第二の人生

マイクさんの生前葬「エンジョイ・デス」で写真を撮るまひるさん

マイクさん

8月はあなたの1周忌を営みましたが、父の7回忌もありました。法要を終えて97歳の母がポツリと言いました。
「あと何年お父ちゃんの法要をしてあげられるやろう。次は13回忌かいな。あと6年やね。うちには無理やね」と。
母はよく言います。そんなことにこだわらなくていいと。節目の法要は、日々忙しい人が故人を偲び思い出に浸るためにあるのだからと。
「うちは毎日お父ちゃんのこと思ってるし、毎日が法要やね」丸6年で普通は7回忌ですが、母の場合は父が亡くなって2189日経つわけですから、2189回忌ということになります。そんなことを言って親子で笑いあっています。
「こんな話をしてる間は、お父ちゃんまだここに生きたはるわ」母はそう言って自分の胸のあたりを指差します。父は母にこんなにまで思われてもちろん幸せだし、母もここまで思いに浸れて幸せなんだろうなと思います。ふたりで生きていた頃が、少しも過去になっていない。そんなふうに思います。

マイクさんだってそうですよ。
1回忌をはさんで、マイクさんのことでご家族とやりとりをすることがあったことは前回報告した通りです。あれからひと月経って、お孫さんのまひるさんからメールをもらいました。彼女には2年間新聞の連載コラム〈「生きる」宣言〉の写真を撮ってもらいました。そのことでのお礼ということでメールをもらったのですが、そこにマイクさんの写真を撮り続けていた毎日の思いや葛藤を吐露した手記が添えられていました。
マイクさんの写真は、僕ではなく家族にしか撮れないと考え彼女にお願いしたのですが、手記の中で彼女も「祖父を撮れるのは、家族である自分しかいないのだと思い、シャッターを切り続けた」と記しています。その背景に、死にゆくマイクさんをファインダーを通して見続けることの辛さ、苦しさにさいなまれている彼女自身の姿が浮かびます。僕はとても残酷なことを依頼したのだなと、読み進みながら胸が痛くなりました。
でもまひるさんはこう気づきます。
「ファインダー越しに、この期間、私は祖父と2人だけの対話をしていたのだ」と。そうして病状が進むにつれ表情までなくしていくマイクさんを目の前にして、必死に内面に迫ろうとカメラを向け、苦しみながらもがきながら泣きながら、彼女は毎月写真を送り続けてくれました。マイクさんの命の灯が消え入りそうな、その瞬間にも
「ありがとうと大好きが少しでも伝わるように、私は最後まで写真を撮り続けるのだろう。あと少しでも多くの時間を(祖父と一緒に)過ごせることを祈って」と。
そしてその想いの一部始終をいま伝えてくれたのです。

1年という時間が伝えることを可能にしたのかもしれませんね。まひるさんの中で、時間が経つことによってマイクさんの存在がよりはっきりした輪郭を伴って浮かび上がってきたのだろうなと思います。それは単なる思い出ではなく、一緒に時を過ごした、死に直面する場面を共有した、堅い絆で繋がれた家族としての思いなのでしょう。マイクさんは亡くなってしまったけど、ご家族の中では生き続けているし、新たに生きはじめたと言ってもいいかもしれません。

「あんたはお父ちゃんと上手いこといってへんかったさかい、お父ちゃんのことなんかすぐに忘れてしまうのとちゃうかて思てたけど、そんなことなかったんやなあ。よかったわ」
7回忌の法要の後、母にこう言われました。確かに折り合いが悪く喧嘩ばかりしていた父子でした。でも父の死を経て、それまで父のことを何も知らなかった自分に気づきました。今は少しでも知ろうと父の残した仕事、写真、手帳などを機会あるごとに見るようになりました。僕の中でも父が生きはじめたのかもしれません。そんな話を母にしたら、
「お父ちゃん、第二の人生やな」
と声をあげてうれしそうに笑いました。

