VSEDとか鎮静死より安楽死だけで!

多分 月末のお仕事でお忙しいことと存じます
何よりも生産性ある命に価値を感じてしまうマイクにいつもお叱りをいただくように マイクは現(に)役(役立つ)を終えたことの寂しさを感ずるのは自分だけのことでいいのですが 世間に世話になるばかりなのに 感謝も忘れた年寄り老人が贅沢しすぎと思えて腹立つのです
お忙しいことは羨ましいことです 現役を全うしてください 返信よりも

さてALSを自覚する前の マイクのブログを見返していたら「鎮静死」と言う言葉を改めて知った
そしてまた 当事者として 最期の答えは見つけないとならないのですとも 返信を見て思いました

マイクスタンディングのブログ 2018/9/27 「鎮静死が自殺幇助ではないのに」(最善の死)では

「今朝のラジオ深夜便【明日へのことば】で 「待ち受ける”死”に向けて」の映画監督 関口祐加さんが マイクをびっくりさせるお話をされた
最新作『毎日がアルツハイマー ザ・ファイナル 最期に死ぬ時。』2018年7月
『毎日がアルツハイマー2』(2014)『毎日がアルツハイマー』(2012)
コメディ・ドキュメンタリー作品を心がける明るくて本音で生きる素敵な女性だ

安楽死が 医師任せのグレーな強制処置であることを疑問視し スイス(自死幇助クリニック院長エリカなど)の自死幇助を唱える
また強制安楽死ではなく 鎮静死であるべきとも
日本は自死幇助や安楽死は認められていませんが 人工的に眠らせたまま息を引き取る「ターミナル・セデーション」(鎮静死)は実際に行われています

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答えなんか見つからないんだろうなあ

マイクさん

今日も、安楽死の話しをしたいのですが その前に、尊厳死で退院したいと決めてからは 自死することを考えることもなく、この往復書簡で余裕ある療養生活を楽しんでいます。

このひと言とてもうれしいです。いい感じですね。

今朝NHKの地上波で「病院ラジオ」という番組をみました。
人気コントコンビのサンドウィッチマンが、東京・世田谷区にある、子どもに関するさまざまな病気を診る国立病院に出向き、2日間限定のラジオ局を開設。入院しながら難病に向き合う子どもたちや、闘病するわが子に寄り添う家族の、日ごろ言えない気持ちを、リクエスト曲とともに聞いていくというものでした。

入れ替わり立ち替わり、難病と向き合い今を生きる子どもたちが登場しました。その中でとても印象に残った男の子がいました。その子はわずかでも紫外線に曝されと皮膚がんを発症する恐れがあるという難病と向き合っています。UVをカットする顔まで覆う帽子をかぶり、その上に日傘をさし、服は長袖、長ズボン、付き添っていた父親は、夏がかわいそうだとつぶやきました。

男の子は友だちからきかれたそうです。
「なんでそんな帽子をかぶってるの?」と。
男の子はその問いにすぐさま答えたそうです。
「これがぼくだもん」と。
この何気ないやりとりの中に、ぼくはこの男の子の勇気をものすごく感じました。ちゃんと自分を受け止めて生きて行こうとしているなと。難しい治療を続けながら、その上で不自由な生活を続ける。外で友だちと遊ぶこともできない……。でもそれがぼくなんだと。

ある母親が登場しました。この母親と父親の遺伝子が一緒になると必ず子どもには障害が出るそうです。その障害は肝臓に腫瘍となって姿を現したそうです。就学期前の3人の子どもたちは、確実に病に蝕まれていました。上の2人には父親と母親から肝臓を移植してもらい、命を繋いだそうです。3人目の子どもはこれからだと。

ある女の子は、生まれつき排泄ができなくて、ずっとストマ(人工肛門)を着けていると。女の子は生まれてきても、数日しか生きられないかもしれないと言われていたそうです。それでもお母さんは私を産んでくれた、と感謝を口にしました。産んでくれたから今がある。生まれてきたから今がある。

延命治療の範囲とは、意味とは

マイクさん
ぼくは彼ら、彼女たちの姿を見、言葉を聞き、マイクさんのこの疑問をほんとうにどうとらえていいのかわからなくなりました。ぼくもじっくり考えてみたいと思いました。
でも結局、答えなんか見つからないんだろうなあとも、薄々感じています。

尊厳死の現実を知ってしまった!

