転院地獄でない事を祈って/個人情報?

今日から点滴のための再入院を 2〜3週間の予定でしました
住み慣れた同じ病室に戻って安心感はあります
食事も家では同じミキサー食であっても 呑みながらと言っても2時間はかかるのですが ここでは何故か30分で終わります
でも今日の昼夜とも全粥の所為か 咽せてしまいました
多分近々 もっとペーストな粥に変えられそうです

3週間の間に 病室の患者も入れ替わり これが転院地獄の1シーンかと考え込みます
しかも 高齢で 肺炎の方と胃瘻の方で マイクの先輩ピア仲間になるかと思います
清水さんにはこの様な地獄には無縁なのでしょうか

一時退院の最後の昨日は 難病連の講演「滋賀医大漆谷真教授の最新ALS情報」を聴講しました
講演内容は大いに参考になりましたが マイクの参加目的の一つは 参加者の中に マイクと繋がれる同病者を1人でも見つけることでした
気切の方は増田英明さんと 松浦利次さんでした
8月に告知の福知山Oさん 2週間前の告知で悩んでいる大阪の若い女性Mさん
他にも 夫をALSで亡くされた方でした
JALSAと難病連と 漆谷さんに マイクの近隣の同病者を見つけるにはとお聞きしましたが JALSAに入会し 総会で会って知人を作るしかないとの結論で 結局は松浦さんのメールアドを得ただけでした

講演の後 自己紹介では Oさん Mさんの不安が痛ましかった
マイクも2/6告知の後すぐ 難病連と相談支援センターに顔を出したことを思い出します
相談にいった積もりでしたが 報告しただけだった様に思えます
既存の元気な方向けの団体を支援できても 個人相談にも限界がありそうとしか思えませんでした
新しい団体を作るのをサポートもする気にも疑問に思ってしまいます

ピアサポートを夢見るマイクです
発症間もない方や 重症で参加し難い方こそ ピアサポートでいいから必要なのです
参加することを躊躇うオープンマインドでない方を如何支援するか
難しい問題ですが ネットがある様に思います
ALSの様に外出し辛い方が繋がる方法は 友の会システムでない様に思います
アメリカのピアサポートは政策支援で推奨されて進んでいます
日本では最近認識され始めていますが 実態はそれを妨げるものがある
自己防衛しか考えない利己的完全自己中日本人が丸見えなのです

個人情報保護はなんのためか
このことではなくて色々な事でマイクは現役の頃から深く疑問に思ってきました
敗戦で知った米国の自由を履き違え 更にまた管理社会を過剰に真似した自己保身
これを機会に考え直してみなければならないと強く思いました

期待に応えられるか?/前進だけは約束します

当面ホルモン注射を決断された様ですね
当面数ヵ月が 数年かも ズットかも知れませんし それも自覚症状もなく!
これだけを聞くと結構いい話のようにも思えますが 本来のご自分ではない生き物と生涯共生する身体のシキタリに従わなければなりません
大腸癌抱えての無頼漢ではあっても 絶対無理なさらずとは言いませんが 此れからはもっとキツイ自制心をお弁えくださるものと「期待」します

お便りに「・・・人に「期待するのではなくて、自分自身が期待される」存在にならなければと思っています。・・・思い通りにことは運ばないかもしれません。でもあきらめずに一歩ずつ前に進みたいと思っています。マイクさん、一緒に進みましょう。」

全くその通りですね
でもマイクの病は 下方比較するとか 諦めと逃病こそが相応しいと今も思っていますが これは病についてだけで お陰様で 生活やQOLについては 特に精神性に期待することも多くて しかも皆様にお応えするべきことの大事さを感じることが出来ました
マイクの精神性は このALSと往復書簡のお陰で 確実に一歩ならず前進したことをエンジョイしています

さてマイクの今日は 難病連の中の病名別の(友の)会にはならない希少難病者合同の「わらび会」の集いに参加してきました
3/10にも「難病カフェ」と言う集いに顔を出しました
その時は2〜30人ほぼ全員が車椅子で感激しました
今回は知合いのSMBAの方だけで 100名の会員の内 集いに参加しやすいレベルの人が交遊を楽しむ主旨の様ですが マイクには自己紹介を聞くだけで 知らない また問題点が色々あることを知りました