僕らに残してくれたもの

2019年6月29日 生前葬「えんじょいデス」フィナーレ

マイクさん

あなたが旅立った8月がめぐってきました。ちょうど1年になりましたね。
マイクさんと過ごした1年半はなんだったのか。僕はこの1年、ずっとそんなことを考えてきました。ギリギリまで諦めることなく、この往復書簡を通じて、あるいは僕を媒体にして、社会と関わり続けてほしい。生き抜いてほしいと思いながらの1年半だったなあと思います。あなたはそんな僕の思いを受け取って、最後まで思いを発信し続けてくれました。それは僕に、往復書簡をやった意味・意義はそこにあると思わせてくれました。僕にとってはもちろん、あなたにとっても貴重な時間になったはずだとも。その時間はあなたの生きる力を引き出すという意味でも貴重だったと。

だけど、ほんとうにそうなのだろうか……。最近そんなふうに思うようになりました。確かにあなたの生きる力を引き出していたかもしれないけれど、それ以上に僕の力を引き出してくれたのではないかと。マイクさんにとってより、僕にとって貴重な時間だったのかもしれないなと思うようになりました。
僕は、マイクさんと一緒に「生きる」「死ぬ」について深く考え、やり取りすることで、それまで以上に自分自身に生きる意味、死ぬ意味を問いかけ続けてきたように思います。あなたに「最後まで思い切り生きましょうよ」とかけた言葉は、実は自分自身にかけ続けてきた言葉なのだと。極端に言うと、マイクさんは僕自身だったのではないかと思ってさえいます。

ジグソーパズルと言えばわかりやすいかな。マイクさんの思いと僕の思いを集めてはめ込んで、人が生きて死ぬという、人生とはどういうことかを1枚の絵にしよう。ジグソーパズルを完成させよう。1年半の往復書簡はそんなことだったのかなあと。あなたの思いだけでも、僕の思いだけでも完結しない、より深く鮮やかな1枚の絵を描きあげようとしたのかもしれません。多くの人に公開することで、多くの人の思いを合わせることも含めてです。
残念ながらマイクさんを喪ったことで、僕の絵の具は少々数が少なくなりました。だけど僕は、これからもジグソーパズルのピースを探し続けたいと思っています。あなたの思いも受け継ぎ、ジグソーパズルの完成を目指したいと思っています。

マイクさんの1年忌が執り行われた時の話を聞きました。ご家族にはようやく日常が戻りつつあるようです。いろんな思い出話で盛り上がったと雅子さんは振り返っていました。
「そう言えば、大根おろしスリスリおろすのはお父さんの役だったね」
「ウナギの半助(頭)ばかり食べてたね」
「仏さんの花を買いに行くのもお父さんの仕事やったね」
「生協で買い物するのも」
そんな話の果てに、
「まだまだ身近なんだね」
という話になったんだと。

身近にいた人がいなくなった日常に慣れてきたけど、大切なピースがひとつ欠けてしまった。
僕はそんな思いがしてなりません。きっとみんな無意識のうちにそれを探すんだけど、それはもう思い出の中でしか見つからない。
ちょっとさみしいなと思いましたが、そのさみしさがあるかぎり、マイクさんは僕らの中に生き続けているのだとも思います。それこそが、マイクさんが僕らに残してくれたピースなんでしょうね。きっとみんなそれを探し続けるんでしょうね。

マイクさん
ジグソーパズル完成を目指してピースを探す旅は、きっと僕自身を見つけるための旅になるはずです。どうぞ見守っていてください。あらためてよろしくお願いします!