「 この視点が欠落すると、社会という化け物を跋扈させることにならないでしょうか。」には同感ですが 化け物にどう対処するかで悩むべきか悩まざるべきか マイクはその答えを見つけようとして更に悩んでしまっていたのです
(長年考えてきた社会を意識しての安楽死支援施設が 無駄な考えに終わってしまいそうに思うしかありませんでした)

個人の力を信じても 結果的には 成るように成るとしか実感できないのが多くの人の現実なのではないかと 思ってしまいます
このように考えてしまう多くの社会人は マイクのような根暗か自己中で生きていくことに自信がある人なのでしょう
社会はそのような人ばかりではないことを 自ら弱者になった今 信じられるようになったばかりか 愛や希望と 忘れかけたものまでいただいたのです

今日も 安楽死の話しをしたいのですが その前に 尊厳死で退院したいと決めてからは 自死することを考えることもなく この往復書簡で余裕ある療養生活を楽しんでいます
しかしそう思えると信じていた入院前とは違って 難病病棟で現場のの事実を少しですが知った今 尊厳死とはそんな甘いものではないと知ってしまったのです

そのことを知ってしまったことで 益々安楽死の必要性を 考える様になり 安楽死3連チャンをマイクに投稿させたのですが 一旦 尊厳死についての最近の思いを述べさせて下さい

尊厳死は確実に苦しい
それならなぜ緩和ケアをしない?
しないのではなく 痛みどころか延命措置する時点では どうしようもない苦しい状態に確実になるのにです!

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ぼく自身、あなた自身がどう思うか

マイクさん

ちょっと補足しておきます。
ぼくは政治の問題を個人の問題だと捉えています。有権者の存在というのはそういうものだと思っています。今の政治がダメだと思うなら、あるいは個人の影響力を行使したいなら、そういう投票行動をとればいいことなのです。叶う叶わないは別次元の問題です。意思表示として、ぼくらは政治に口出ししていかなければならないと考えています。
政治は社会の問題だと思うと、自分1人くらい投票に行かなくても社会の大勢に影響はないなということになるのではないでしょうか。それがいまのこの国の社会状況なのだと思っています。

政治の問題はぼくの問題なのです。一人ひとりの意識で政治は変わると言いたかったのです。
社会の問題は徹底的に”個”に集約できるのです。”個”の集積が社会で、”個”の意思の集約が政治なのですから。だから安楽死は社会の問題ですが、ぼく自身、あなた自身がどう思うかという”個”の意思の集積としての社会の問題だとぼくは思っています。
この「あなた自身」はマイクさんに向けて言っているのではなく、いまこの時代を生きるすべての人に向けて言っているのです。

この視点が欠落すると、社会という化け物を跋扈させることにならないでしょうか。

自然死できない人も!できる人でも!

流石の文学部の文筆家からの返信には いつも噛みしめるように熟読させられます
しかしマイクは微妙で複雑なことを受け取ることが苦手なので 只々感心するばかりですが 直感的に「生死の事など、どうでも良い人がいたら、その人は悟りを開いたと言えるだろう」との締めの言葉の中に 成るように成ると悟れない自分を見つけようとしました
でもまたも只々悟れないままと気付きました

マイクが学んだ物理は 複雑で曖昧な現象を できるだけシンプルに理解してしまうことに喜びを得ようとし それだけで何でも分かったように安堵する癖があります

山折哲雄が 死としては自然安楽死とモルヒネ安楽死があればいいと言い切ったりするのに痺れたりするのです
自然死と安楽死だけでいいことを容認されるシンプルな社会を理想としています