認定患者にも簡単とは言いませんが 完治して友の会OBをされている元気な方が何人 も
難病認定取れない人や 障害者年金では暮らせず仕事・生活に困っている人など 病気情報以上に参考になることを知りました
明日は滋賀医科大の漆谷真教授のALS講演会に参加し 参加者の中で 京都友の会を作るに理解ある方を見つけようと思います
マイクは既に喋りに苦労するステージなので 友の会を纏めるほどの期待は受けられないのですが 先ずは ALS患者ネットワークが市内に100人いても 如何言う形ならどれだけ繋がれるかを妄想することくらいを目標にしています
それ以上は他の友の会をいくつも参考にしてからかも知れません
パーキンソンの知人の話では会長の出しゃばりと主旨不明を感じて パーキンソンならではの規模の大きさを指摘されています
マイクとしては病院内交流ができればと 切に思うだけなのです
今はそれくらいですが もっと急がないとと 確実に下がるQOLを次第に意識する様になっているのです

期待を上回る人生……

マイクさん


なかなか返信できなくてすみませんでした。おかげさまで、「しみてつ祭り2019」無事終了いたしました。雅子さんもわざわざ京都から駆けつけてくださいました。京都はもちろん、東京や栃木からも来てくれた知人、友人に囲まれて楽しく、充実した1週間を過ごすことができました。大勢の人に支えられていることはもとより、大きな力をもらっていることにあらためて気づかされる日々でもありました。ぼくはひとりで生きているんじゃない。そう思いました。


今年は新たに癌が見つかったことで、その検査や治療の方針を考えることに気持ちが奪われて、落ち着いて準備ができるような状態ではありませんでした。ギリギリまで今年は中止にしようかなとも思っていました。一方で、ここで頑張らないと治療にも向き合えないのじゃないかという思いもあり、ほんとうに揺れました。でも揺れたことすら、終わってみればいい経験だったと思えています。


あらかた治療の方向が見えてきたので報告いたします。外科的な手術はやはり回避した方がいいと。で、当初はすぐにでも放射線治療をということだったのですが、泌尿器科の主治医と放射線医師の協議で、数カ月間ホルモン治療を続けて癌の進行を止め、その上で放射線を照射するということになりそうです。どのくらいの時間がかかるのか、ぼくには見当もつきませんが、避けて通ることのできない道ですから、淡々と進みたいと思います。


マイクさん


ぼくも、癌という病気と一生付き合うという前提で、それでも自立した生活を最後まで続けたいと思っています。そうしてその方法を模索しています。そのためには働き続けることが大前提になります。そのためには多くの人の力を借りなければ成り立たないと思ってもいます。そうしてそのためには、人に期待するのではなくて、自分自身が期待される存在にならなければと思っています。そうして期待通りの仕事をするのではなくて、期待を上回る仕事を続けていきたいと思っています。思うことがいっぱいです。
思い通りにことは運ばないかもしれません。でもあきらめずに一歩ずつ前に進みたいと思っています。マイクさん、一緒に進みましょう。

「か行」不得意な「新参者」は終わり ステージⅱに

しみてつ祭り2019のご成功おめでとうございます
人は 相当のエネルギーを溜め込むキャパがあるのですね
身を削ってもと言うほど大袈裟でなくて それもステージⅱのしみてつさんでも またマイクのような新参者の内なら やりこなす喜びを知っているばっかりに 演れるのでしょうね
でもしみてつさんは 本業や次の企画や 控えている治療のためのエネルギー蓄積をもお忘れなく

所がマイクの方は 一昨日の晋ちゃんの通夜に行けて 拝顔のお別れができたのはいいのですが 自宅から駅までの歩きに時間が掛かるのはしょうがないにしても 玄関出るなり腰が60度以上曲がったままで まるで老人そのもので情けなくなり また葬儀場へのタクシーで「槙島会館」の「カイカン」を何度言っても伝わらず運転手から紙とペンを出されました
晋ちゃんのポックリも堪えましたが 呑み食べの時間で1日が終わる退院生活に加えて 強いショックを受けています
昨日は 風呂に浸かりながら 新参者はもう終わったのだとシンミリしてしまい 風呂から上がる気力もなく 長湯してしまいました