自分の非力を忘れない

決断のOKマーク 2020年7月23日

マイクさん

7月に入りました。去年のことを思い出します。
去年の今時分、あなたは非常に厳しい状況にありました。肉体的にはもちろんですが、精神的により苦しかったのではないかと思います。
6月末から7月はじめにかけて、あなたとあなたのご家族は、改めて重大な決断をしました。自発呼吸ができなくなっても、呼吸器を着けないという決断です。大変厳しい決断だったと思います。ですが、主治医から最終確認をされた時、胸元でOKマークをつくって見せたあなたの表情の清々しさを、僕は決して忘れません。

ALSとの診断がついた頃からマイクさんを見続けてきましたが、僕がいちばん驚いたのはあなたがいつもとても冷静だったことです。ややもすれば他人事のように自己分析をして見せたり、ALSについて持論を語ったり、この人はほんとうに命の時間を限られた人なんだろうか。もし僕自身が同じ境遇に置かれたらどうなるだろうかなどと、ずいぶんいろんなことを考えさせてもらいました。そんなことをあなたに話すと「研究者、科学者ですから」と軽く笑われたことを覚えています。

その果てのあの決断です。
あなたの支援者を自認する人たちの中からは、当然のことですが、呼吸器を着けてでも
生き続けてほしいという声が上がりました。僕も、1日でも長く生きてほしいとは思いましたが、それはすべてマイクさんとご家族が十分話し合った上で決めることだとも思っていました。
主治医を中心にして病院も何度となく意志の確認をしました。おそらくギリギリまで心の揺れも含めて考える時間、心の変化に対応する余地を残したのだろうと思います。すべてがマイクさんの決断を最優先するという配慮のあらわれでした。それでもあなたの決心、決断が揺らぐことはありませんでした。

マイクさんの決断に対してある人は「生きることの放棄だ」と言いました。「呼吸器を着ければまだまだ生きられるのに」と。それはあなたが自死を選んだとも思わせるような主張でした。しかし、僕は思います。マイクさん、あなたが選んだのは「尊厳ある生と死」だと。
折しも、京都でALS患者嘱託殺人事件が明るみに出た時期でした。メディアでの論調の多くが、ALSのような難病患者が生きたくても生きられない社会のあり方を指摘するものでした。「こんなことなら死んだほうがましだと思わせる社会が問題だ」と。確かにそうかもしれません。生きたいと思う人が、徹底的に生きられる社会・制度は必ず実現されなければならないと思います。

しかし、この問題とマイクさんの選択は明らかに違う問題なのです。あなたは決して生きることを放棄したのでもないし、諦めたのでもありません。あなたの選択は、その肉体に自然な死が訪れるまで徹底的に生きるというものでした。死は誰にでも100%訪れます。それが早いか、遅いか。人生十分か不十分か。それは自分でようく考えなければならない問題だと思います。あなたの、そうして僕の人生に対する評価は、自分自身のものなのです。決して社会の問題ではないのです。ましてや支援を申し出た人に応えるという問題でもありません。自分自身のものなのです。マイクさんの決断はそこを十分考えた上での決断でした。

もし僕に言えることがあるとすれば、あなたの決断をただ黙って見守ることしかできなかった自分の非力を決して忘れはしないということです。僕があなたが亡くなってからもずっと、この「往復書簡」書き続けているのは、そばにいることくらいしかできなかった自分の非力さを穴埋めするためなのかもしれません。
夏の盛りがやってきます。あなたの病室で黙って向き合ったあの暑い日々を思い出します。

ほんとうの敵

まだ外出が可能だった頃。その視線は何をとらえていたのだろう。

マイクさん

いま〈この世〉はエライことになっています。

なにか?って、新型コロナウイルスですよ。なんだかわけのわからない状況になっています(わかってないのは僕だけかもしれませんが)。

去年の今頃は、かかっても風邪程度だとか、若い人は重症化しないとか、死ぬ人は稀だとか言われていましたが、騒ぎ出して1年以上経ったいま、変異株などというものも現れてずいぶん様変わりしてしまいました。数日前の数字ですが、国内の累計感染者数は763,971人、死者数13,659人と、とんでもないことになってきています。しかも若い人も感染するし、重症化し死に至る例も少なくありません。季節性のインフルエンザの死者は3,000~5,000人(2018年シーズンで3,325人)ですから、いかに深刻かと。で、ワクチンなるものが救世主のように現れて、それでまた混乱に拍車がかかるのです。