もう一つ気にしたのは「これは政治の問題ではなく、ぼくら自身の問題なのだと思います。」です
マイクは個人の死は 忘れていてもいいのですが それでは確実に当座になって 悩むことが殆どで 多くの人の社会問題として捉えなければなりません
安楽死を個人の問題として済ませられないのです

マイクに安楽死支援施設の必要性を考えさせた赤ちゃんポストについての マイクスタンディングのブログを転記させて下さい

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右往左往ジタバタが続く

マイクさん

難しい問題ですね。
この問題は我々の倫理観、生死観はもちろん、政治や制度、経済のあり方まで幅広く複雑な問題を孕んでいると思います。ぼくのようなあやふやな人間が軽々に論ずるようなことではないと。
だけどこの死をどう扱うか、どう見るかについて、ぼくが大きな影響を受けた一文があります。徒然草第九十三段です。短いので全文を引いておきます。

牛を売る者あり。買ふ人、明日、その値をやりて、牛を取らんといふ。夜の間に牛死ぬ。買はんとする人に利あり、売らんとする人に損あり」と語る人あり。
これを聞きて、かたへなる者の云はく、「牛の主、まことに損ありといへども、また、大きなる利あり。その故は、生あるもの、死の近き事を知らざる事、牛、既にしかなり。人、また同じ。はからざるに牛は死し、はからざるに主は存ぜり。一日の命、万金よりも重し。牛の値、鵝毛よりも軽し。万金を得て一銭を失はん人、損ありと言ふべからず」と言ふに、皆人嘲りて、「その理は、牛の主に限るべからず」と言ふ。
また云はく、「されば、人、死を憎まば、生を愛すべし。存命の喜び、日々に楽しまざらんや。愚かなる人、この楽しびを忘れて、いたづがはしく外の楽しびを求め、この財を忘れて、危く他の財を貪るには、志満つ事なし。 生ける間生を楽しまずして、死に臨みて死を恐れば、この理あるべからず*。人皆生を楽しまざるは、死を恐れざる故なり。死を恐れざるにはあらず、死の近き事を忘るゝなり。もしまた、生死の相にあづからずといはば、実の理を得たりといふべし」と言ふに、人、いよいよ嘲る。

吉田兼好著・吾妻利秋訳

この文の眼目は3段目の「」の中です。

「死を怖がるのなら、命を慈しめ。今、ここに命がある事を喜べば、毎日は薔薇色だろう。この喜びを知らない馬鹿者は、財や欲にまみれ、命の尊さを忘れて、危険を犯してまで金に溺れる。いつまで経っても満たされないだろう。生きている間に命の尊さを感じず、死の直前で怖がるのは、命を大切にしていない証拠である。人が皆、軽薄に生きているのは、死を恐れていないからだ。死を恐れていないのではなく、死が刻々と近づく事を忘れていると言っても過言ではない。もし、生死の事など、どうでも良い人がいたら、その人は悟りを開いたと言えるだろう」

嘲る人々を世間あるいは社会と考えればいいでしょうね。
生死についてまともに議論することを回避して、そのことすら経済と結びつけて損得でしか論じられない。なんだか今の時代にもピッタリあてはまりますね。
実際に医療の現場で起きていることに目をつむり、近い将来47万人もの人が自分の最期をめぐって彷徨うことが明らかなのに何も手を打たない。
死に方の問題など、現世の損得になんの関係もない。そんなことよりもっと儲けることを考えなくっちゃ。だって金があったら死に方だって思い通りになるんだよ、と嘯く社会ですね。

これは政治の問題ではなく、ぼくら自身の問題なのだと思います。マイクさんとお付き合いさせてもらうようになってから、ぼくは自分の生死について、特に死に方の選択についてはよく考えるようになりましたが、それを社会でどう受け止めたらいいのか、個人の死を社会がどう受け止めてどう扱ったらいいのか、よくわかりません。苦しいのは嫌だ、安楽な最期を迎えたい、とは思いますが……。
どうやらぼくはまだまだ悟りなどという境地とは対極にいるようです。右往左往ジタバタが続く毎日です。

