自分の死んだ後の始末をつけられる人などいないのです。人に「迷惑をかけない死」などというものはありえないと思います。

だったらどうするか。迷惑をかけても、手を煩わせても、仕方ないなあと思ってもらえるような人間関係をつくるということではないでしょうか。「迷惑をかけない死」などというのは、幻想に過ぎないと思います。きつく言い放つと思い上がりだと思います。いや、ゴミのように扱ってくれたらいいんだと言っても、じゃあゴミ処理をする人にとっては迷惑ではないのか!?という話になります。

ぼくは思います。人間が社会的な生き物だという側面には、人の手を煩わせるとか、迷惑をかけるということも含まれているのだと。だったら甘えてもいいのじゃないでしょうか。甘える甘えられるというのも、人と人の関係の中ではとても大切なことだと思います。そういう関係を構築できるかどうか、それはその人の生き方にかかっていると思います。だからこそ人を大切にして生きていくことが大切なんじゃないでしょうか。甘えたいから大切にする。大切にするから甘えられる。ぼく、なんか、おかしいこと言ってますかね。

マイクさん

迷惑をかけてもいいんですよ。裏切りさへしなければ。

最期は在宅より施設で罪滅ぼしや世直しとかを味わってから

8日9日に続く今日の続きを終えてから 清水さんへの返信をします

去年の今頃は 呂律が少し気になる程度で 医師からは1日6合のお酒を控えるよう指示されただけでした
去年の9/12以後のブログでは 天命を予感するような書き込みが続きました
また安楽自死支援施設が必要なマイクの事情まで予感していました

2018/11/3「最期に役に立つのは最善の死」(最善の死とは)
https://sky.ap.teacup.com/jishi/865.html
2日の新聞に 佐々木閑(しずか)花園大インド仏教学教授が「現代のことば」の欄に 釈迦が自分が死んだらこの世で一番豪華に火葬し 残った灰を信者に与え 立派な墓で供養させよ」と言ったとある
釈迦の時代のインドは「業」の世界に生きており 「立派な人に供養すれば何倍もの果報が戻る」と考えていた
悟りを開いた釈迦がなくなると「涅槃」に入り完全消滅するので それでも供養を続けられるような葬儀の仕方を指示したのだという
つまり豪華な葬儀と立派な墓での供養は釈迦の信者への慈悲だという

迷惑をかけたくない死に方を望むのが最近の終活の流行りですが 筆者はもっと役に立つ死に方を考えてはどうかと また「自分の死が他人の人生に恩恵を与え 道しるべとなるなら それこそ立派な死に甲斐というものだ」「人の役に立つ死に方とはなにか」と結んでいる
流石だ その通り と感服する

マイクは 終末期の老人に 必殺仕掛人になることをお勧めする
元気な内は 世間体や家族のことを考えるとできないが 人生の最期に罪滅ぼしとしてやるべきことがいっぱいある
安楽自死センターにはそのような思いの老人に バーチャルでもいいから体験させてあげられるようにしたいものだと考えています
人の役に立つ最善の死に方だと信ずるマイクです

2018/11/5「安楽自死センターは短期受け入れ施設」(最善の死とは)
https://sky.ap.teacup.com/jishi/866.html
ラジオ深夜便で ホスピス医が他人の世話にならない死に方は 却って遺族にとって寂しい結果を生むとして 介護の必要性を訴えていた
この前の釈迦の葬儀の書き込みで 迷惑をかけたくないとの思いから 最近は「死んだら散骨にしろ」とか「誰にも連絡せず質素にして欲しい」とか 生前に葬儀方法を指示することが流行っていると
そうではなく 役に立つ死に方もあるのではないかとも

迷惑を最小限にするのはいいとしても 役に立つ死に方はそう簡単には思いつかないし簡単に実現できない
それどころか何も考えていないと 迷惑どころか延命治療に2千万円以上も無駄遣いする羽目になる

厚労省は 医療費削減のために在宅死を推進するが そうできる恵まれた老人は1割でしかない
延命治療ばかりでなく 在宅治療ができない老人病院で長期入院する
貧乏人には 在宅より入院が安易ですが こう言う方にこそ安楽自死センターで 世の中に役だつ死に方を教えてもらい 短期に安上がりで しかももう死んでもいいと思えるくらいの楽しい体験をして 加えて献体などのお役に立って逝っていただくことをマイクは真剣に考えています

藤掛病院と大口病院で見られた姥捨て山まがいの老人病院こそ 安楽自死センターの構想を参考に 長期寝たきり専門ではなく 短期受け入れを前提に改革していってほしいものです

長々と 10/8・9・10とに亘って1年前のブログを振り返って見ました
今年の2/6の告知の相当前に ALSとは知らずに こうなることの予感能力がマイクにあったことをブログで検証出来たように思います