得体の知れないものに対する、あるいはそこに見え隠れする〈死〉というものに対する恐怖に揺れ動く人々の風景を目の当たりにして、あなたの強さをあらためて感じています。ワクチンを打てば安心と煽る政治と我先にワクチンを打ちたいと焦る無辜(むこ)の人々。僕もその1人に違いありません。6月9日と23日にワクチンを打ちます。

そんなに死ぬことが恐怖なのかと自問すると、僕自身はそうでもないなと思います。かの養老孟司さんもおっしゃいました。永眠というけれど、まさに眠っている状態だと。生きている我々も眠っている間は何もわからない。そんな状態が続いて目が覚めないだけだと。

僕もそんな経験をしました。全身麻酔です。5時間も6時間も眠っていましたが、苦痛も何も感じませんでした。夢もみませんでした。まったく〈無〉の時間を過ごしたのです。〈死〉とはそんな状態なのだと思うと、それ自体はそんなに恐いもんじゃないなと。

じゃあ〈死〉の恐怖って何かと考えると、多分〈この世〉との関わりが絶たれるということなんでしょうねえ。好きだった人、家族とも会えなくなるし、酒も飲めないし、美味いものも食べられなくなる。この世の享楽を一切味わえなくなる。そんなことじゃないでしょうか。昔、西行法師がこんなことを言ったと吉田兼好が書き残しています。

某とかやいひし世捨人の「この世に絆(ほだ)し持たらぬ身に、ただ空の名残のみぞ惜しき」と言ひしこそ、まことに、さも覚えぬべけれ。(「徒然草」第20段)

世捨人って西行のことです。「絆し」ってしがらみとか執着になるでしょうか。そんなものないから美しい空の名残だけが惜しいだなんて。執着の塊のような僕には到底口にできない言葉です。その執着の基本にあるのは何かと考えると、人と関わり、人の中で何かを楽しむ、そこから何かを生み出す、そうして何かを味わい幸せや満足を感じるってことなのでしょうねえ。それをコロナが邪魔しようとしているのなら、邪魔を排除するためにもワクチンを打ちますよ、僕は。「〈生きるため〉より〈享楽〉のためにか俺は」と自嘲してハッと思いました。

マイクさん

あなたは最後の4カ月を、ほぼ病棟での隔離状態で過ごしました。それまで楽しみにしていた週末の自宅外泊もできず、家族の面会すら病院に拒絶されました。誰にも会えずに、残された短い時間を数えていたのですね。「最後まで人との関わり、社会とのつながりをあきらめないで」と僕はあなたに言い続けました。だけどいま振り返るとその言葉がいかに虚しいものだったか、あなたがいちばんよく知っていたんだろうなと。そう思うと胸がとても苦しくなります。会いたい人に会えない中で、伝えたいことを伝えられない中で、刻一刻と身体が衰え死が迫ってくる。それでもあなたは、真正面から〈死〉を受け止めようとしていたし、自ら獲得しようとさえしていたように思えてなりません。呼吸器を着けない選択もそうでしたが、ほんとうに強い人でした。だからこそ、あなたの辛さ、無念さを思うと、たまらない気持ちになります。人と会いたかっただろうな。話したかったでしょうね。

ほんとうの敵は、ALSでもなく新型コロナウイルスでもなく孤独だったのでしょうね。「あなたを決して孤独にはしない」とこの往復書簡で言い続けてきた僕の責任はとても大きいと、いまふり返って強く思います。

マイクさん

「ALSの進行に関わる遺伝子を特定 東北大チーム」というニュースが流れました。ALS治療の標的になり得る遺伝子が特定でき、研究を重ねて行けば治療につながる発見だと。医療の現実としては、あなたの命を救うことはできませんでした。しかしその間も、いまこの時も、研究者や医療者はずっと努力し続けているのです。あなたの症例も将来のALS治療に必ず生かされるはずだと、僕は思います。そういう意味でもマイクさんは、記憶の中だけではなく命を守る医療の現場でも生き続けるのです。