47万人が彷徨うのを危惧しないでいられない

面白くないかも知れませんが 連チャンで安楽死シリーズにしてみます

去年の10月に マイクスタンディングのブログに コメント頂いたのは マイクが「ナンバ走り」について HPで力学的エネルギー研究をしていて それを評価して頂いているダンス・ランニング愛好家のluneさんこと南の風さんからでした

『橋田寿賀子さん「安楽死、もうあきらめました」
西部邁さんの死、橋田寿賀子さんの思い 安楽死を考える
など大いに刺激されました』とありました

そして関連して教えてもらったのが「痛くない死に方」ブックマン社 (2016/12/22)の著者 長尾和宏が橋田に反論しているのを知ったので そのことをコメントに返信しました

>南の風さん
懐かしく思います
マイクは橋田さんの思いが発展し広がることを大いに期待します

しかし長尾和宏は ご自身のサイトで「安楽死で逝かせて」橋田壽賀子の主張はここがおかしい で下記のように反論しています
https://ironna.jp/article/8620?p=1
日本人にはなじまない安楽死に世論を導くのではなく、日本が「在宅での尊厳死(平穏死)」が可能である国であるべき と

マイクは 長尾も橋田も理想として夫々を 現実の社会で早く実現できなければ 修羅場の老人社会が直ぐに訪れると危惧しているのです
また色々お教えください <

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安楽死事件に見る現実

古くに衝撃的な京北病院事件 1996 があったことを忘れかけていましたので
まず概要を見てみます

「21年前、筋弛緩剤を投与した医師が「事件」の真相を語った」
「安楽死を遂げるまで」小学館 の著者 宮下洋一が綴る(ZAKZAK)

21年前、京都の山間部の町を安楽死騒動が襲った。町で絶対的な存在だった院長が殺人容疑で書類送検されてしまう──。この1年、欧米諸国の安楽死現場を歩んだ筆者が見たものは、「個人主義」の価値観から生まれた死の世界だった。疑い、納得し、時には、共感した。・・・・・・・1996年4月27日、国保京北病院(現・京都市立京北病院)の山中祥弘(よしひろ)院長が、当時48歳の末期ガン患者・多田昭則さん(仮名)に筋弛緩剤を点滴の中に投与し、死亡させた。1か月後、内部告発によって、警察が捜査に乗り出し、6月に事件が表面化し、報道が過熱。その後、殺人容疑で書類送検されるが、翌年の12月12日、嫌疑不十分で不起訴処分が決まった。・・・・・「今日、私が貴方に会おうと思ったのは、ちょうど私の親父が死んだ年齢だったからです。もしかしたら死ぬかもしれない。そろそろ、誰かに話をしておきたいと思ったからなんです」

死は個人のものでもあるが家族・友人他のものでもある
山中院長は友人の 癌告知してない多田患者に 意思確認しなかったがそれでも不起訴で終わる

纏めとして別の記事(クール・スーサン)には
京都府警は殺人容疑でT院長を書類送検とした。しかし平成9年12月12日、京都地検は死因との関連性や殺意の立証が困難としてT前院長を不起訴処分にした。T院長を不起訴処分にした地検の判断は、文字通り証拠不十分で立件を断念したのではなく、証拠不十分を理由に安楽死を法律で裁くことを回避したといえる。この地検の判断によって、京北病院事件におけるT院長の刑事責任は不問にされたが、それに異を唱える者がいなかったことが地検の英断と思われる。

概略は斯くの如し

さてと この事件では 下記するそれ以前の判例にあるの安楽死の4要件が使われた
1962年 1991年の判例で安楽死が明確に容認されているのです
然も 京北事件では 意思確認の条件が欠けているのに