昨日は訪問リハの言語療法士から 特に「か行」がダメなマイクに 飲み込みも良くなる 上顎にへばりつく様な入れ歯紛いの補助具を紹介されました
また昨日は 誰が見ても上半身は身障者でも また腰が曲がっていても杖なしで歩ける様では身障者手帳が貰えない制度なのですが 申請しておけば 市から コミュニケーションツールの貸し出しが出来ることを 役所の(娘に言わせればお父さん好み?のその通りの)難病担当の保健師さんからの指導を家で受けました
事務的で冷たいばかりのお役所ではなくラッキーに相談窓口に巡り会えるとハッピーになれるのです

でも本当を言うと 新参者はもう終わりと覚悟していますが ラッキー&ハッピーが途切れてない自覚はあります
多くの方の見守りと親切にどんなお返しをできるか
思うことだけではなく やらねばと考えるだけでもエンジョイして生きられる幸せなマイクです

明日は難病連の団体(個別の難病団体に属さないワラビの会)に顔を出し
明後日は ALSについての講演会がるので そこで ALS患者ネットを作れる様な方を探してみようと思っています
その翌日は点滴2週間だけが決まっている再入院です

追記1 朝刊に 公的病院(全国1500の内424 京都で4)に統合整備を検討せよとの記事が載っています
マイクが世話になっている病院の名前があり 如何なることか気になります

追記2 退院中にやることの一つ
賃貸家屋・部屋の調査はしましたが 保健師に相談しながら気づいたこと
スーパーALSでないと独居生活では訪問介護はほとんど受けられない?現実?

追記3 ステージⅱは 肉体的には自覚少なく QOLは高いが 精神的には辛くないことはないでしょう しかし完治の期待を信ずることで乗り越えられます
新参者のQOL は 程よく徐々に馴れる様に低下するのではないかと思う様にしていますし それなりに受けいれば済むことだと思う?忍耐強いマイクです

ポックリが羨ましい?/ALSの方が?/また比較を

心筋梗塞で堀井晋次さんが亡くなった
ギターライブ専門のパスタイム@小倉での 恒例のイベントの主催者で この7/14にALSのマイクを指名で出演させて頂いた方なのです
元々ロスホコスの「嵐電ハイジャック」(去年1月公演)を観られてマイクファンになったとまで言って頂いた方で 去年もロスホコスを招待出演させて貰いました

ご自身は格好良いジャズ系のギタリストで セミアマの関西ギタリストを率い出て面倒見の良い 実に楽しい方でした
まだまだ発展間違いない晋ちゃんで 勿体無ない 情けない?みっともある?
残念の極み!です

昨日のお通夜は拝顔したくお通夜にお参りしました
お風呂上がりに倒れ病院で1時間経たずに亡くなられたと聞きました
64歳で 棺にギター 祭壇にDVDとミュージック
奥さんと同窓生の御坊さんに 法名を釋天楽(てんがく)を頂かれた
ミュージシャンらしく天上界の音楽・天人の奏する音楽のこととか
そんな彼は自分が死んだことも知らずに天国へ行ったと誰もが確信する様に思えます

舞台で死ぬのが本望といった芸人がいます
羨ましいほどの奥さんに恵まれ 毎日いつ死んでも良いと言うほどの音楽三昧の晋ちゃんがポックリ亡くなったことを羨ましいと皆が言う
例えギター持って死んだとて どうせ死ぬのは諸行無常と言っても 本人は天国でそう思っているでしょうか

マイクは元々ポックリは嫌 その前にやりたいこととは絶対やりたい
そう考えることをブログにしていた
ぽっくり死にたいと言うのは日本人の70%で 死についての考えのないこんな国はどこもないとか なのにいつのまにか人生100年時代とは
マイクスタンディングのteacup blog内検索「ポックリ」で10件あります
ポックリよりALSでよかったとはこのブログ検索で3件あります

2018/10/26「やってから死にたい」(最善の死とは)
[最近にふたりの知人が亡くなった
共にひとり者での突然の死を 羨ましいと言う人も多い
そう思ってあげることしかできませんが ポックリ死を憧れはするが本当にする筈も無い
ポックリ死は最悪なのです

何時死ぬか分からないままポックリ逝くのは最悪の死とは言えないまでも 勿体ない死に方です
ならば死ぬ日を決めて余生を楽しめるかというと このブログの原点となった須原秀一さんとて勿体ない死に方だっとしか言えません