もちろん僕はこうやっていろんなことを考えさせてもらっています。そしてあなたの冷静さと強さを受け継いで生きていきたいと思っています。僕の中でもマイクさんは生き続けていくのです。

受け継ぐ者の明日

病棟を訪ねたY君とD君を前に熱心に話すマイクさん

マイクさん

あなたが旅立って9カ月になります。やはり時間の経つのは速いですね。去年から今年にかけては、新型コロナウイルスの感染拡大で、動くに動けずほぼ閉じこもった生活をしているので、代わり映えのしない日々を過ごしているにもかかわらず、時間は立ち止まってくれません。過去という時間がどんどん堆積していき、未来という時間がどんどん薄っぺらになっていきます。そんなことを思うと、ふとさみしくなってしまいます。

5月8日は父の誕生日でした。生きていれば94歳になるはずでした。でも、父の時間は6年前から止まったままです。おそらくそれは、僕が過去ばかり振り返っているので止まったままに思えるのでしょうね。振り返るんじゃなくて、父の時間を受け継ぎ前に進めないととも思います。父だけではありません、マイクさんの時間も僕が受け継いで前に進めたいと思っています。

受け継いだ時間の結晶のひとつがこの「往復書簡」だし、南日本新聞で続けてきた「『生きる』宣言」という月1回のコラムです。一昨年の6月にはじまり、今月が最終回です。この2年間、マイクさんと交わしてきたこの「往復書簡」を縁(よすが)に、生きること、死ぬことを自分のテーマとして書き続けてきました。次は「往復書簡」と「『生きる』宣言」を1冊の本にまとめるために動き出したいと思っています。この中にはマイクさんのことはもちろん、父のことも母のこともたくさん含まれるはずです。僕はそんな方法で時間と人生を引き継いでいきたいと思っています。

マイクさん

引き継ぐ人間は僕だけではありません。僕と一緒に病棟を訪ねたY君を覚えていますか。彼もマイクさんから多くのものを受け継いだと思います。

Y君はマイクさんとの面会を終えた後、「マイクさんの言葉の7割がわからなかった」「ちゃんとコミュニケーションできなかった」「あらゆる面で僕はまだまだ経験が浅い」と酷く自分を責めていました。「マイクさんからもっと生きるという本質について聞きたかったのに……」と本当に悔しそうでした。

その彼が鹿児島のある都市の市長選挙に立候補しました。9日が告示日です。

僕は彼がマイクさんと出会って、難病とともに生きる人の事実を垣間見て、生きるとは、死ぬとはどういうことかと考えて、きっとどんなに重い障害や難病があっても最後まで自分の意思で生き抜くことの大切さを感じてくれたと思っています。しかも肌で感じてくれたと思います。

そのY君に僕は、彼にしか発想できない、実行できない福祉の形を期待しています。それこそがマイクさんの時間と人生を受け継ぐことだと。そうしてあの時感じた悔しさをバネに、この国の新しい福祉の姿を鹿児島から全国に発信してくれると信じています。

マイクさん

僕や、彼や、あなたの時間と人生を受け継ぐ者の明日を、どうぞ見守っていてください。
改めてよろしくお願いします! 往復書簡はまだまだ続けていきます。

自分の人生を自分の目で

驚くほど大勢の参加者で開かれた「生前葬エンジョイ・デス」 マイクさんのつながりのひろさを実感した 2019年6月29日

マイクさん
あなたが旅立った9日に毎月手紙を書きますと言っておきながら、昨日はとうとうできなかったことまず謝っておきます。すみませんでした。でも、これでもけっこう忙しかったりするんですよ。その上、昨日まであなたが暮らしていた京都で仕事をしておりましたので、もうバタバタで。マイクさんと知り合ったことで、京都での人脈もひろがり、仕事もひろがりそうです。