今更何故尊厳死法案に反対するのか 反対する必要もなく 終末期医療の現場では現実には実践されているのに
ホスピスを安楽死施設との違いとして見ても 確かな違いがあるのでしょうか
尊厳死を法制化せず曖昧にしておくことが 医師の自由度や責任逃れに有利なのだと思います
然も ビックリしたことに安楽死も然りなのです
判例や 要件には 消極的ならいいが 積極的が悪いと言うことを考えてもいないようです
ホスピスとの条件の違いなどあるのかまでは調べ切れませんが では何故 法制化など待たなくて 終末期医療がもっと積極的に堂々と取り組めないのか 取り組まないのか

安楽死の4または6要件とは

東海大病院安楽死事件1991 横浜地裁有罪判決の安楽死4要件

1. 治療行為の中止のためには、患者の意思が推定できる家族の意思表示でも足りる。
2. 医師による積極的安楽死の4要件は、
⑴ 耐えがたい肉体的苦痛があること、
⑵ 死が避けられずその死期が迫っていること、
⑶ 肉体的苦痛を除去・緩和するために方法を尽くし他に代替手段がないこと、
⑷ 生命の短縮を承諾する患者の明示の意思表示があることである。

山内事件1962 名古屋高裁 成田 薫判事の安楽死6要件

⑸ 医師によること
⑹ 倫理的であること

世論は衝撃的だったかも知れませんが 本人確認取れればと それだけで済んだ?
社会的な受け取り方には 容認条件の拡大解釈を懸念するとあるくらいでした?

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安楽死・安楽自死を見直したい

本当は若くて元気なら生きたい この先に希望が見え愛が溢れているなら
そんな贅沢は云う積りありませんし そうでなくともこれまで死にたいなどと思ったことはありません
でも事実2万人かの人が自死し このままでは厚生省が2030年には死にたくても死ねない47万人が自死?するしかないと言うのです
個人や環境によって死にたいくらい辛い方がいるのです 増えるのです それも凄いことになるのです
天罰として自死願望者を経験したマイクには 天命として「死にたくないが死しか見えなくなっている人を救う」義務があるのです
そのために10年来 他人事として考えてきた安楽死を考え直して 自分を生贄にしてでも考え続けたいのです では 安楽死とはから

安楽死・安楽自死を見直したい

この往復書簡では 自死・尊厳死のことに限ってしかお話をしていませんでした
マイクの元々のブログ「マイクスタンディングのブログ」では 現実離れかも知れないと認識しながらも 安楽死だけを妄想のように考えてきました

安楽死が世間で注目を浴びるようになったことの大きな貢献者は「安楽死で死なせて下さい」文藝春秋 (2017/8/18)の橋田壽賀子に間違いない
多くの賛同もあるのは確実ですが批判も激しい

4月22日に「そこまで言って委員会」で取り上げられた批判を紹介しましたが もう一度上げておきます
⑴人の死に国家が関与すべきでない
⑵医療費削減や臓器移植の狙いに
⑶尊厳ある死とない死との線引きすべきではない
⑷死にそうな人に自己決定能力あるとは
⑸遺産を狙った犯罪
⑹気が変わったら
⑺認知症の人は
⑻死ぬ義務を義務化されるのでは(難病遺族会)
⑼障害者を死に追い込む

厚労省が2030年に看取られる場所なくて死ぬ人が47万人とする
病床が足りず 特養とかは一杯で だから在宅で死ねと言われても余裕ある家族があるはずもないのです
殆んどの人が橋田壽賀子のようにスイスへ行ける訳でもなく その他には自死しか考えられません
多分マイクの自死願望体験からして 家族や社会に迷惑をかけない自死をするには 殆どの人がそんな気力も体力もないはずです

その時点で安楽死や尊厳死が許されても 医者に任すだけでは追いつかないのです
赤ちゃんポストのような ホスピスのような専門施設として受け入れる体制がないと機能できないのです
安楽死支援施設は決して人を殺めるためではなく 赤ちゃんポストと同じくらい社会的に必要なのです