5年前に紹介した団鬼六の快楽教団を読み返してみると 考え探してみれば ポックリの前にやってみたい事は色々あるのだと 彼の凄さを見直しました

・時にはアダルトの男女ペアを招いて性戯の実演を信者たちに見学させる
・信者たち同士のスワッピングや乱交パーティなどを開催する
・月に一度は研修バスで地方のストリップ小屋を見て廻る
・博打場見学 ファッションヘルス 性感ヘルスを愉しむ
・信者たちを放り出してみて若い娘をナンパさせる
「快楽なくして何が人生」団鬼六]

2013/2/28「快楽なくして何が人生」(楽しい死とは)
[・・・ところが今読んでいる「快楽なくして何が人生」団鬼六 幻冬舎新書 は相当な本で 団鬼六の放蕩人生から見える エロスの永遠絶対性を知ることができる
その中で 初老の金持ちに快楽教団に入会させる「快楽教老人ホーム」を計画しており その具体的運営内容を提案していて 所詮金持ちの遊びかも知れませんが 貧乏老人用のエロスセンターの設計に役立つもので 感心して熟読しました]

マイクが設立を強く要望する安楽自死支援施設に 楽しいことをしてから死んでもらうべきで その支援機能も持ち合わせるべきと考えています
その経済的バックグランドもこのグログで解説しています
9/15にも長尾和宏医師が「大往生手当」を提案していると紹介したのと同じです
この手当で 何がしたいか マイクは考え悩んできたのです
団鬼六は流石ですが もっと誰でもと言う様なものが中々無いのです
ポックリの前にこれを考え決めておかねば死ねない筈です
安楽自死支援施設に世話になる前に

比較はしますが差別はしません

今日は他人と自分を比較することとは?に就て少し
先ず マイクの思いから
ツイツイ何の罪悪感もなく無意識にやってしまう
結構 比較を楽しんでいるのですが ミミッチイ「コスパ癖の男」はモテないのは確実
隠れてするもの隠すもので 公表はリスキー ましてヘイトスピーチは度胸
こんな事位しか? でももう少し考える!

何の為にするか?
優劣判断する
差別して選択条件にする
例えば トリアージ 商品購入 結婚

リスク?
被差別からの反感反発
公表でデータミスに責任

メリット?
妄想のバックアップ(バックグランドデータで精度構築)

これ位しか!

なぜ人は比較するのかを これからまたサイトに頼ります
「他人との比較は良くないと分かっててもやめられない3つの理由と改善法」も参考になりますが
「なぜ人は差別するのか。心理学の視点から差別の仕組みを解明」が刺激的でした それに依ると
差別の種類
racism(人種)
sexism(性)
ageism(高齢者)

差別の要因
scapegoat理論(生贄)
内集団バイアス(集団の自尊心敵対 競争意識を生むメリットも)

もう一つ
「差別がこの世からなくならない、根本的な理由について。」2018/12/28岩崎夏海
差別をなくす運動というのは、なかなか上手くいかない。
その根本的な理由は、差別をなくそうとする人そのものが、差別心があるからである。というより、差別をしている。・・・・
 誰を差別しているかというと、彼らは「差別をする人」を差別している。・・・・
差別するということが人間の本質の一つだからだ。というより、生き物としての本質の一つだからだ。・・・・・
もちろん、人間だけではなく、他のあらゆる生き物が差別をする。
人間が特殊なのは、むしろ差別をなくそうと努力しているところだ。
差別するのも人間の本質なら、それに抗うのもまた人間の本質というわけである。・・・・・・
そういう矛盾した様相こそが本質で、逆にいえばその矛盾を解決しようとする行為——つまり差別をなくそうとする行為は、本質から外れているのである。そっちの方が、むしろ無理が大きいのだ。
そういうニュートラルに近い状態で、例えば国籍差別をする人と接すると、彼らもその人の言葉に耳を傾けるようになる。
実は彼らも人間である以上、本質的には「差別する心」と同時に、「差別に抗う心」も持っている。

流石に説得力あると感心します
でもここからがマイクの出番
何でもかんでも比較調査している訳ではありませんでし 表面的でしかありません
一か八かギャンブルで決めるべきとした若気の至りもある(見た目だけで)
下方比較は特にメリットを臨床心理士から効用を認められていると9/17に白状を交えて書きました
同病者との進捗の違いから安堵したり 認知症になるよりもよかったのではと思ったり