しかし、どこに行っても「マイクさん知ってますよ」という人が多くて、びっくりしています。マイクさんの社会活動の幅の広さ、多様さに驚かされるばかりです。しかもそれを本格化させたのが定年退職後からだということにも驚いています。猛烈な行動力だったんだな。その頃にもし僕がマイクさんと出会っていたら、僕の人生もずいぶん変わっていたのではないかと思います。僕なんかのんびりしたものだなと、ちょっと自戒を込めてマイクさんのことを思っています。

マイクさん
空から見ていてご存知かもしれませんが、このところこの国はパッとしない状況が続いています。新型コロナウイルスの感染拡大を食い止めることができず、政治も打つ手に説得力を欠き、諦めのみが先立っているような感じです。なのにどこか緊張感も緩んでくるというような……。マイクさんがこの現状を見たら、きっと噴飯ものだろうななどと思ってしまいます。きっとこんなふうに言うんだろうな、
〈新型コロナウイルスに社会全体が感染したんだよ。個人の行動自粛の問題じゃなくて、社会全体がデータと科学的知見に基づいて冷静に考え動かないと。今は誰もがジタバタ右往左往しているという感じだな〉
と。研究者として冷静な目と思考を持つマイクさんなら当然のことです。

マイクさん
そう、あれは研究者として冷静な目と緻密な思考だったのですね。マイクさんが〈自分はどんなふうにして死ぬのか〉を心底知りたがっていたことです。〈次第にALSが進行し、からだが衰え、最後はどうして死に至るのか〉を。正直言って、そんなこと知らなくてもいいのにと僕は思っていましたが、研究者としてのマイクさんにとっては大切なことだったんですね。〈だってそれを知ることなしに自分の人生を全うしたとは言えないじゃないか〉きっとそんなふうに言って笑うんでしょうね。

僕は研究者じゃないけど、冷静な目と、緻密な思考を身に付けたいと思っています。マイクさんのように人生を全うするために。自分の目で自分の人生を見届けるために。

徹底的に生きてみる

はじめて会った日、パソコンを覗きながら熱心に話すマイクさん

マイクさん

僕がマイクさんとはじめて会ったのは、2019年3月22日でした。そうして3月26日に、この「往復書簡」が公開されました。そして僕は生意気にもこんなことを書いて送りました。

〈もう少し生きてみませんか〉

それはマイクさんに向けたひと言でしたが、実は僕自身に向けたひと言でもありました。

その頃の僕はガンの手術を受け、放射線治療を終えて、身も心も、なんとなくですがボロボロに近い状態でした。転移と再発の恐怖、抗がん剤の副作用、後遺症。そんなことが何重にも身を取り巻き、ヘトヘトになっていたのです。ただひとつ、命の時間を限られなかったということだけが、救いであり希望でもありました。

そうしてふたたび、気力を振り絞るようにしてペンを取り、写真を撮り、多くの人の前で発表した直後にマイクさんのことを知ったのです。

雅子さんから、ALSを告知されて自殺願望に取り憑かれたマイクさんの話を聞き、正直に言うと、雅子さんのSOSに答えるというよりも、個人的な興味からマイクさんに会ってみたいと思ったのです。

会って、ご自宅の2階のリビングでいろんな話をしました。マイクさんはまだまだ身体も動き、言葉もちゃんと出ていましたし、お酒も飲んでいました。普通のおじいさんでした。だけど、何度となく「自死」「安楽自死」「尊厳自死」と言う言葉が繰り返し出てきたことに、なんともやりきれない思いになったことを覚えています。

でも聞いているうちに思いました。マイクさんは僕の「負」の側面だと。後ろ向きの僕だと。僕はマイクさんよりだいぶ若かったからでしょうか。まだまだ人生に満足できていません。だから、まだまだ死ぬわけにはいかないと思っていました。だけど、これから訪れる死の恐怖から解放されるには、死んじゃうのが一番手っ取り早いなと思わなくもない自分がいました。