死にたくなっても 人は少しでも我慢できる限界まで施設があることで安心して生きることができます
支援施設がなければ 赤ちゃんを捨てるか殺すしかないし 自死願望者は迷惑構わずの自死しか思いつかないのです

勿論この自死は 誰にでも許されるものではなく 終末期老人だけをマイクは考えてきました
病人や障害者とか自死願望者などの弱者一般については考えを避けてきました
それは人権に絡み マイクの手に負えなかったから当面問題化する老人終末期だけに限るべく避けて済まそうとしたのです

でもはっきり言って 終末期に間違いないALSの老人マイクが自死願望者を体験したから 当の本人のことして必要だ(った)と言えるのだと思って 無責任でも 如何なることかは分かりませんが 安楽死について考え直して語りたいと思っています

尊厳死が去年2月に法制化された韓国では 4ヶ月で8500人が施行したという
公式には韓国が日本人の安楽死を受け入れる日を待つしかなくても 尊厳死が実際には日本でも容認されていることを考えれば 和民とか民間がヤクザ紛にやって貰いたいと昔から願っていました
そのようなことを思いつくだけを楽しんでいたマイクでしたが 実現不可能を感じて虚しくもありました
しかし今は そのような波が来ているような世相を感じます

もう一つ別の見方で考えたいことがあります
京北病院事件から20数年 これを振り返ることをマイクはこれまでしてこなかった
振り返るにはマイクが自分でするには限界がありますが 考えたいと思います
当時とは全く違う受け取り方ができるはずと思うからです

本当は死にたくない!

マイクさん

浮き沈みを楽しむ余裕……、って(笑
お元気そうで何よりです。

さてと、今回は「共感」の問題ですね。ぼくは人が自分の思いに共感を求めるというのは、当然のことだと思っています。これは病気のあるなしにかかわらず、人の共感を求めるのは誰でもごく自然の思いでしょう。だけど「死にたい」という思いに共感できる人がどれほどいるでしょうか。「言われた周りの迷惑を考えよ」というのは、ごく自然の反応だとも思います。

しかし「死にたい」と言いやすい時代になってきたという話も、どこか恐ろしいなと思いました。それだけ生きづらい世の中になったということでしょうか。「死にたい」と同時に「生きたい」という思いもあるはずですよね。その「生きたい」という思いを「死にたい」という思いの影から引き出して、「生きたいと」いう思いを否定してしまうほどの生きづらさに共感をするべきではないでしょうか。つまり「死にたい」と思うことへの解決策を一緒に考えることもひとつですが、生きづらさにこそ共感し、それをどう解決するのかを一緒に悩まないと意味がないと思います。

マイクさんも言ってますよね。「人迷惑顧みずとは、本当は死にたくないからしてしまうのです」と。これは死にたい死にたいと誰彼なしに言いまくるのは、ほんとうは死にたくないからだと理解していいのですよね。そうやって誰彼なしに言葉をぶつけて、共感という救いを求めていたと。そこに執念を燃やしていたと。

ぼくは思います。
マイクさんが求めているのは、「死にたい!」ということへの共感ではなく、「死にたい!」と言わざるを得ない苦しみ、状況にこそ共感を求めたいのだと。
だったら「死にたいと言わせて!」の前に「なんでこんなに苦しいのだ!」「この苦しみを取り除くにはどうしたらいいのか」と言ってください。マイクさんの苦しみの根っこがどこにあるか、これを読み続けている人にはおおよそ見当がつくと思います。自分の予後への不透明感、それをきちんと説明してもらえない不信感、さらには目下の治療に対する効果の有無や継続することへの疑問……。挙げればきりがないかもしれませんね。でも、死にたいと思うことへの解決策というのは難しいかもしれませんが、苦しみや不安をもたらすこれらの問題を解決することは可能かもしれませんね。そこは大いに共感したいと思います。

特に「ほんとうは死にたくない」というマイクさんの思いに
心底共感いたします。