元々 孤独願望の強いシャイなマイクであっても 拘るのでない只 人を見るのは面白く楽しいものです
他人に関心はあります 好きでも嫌いでも
優生保護主義を完全否定できるか?考えたことはないでは済まされない
多数派に属したくないだけの偏屈マイノリティ
アンチ巨人なだけの阪神ファン
京都のエリートが反自民の隠れ共産党であったりとか

世間は ヒューマンなもの 暖かいもの 心あるものばかりではない
多様共生するにはお互いに違いを理解し合うことが前提

最近では パラリンピックへの理解と また格段に親しみが増している
パラリンピックの意味を考えてみるのも
アンケートでは 理解促進に40%が懐疑的とか
選手だけでなく弱者一人一人に日が当たるように向かう指針に!とか
暮らしや教育の中で弱者も同じ環境の中にいることが気づき合う指針に!とか
弱者の弱者が責められるのでは? アスリートは極一部!
弱者同士が競うことの意味は?
弱者が弱者を意識しない/しないでいい?/個性の多様性ですませる?

元々競争スポーツはライオンが群れで生きる為の修行?
孤独な狼はニッチに個性で生きる奇抜な技を生み出す能力
弱い生き物は群れて生きる為標準が好ましい
弱い生き物が戦い 強くなるのは賢い
周りに合わせられるまで
超える必要は? またまたクドイ!

最後にこんな話しを
イグノーベル経済学賞にカラオケが選ばれた理由を思いだしました
自分のを他人に喜んでもらえると思うには 他人のを辛抱する「寛容」さを育む修行マシンとして
差別の歴史がが寛容な社会を育んできたのですが 歴史に遅れのある・・・・・

忘己他利(もうこたり)まで 何でもあり?

昨日の「自分に徹する」に続いて
「社会と繋がる 関わる」 とはを考えてみます

人は皆支え合って生きていることを忘れてしまい易いのです
例え個人主義・自由主義者だと宣言しても 一人で生きられないので社会連帯責務を免れられません
しかし社会とは曖昧でもあり 意識せずに生きられることも事実ですが 時には確実に認識し合うことがあるのです
対等な繋がりもあれば一方的な世話を受ける付き合いもあるし 敵対することも稀ではなく 留意を欠かせないのも事実
人に善悪を 繋がりにも善悪を考えたくはないものの 無意識にでも避けられないのが現実

マイクはこんな事でエネルギーを費やさない様 見るのを避けたりフラついてみたりで 日頃意識もせず頑張ってもいません
清水さんの言葉に刺激され 他人を比較せず 繋がっていれば自分に徹するも良しの信念を見習えるかと考えてみたのです
これも最近の利己利他に悩むマイクの告白から展開したものでしたね

ところがNHKブラタモリで比叡山を取り上げ 延暦寺 伝教大師の教えの「忘己他利」の紹介がああった
利己でも 自分を通すでもない?
忘己他利こそ慈悲の極みとか
尚更難しいこの教えには着いて行けないのでここら辺で自分に戻ります

追記1 よく考えると仙人修行に憧れたり あの時もそうであった様に 逃避願望の強いマイクこそ 忘己 亡己 の素質を?

追記2 自己中をヘイトするマイクです
自己ファースト化する世界を誰も止められないなんて 人類皆兄弟と言った人に何とかならないかお願いしたいものです

今日は10/6の5団体合同パフォーマンス「オドルタカラバコ」の合同リハーサルに参加しました
この日はパーキンソンダンスWSもあり 9/30からの再入院再点滴中ですが 土日外出でチョイ出演します

明日は 徹する 関わる よりマイクにはミミッチイ癖である「比較」について考えて置かないとと思います
多分更に手に負えないテーマなので 途中で投げ出しそうですが?

強くなりたい/無頼のままで!