さっきヘトヘトになっていたと書いたのは、そんな思いを打ち消すことにヘトヘトになっていたということかもしれません。だからマイクさんに言ったのです。

〈もう少し生きてみませんか〉

と。

マイクさんは、僕の言葉に答えてくれるように、まわりのみんなが驚くように、その後1年半を貪欲に生きましたね。僕はその一部始終を見せてもらいました。そうして心に刻みました。マイクさんに恥じないように貪欲に生きようと。

マイクさん。僕も、もう少し、いや徹底的に生きてみることにします。

〈徹底的に生きなさい〉

マイクさんは今もそう言って背中を押してくれているような気がします。

マイクさんの思い出を生きています

マイクさん

あなたが旅立ってから、今日でちょうど半年です。時間が経つのはとても速いですね。ふとした拍子にマイクさんのことを思い出し、ああ、本当にもう会えないんだなと寂しくなります。

マイクさんが去った後も、僕は南日本新聞の「『生きる』宣言」を書き続けていますし、この「往復書簡」も時々ですが、こうやって書いています。ALSをめぐっては、京都のALS患者尊属殺人事件が明るみに出てから様々な言動が飛び交っています。僕は、「往復書簡」の1年半を振り返り、反芻しながら、こんなときマイクさんだったらどう言うだろうかなどと考えて書いています。

そうしていま、たどり着いた命題が、

〈それでも生きたほうがいい、となぜ言えるのか〉

ということです。マイクさんの人工呼吸器装着をめぐっては、マイクさんやご家族の意向を無視してまで呼吸器による延命を求める人たちが現れました。僕は、彼らの「絶対に生きたほうがいい」という主張には、同意することはできませんでした。僕個人の思いを言うと、〈1日でも長く生きていてくれたほうがいい〉ということに尽きますが、突き詰めるとそれは紛れもなく〈僕のために〉ということで、じゃあ、マイクさんのためにはというと、言葉を飲み込まざるを得ません。

呼吸器による延命を求める人たちは、何か勘違い、錯覚をしているように思います。呼吸器の装着をしないという決断が、何か自殺をすることと一緒だというような。生きることに後ろ向きになっていると。

マイクさんの最後の日々を見た僕にははっきり言えます。マイクさんは徹底的に生きることに前向きだったと。決してあきらめてはいなかったと。自然に生きて、徹底的に生きて、自然に死ぬ。家族も、僕も、その姿を尊敬の念と、誇りを持って見送りました。
〈それでも生きたほうがいい、となぜ言えるのか〉僕にはわかりません。本人の苦痛を無視してまで、なぜ言えるのか、わかりたくもありません。
僕はいま思っています。〈マイクさんに恥じないように、徹底的に生きよう〉と。

マイクさん ありがとう!

節分の日、雅子さんが話してくれました。
「うちの節分は、父が毎年鬼の役でした。今年は鬼がいないから……」
言葉の隙間に隠しきれない寂しさが滲んでいました。
みんな懐かしいマイクさんの思い出を生きています。
鹿児島では咲きはじめた梅の花にメジロが戯れています。
風も少しずつ暖かくなってきました。

春はもうすぐそこまできています。

忘れられない贈り物

マイクさん

マイクさんが旅立って3カ月が経とうとしています。

僕たちは、いや、僕は今、マイクさんに何を望んでいたのだろう、マイクさんに何を求めていたのだろうと、このことを考えています。

マイクさんと僕の関係は、去年の2月、あなたがALSだと診断されてからでした。すぐにでも自ら命を絶ちたいというあなたに、「もう少し生きてみませんか」と声をかけたのがはじまりでした。その時マイクさんからの返事は、

「生きる目標がない」

というものでした。だから1日も早く死にたいと。そういうあなたに対して僕は「ギリギリまで社会と関わることを諦めないでほしい」と伝え、そうしてこの往復書簡がはじまったのです。結論を探さなくていい、ただ話すことだけを目的にして往復書簡という形の中で話し合いましょうと。