清水さんの昨日のお言葉を 何度復唱しても 何うしても現状(矛盾)を把握した上で課題解決する癖が取れないマイクを意識してしまいます
何でも比較したくなるのを マイクの理系の貧乏性ではないかと
しかし決して現実主義者ではなく 理想主義者・楽観主義者なのです
とお話ししています
また文系の清水さんが見るからの無頼の豪傑なのに繊細な理想主義者であられるのは多彩な経験による世間とご自分を知り尽くしておられるからなのでしょうと思っています

でも清水さんの今日の返信で 無頼のままでは生きられない人間の社会性を説かれています
その上での無頼を徹する生き方の力強さを羨ましく思います
「自分に徹する」などと言うことを生き方とするなどとは 何事にも自信のないマイクの言える台詞では在りません
然も 社会を徹底して意識すれば マイウエイが必然的にオールウエイに繋がるとの信念は素晴らしいですし 社会的なベースがなければ言えないことです

それで「自分に徹するとは」と サイトに助けを求めてみました

HatenaBlog[May the force be with us]
http://silver-stone.hatenablog.com/entry/2017/02/25/082624の答えは
2017/2/25「自分を知り自分に徹する」
『道は開ける』より
「他人の真似をするな。自己を発見し、自己に徹しよう」
不安感、劣等感など、生きていると自分を他人と比べて、劣っていると卑下してしまうことがあります。そしてイライラしてしまったり、心配のあまり集中力をなくし、本来の力を発揮できなかったり。

そんなときは「どんな時も自分らしく振舞う」ことを意識してみましょう。
私たちは「自分らしくふるまう」ことができていません。順応できない型のなかへ自分自身をはめ込もうとして、イライラしたり、不安になったりしています。
誰もが他人になることはできません。あなたはあなたでしかない、自分らしく振舞うことで、初めて本来の力を発揮できます。

「我々は本来あるべき姿にくらべると、ようやく半分だけ目覚めた状態にすぎない。我々が利用しているのは肉体的にも、精神的にも、自分の資質のごくわずかな部分だけだ。大雑把ないい方をすれば、人間は自分の限界のはるか手前のところで生活している。彼は種々雑多な力を有しながら、いつも決まってそれを発揮しない。」ウイリアム・ジェイムズ

と ありました
詰まり「マイペース」と言うことではないのです
自分を知らなければ 徹することは許されません
即ち 己の育ちを知り その育ちに従うべきか自己判断した自分の責務を意識し その上でそれに従うことができる

それにしても これにも「他人と比べたりすること」を避けるべきと言っています
しかし ヘーゲル的には 現状把握から始まるその結果 嫌でも比較することにより矛盾(保存) に気がつくのです
理想や神から始まっても 現実無視(否定なし)では高揚はあり得ないのです

妄想もマイクは上下平等比較抜きでは 人権問題なら尚のこと 高揚されないものと信じています
詰まり 清水さんの理想主義妄想と マイクの現実否定妄想が揃ってこそ人間としてのユートピアが見えるかも知れません

とかなんとか書きながら まだまだ清水さんの信念の領域に至る修行に何が欠けているかも分かっていません
でもアウフヘーベンのためには 清水さんとマイクの往復書簡の両方が役割すると言うことであることは間違いないでしょう

無頼を捨てて……。

マイクさん

台風の影響でしょうか。強い風音につつまれて返信を書いています。

ぼくは強い信念など持ち合わせていません。自分自身に頼るしかない生き方をしてきた結果ではないかと思います。カッコウをつけて言うなら無頼を気取って生きたきたのです。頼るべきものは何もいらない。自分だけを頼みに生きていく、と。それは言い換えると、究極の利己かもしれません。ただそこに社会と関わっていたいという願望があるのです。それがなくなっちゃうと、自分自身が存在する意味がなくなる……。そういうことです。

ぼくはとても弱っちい人間なのです。昨日もある女性の話を聞いて、激しく動揺してしまいました。その人のご主人は、ずいぶん前に亡くなられたのですが、大腸がんにはじまり、肺、肝臓、腎臓と続き、亡くなったと。その間ありとあらゆる治療を試みよくなったり悪くなったりを繰り返したそうです。彼女も共に立ち向かったけれど、最後はどうすることもできなかったと肩を落としました。

その話を聞きながら、ああ、ぼくも同じような道をたどるんだなとちょっと凹みましたが、その一方で母のことを思っていました。母も何度となくがんだと診断され、手術を繰り返し、そうして96歳のいまも問題を抱えながらも元気で過ごしている。そんな人生もあると思うと、ぼくもそこを目指そうとちょっと元気が湧いてきます。

でもそう思っても、無頼を気取っていたのでは、ひとりでは何もできないなというのも実感としてあります。共に立ち向かってくれる人がいれば、もっと勇気が湧いてくるんじゃないかと。だったら無頼など捨ててしまえばいいと。自分に頼るなんて、いちばん狭い生き方だなあと知ってしまったのです。そう、社会に関わり続けたいと思うのは、大勢の人の力を借りたいということと同じことなのです。自分ひとりの力ではどうにもできない。だったら人の力を借りよう。そんな思いなのです。