それから今年の6月24日まで、何度となくやりとりしました。本当に何の結論も求めない、ただただ言いたいことを言い合う。その繰り返しでした。でも、その一つひとつが、僕にとってはとても大切なものになりました。マイクさんから届く一言一句が僕に多くの気づきを与えてくれ、僕に生きる力を与えてくれました。ここでのやりとりが、僕にとっては生きる目標の一つになっていたことは間違いありません。ギリギリまで生きようとするマイクさんの姿が、僕の生きる目標だったのです。

そう思うと、僕がマイクさんに望んでいたことは「生き続けて、僕の生きる目標であり続けてほしい」ということだったのです。そのために僕には何ができるか、何をしなければならないかを、ずっと考えていました。

そんな僕にマイクさんは、早い時期から呼吸器は着けないと言い続けていました。でも僕は、ギリギリのところであなたは呼吸器をつけるのではないかと思っていました。いや、言い方が正しくありません。呼吸器を着けてくれるのではないかと思っていました。

しかしあなたの意思は固かった。

「生き地獄を見たくない。今でも十分生き地獄です」

そう言い続けましたね。最後までその意思は揺らぎませんでした。7月に入ってから、あなたに呼吸器をつけてほしいという人たちの説得は続きました。マイクさん本人も、家族も、話し合いを重ね、結論を出したその経過を無視するように、呼吸器を着けるよう説得したのです。最後にはマイクさんと家族の中を引き裂いてまで、呼吸器を着けさせようという人たちまで現れました。そういう人たちは、マイクさんに一体何を望んだのでしょう。何を求めたのでしょう。僕にはわかりません。

「支えてくれる人が、あなたの命はあなただけのものではないよと言ってくれました。あなたの命はみんなの命ですよって。そのこと自体はとてもうれしいけど、僕はもうずいぶん苦しみましたし、今も苦しいのです。苦痛だらけなんです。呼吸器を着けたからといって、苦痛が消えるわけではない。この苦痛は僕だけのものなんです。それでも一生懸命生きてるんです。自然に死が訪れるその時までで十分だと思いませんか。僕はもう十分生きました」

「(呼吸器を着けて)スーパーALSになろうとは思わない。準スーパーでもちゃんと最後まで生きます」

そうして最後の2週間を病室で、マイクさんの側で過ごしてはっきりわかりました。最後の時が迫ろうとして、マイクさんには何の悔いも残っていないんだと。その姿を僕は目に焼き付けたいと思いました。そのことでマイクさんは僕の中でずっと生き続けるのではないだろうかと思ったのです。そうすることで生きる目標であり続けると。

マイクさんの病室で過ごした2週間は、僕にとっては忘れられない贈り物になりました。
それを糧にあなたとの対話をまだまだ続けたいと思います。

あれは夢だったのか

マイクさん

整理がつきません。マイクさんが旅立って1カ月以上経ったのに、マイクさんと過ごした1年半が僕にとってどんな時間だったのか、うまく受け止められないでいます。

あれは夢だったのでしょうか……。
200人、300人もの人が集い、マイクさんを囲み、生きていること、生きていることに、喜びを全身に感じた日がありました。マイクさんと向き合い「李白の対酌だ」と、酒を酌み交わしました。一杯一杯また一杯。とても楽しい時間でした。

一回一回の往復書簡で、一言一言の書き込みに、様々に心動かされ、結局は自分の命に向き合う力をもらい、自分の背中を押してきました。マイクさんに背中を押されてきたようなものです。

僕にとってマイクさんは、大切な相棒みたいな存在でした。大先輩をつかまえて
こんな言い方は失礼かもしれませんが、確かにそうだったのです。だからあなたに先立たれた今、僕はこれまでの時間をどう受け止めていいのかわからないのです。

そう思うと、何かに一緒に立ち向かう誰かって、必要ですよね。人はひとりでは生きていけない。あらためて今、そんなことを強く感じています。