無頼と言えばカッコウいいかもしれませんが、ひとりぼっちだったのです。とても弱い人間だったのです。そのことに気づかせてくれたのが、がんという病気だったのです。

ぼくはいま大勢の人の支えで生きています。そのことがわかっただけでも生きる意味があるのかな、生きている意味があるのかなと思います。そうしてその意味をどういう形で実らせたらいいかを必死で考えているのです。

ぼくの信念なんて、とてもちっぽけです。この風に吹かれたら飛んで消えてしまいそうなくらい。こんな信念に振り回されて生きるより、大勢の人の中で、その人たちの力に支えられて生きる方がずっと幸せだと思います。それがたとえひとりの人であっても、共に立ち向かってくれる人がいる幸せを噛み締めたいと思います。無頼を捨てて……。

遅れましたが敬老の日とはを考えます/強くなりたい

敬老とは?
70年前は 55歳以上が老人であり 敬えるべき老人が多かった頃の発想だったのでしょう?
長寿天国と日本を褒め称えたいい時代があった様に思いますが 今は?
高齢者医療無料のバブル時代もあったのは S48年頃〜(老人保険法S58〜)

断然トップ と 言われ出した高齢化率も 今や28.4% 長寿先進国?
平均寿命より切実です
人生100年時代は流行語に(金融庁まで95を標準に)
不老長寿を究める薬でも?出来たのでしょうか
2017に日本老年学会が「高齢者を75歳以上」と提言し 65から一挙に10年先に

麻生の「老人はさっさと死んで欲しい」発言2013を待たず 老人の社会負担が 言われる様になり 嫌老社会の風潮が生まれる
それに対して健老社会をコスパだとの信仰を起こし 健康寿命まで設定した
人夫々のバラツキを忘れて 恰も誰でも100年と錯覚する迄に嵌る

マイクのネガティブ思考は 尊敬に値する老人だけを敬老せよと言いそうですが マイクとしては敬老を 羨まれるほどの尊敬される老人で在りたいとの願望祈念を意味すると 無難に思うことに
但しそれは人生55年時代のことで 健康寿命を越した老人にはバラツキがある 100まで生きると 現実には 敬意敬老より要支援要介護認定?
支援の要否が社会的な問題・福祉として取り上げられたのです
介護保険法1997〜 支援の時代そして人権の時代へ

敬老の日9/16と老人の日9/15の違いは
祝日法1966の敬老の日の趣旨は、多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝うこと。
老人福祉法1963の老人の日の趣旨は、国民の間に広く老人の福祉についての関心と理解を深めるとともに、老人に対し自らの生活の向上に努める意欲を促すことである。

社会に尽くして来た老人は敬老されて まだQOL向上の可能性ある老人しか社会は受付けないと言っているようなものです
これから見ても2000年以前の日本の福祉は人権問題がありそうです

さて 今日の清水さんの言葉に感心して繰り返し読んでいます
「利己か利他か……。
ぼくは他者との比較で自分の在り方、立ち位置や境遇、さらには恵まれているかどうかなどを探ったり、確認したりというやり方を好みません。ぼくは徹底的に自分自身に集中したいと思っています。自分に徹するということです。ぼく自身がやりたいように、徹底的にやる。そのぼくが自分のことだけを考えているようなら、それはとんでもなく利己的な結果を招くでしょうが、そのぼくが社会との関わりの中で生きることをやめない限り、他を利することに繋がると思っています。そこではじめて利己・利他という二項対立を止揚できるのではないかと。そういう生き方をしたいと思っています。」

マイクは今日のテーマの文章でも 最近の書き込みでも何時も白状している通りです
マイク自身が利他であったり利己であったり 比較や差別志向があったり 時と場合にふらつく人間であることを自己不信に思ったりするのです
清水さんはそれを自分に徹することで避けられるとの信念をお持ちだと読み解きました
社会との関わりをやめないと言う強い信念も何処から生まれるのか羨ましい限りです
繰り返し読んでみますが 弱々しいマイクには刺激的ですが そのようになれないことを 何度もここで白状するだけで悩みが消えません
清水さんの様な強い信念を身に付けたく思うマイクをご叱責下さることを強く望みます