あかんやつです。

仕事場の片隅で微笑む母。鹿児島に来て幸せだったのだろうか

マイクさん

新しい年を迎えました。時間は止まることなく流れていきます。大きな時間の流れの中に身を置いていると、自分のちっぽけな命なんてあっという間に生まれて消えていくんだなと、まるで泡沫だと思えて仕方ありません。100歳を目前にした母はどんなふうに思っていたのだろう。最近よく思うことです。

すると年末に母の日記が見つかりました。父が亡くなってから詠んだ歌と、その周辺の出来事を描いたものです。読んでみるとそこここに母の思いが書きつけられていました。その中に正月の気持ちを詠んだ歌がありました。

めでたさにみなが微笑む祝い酒白寿を前にこころはずまず

ふと気づくと、このごろは死ぬことばかりを考えている。100歳を生きてきて、もうそろそろかな、もう十分かなと思っても、私は生かされているのだ。私はあとどれくらい生きるのだろう。どこまで生きなければならないのだろう。はやくお父ちゃんのところにいきたい。そんなことを思ってはばちが当たるかも知れないが、今の願いはそれだけです。めでたいお正月も私にとってはこころはずむ日ではないのだ。

これを読んで何とも言えない気分になりました。
若い頃はめでたいばかりの正月だったはずなのに、夫を亡くし、ひとり98歳まで生きて、人知れずさみしさに耐え忍んでいたのかと思うと、僕はいったい何をしていたのだろうと思います。

母をひとりぼっちにしてはいけないと思い鹿児島に呼び寄せたのですが、母にとっては見知らぬ土地で頼りない息子と暮らすより、最愛の夫との思い出が空気となって漂う京都のあの路地奥の小さな家で、気心の知れたご近所さんやヘルパーさん、旧い友人知人に囲まれて暮らす方が良かったのかも知れません。

僕は母のことを何もわかっていなかったようです。母だけではありません、父も、子どもたちも、人のことなど何もわかっていないのです。なのにわかったような顔をして……。

あかんやつです。
2023年は後悔と反省ではじまりました。

へっちゃらやん!

歌を詠む。推敲を重ねる母(撮影:松原誠氏)

マイクさん

自分の子どもは元気に暮らしているのに、父と母が亡くなったことでなんだかひとりぼっちになったような気がして、急に秋がさみしくなっています。こんな時はさみしいことばかりを思い出すのですね。

ここのところ考え続けているのは、自分の死を、人生の終幕をどう受け容れるかということです。まだ若いのに何を言っているんだと叱られそうですが、マイクさんが亡くなった歳までぼくもあと10年ほどです。今までに生きてきた68年という時間とこれから先の10年を思うと、ああもう残された時間はわずかだなと思ってしまうのです。それが15年でも、20年でもそんなに大差はないだろうなと。

マイクさんもそうでしたが、父も、母も、最期の瞬間を迎えるにあたっては、すごく冷静でまわりの者が目を見張るような処し方だったと思います。それは諦めだよと言う人もいますが、ぼくは決してそうだとは思いません。妙な言い方をしますが、自らの死に対して決して後ろ向きではなく、前向き、積極的ですらあったと思っています。なぜあんなふうに最期を迎えることができるのだろうと、ずっと考えているのです。

答え、ではありませんが、少しだけわかってきたことがあります。それは死に方というのは行き方の延長なんだということです。マイクさんも、父も、母も、思うところを徹底的に生き切った人ではないかと思うのです。マイクさんは研究者、学究者として、父は職人として、母は歌人として、それぞれに自分にとって納得のできる成果を上げその生き方を全うしたのではないかと。他者の評価は関係ありません。人としての評価も関係ありません。自分自身の評価としてです。そうしてもしそんなことができたら、この上なく人は強くなるだろうなとも思います。

自分がやりたいこと、やるべきことを見つけ、それを徹底的にやり通す。マイクさんと両親の死に際の清澄さと力強さはそんなことに裏付けられているのだろうなとつくづく感じます。そんな境地に到達できたら何も怖いことなんてないのだろうなと。

お袋の声が聞こえてきそうです。

「あんたも頑張りよし。人の目なんか気にせんと、徹底的にやりよし。そうしたら何がきてもへっちゃらやん!」

ですよね。生きてきた果ての迷いや執着や右往左往というのは、徹底的にやれてないことの裏返しですよね。ぼくも「へっちゃらやん!」のひと言と笑顔で人生を締めくくれるように、あと何年になるかわかりませんが徹底的にやりたいと思います。

母の本心

マイクさん

もうそちらでぼくの母と会われましたか。新参者ですがどうぞよろしくお願いいたします。そちらの世界がどんなふうになっているのかよくわかりませんが、亡くなった歳のままなら98歳ですのでかなりの婆さんです。でも頭は聡明ですので、死についてや、生きることについてなかなか深い話ができるのではないかと思います。親父がずいぶん早くにそちらに行っていますので、3人で面白い話ができるかもしれませんね。でも、空の上からぼくの日常を眺めるというのはやめてくださいね。人に見せられるようなものではありませんから。
ところで、京都で「アンディ・ウォーホル・キョート」に行ってきました。で、作品を感心しながら見て回ったのですが、中でも心惹かれたのは壁のずいぶん高くに掲げられた彼の言葉でした。多分「ウォーホル日記」か何かで前に読んだことのある一文でしたが、作品と共に展示されていてあらためてハッとしました。こんな文章です。
「ぼくは死ぬということを信じていない、起こった時にはいないからわからないからだ。死ぬ準備なんかしていないから何も言えない」
「信じてない」「わからない」「準備なんてしていない」と続くと「死ぬことなんて怖くないよ」と言っているようですが、逆なんでしょうね。あえて言えば「信じたくない」し「わかりたくないし」し「準備なんてしたくない」んでしょうね。彼の日記の末尾に編者のパット・ハケットが日記には書かれなかった彼の最後の様子を記しています。それによると死への恐怖、苦痛はかなりあったんじゃないかと思います。
そこにいくとは母とてもあっけらかんとしていて、面白いなと思わせてくれました。
「やがてあの世へと向かうめでたい秋の一日」
鯛のあら炊きに箸をつけようとして、母がつぶやいたひと言です。
「死ぬことを楽しんでみたい」などと冗談めかして言っていました。まさにENJOY DEATHですよ。ぼくにはまだまだ真似できないと思いました。どちらかといえばアンディ寄りですね。ぼくは68歳。アンディは享年58歳。母は98歳。30年、40年余計に生きるとそんな境地に辿り着けるのでしょうか。生きられるかどうかわからないけど、その歳を経験したいと思いました。
母の本当の気持ちはどうだったんだろう。そう思わなくはないですが、今となってはたずねることもできません。もうちょっと話しておけばよかったなと思います。

マイクさん
そちらで母の本心を聞いてみてくれませんか。よろしくお願いします。

時間の結晶

「清水哲男展「物語(ストーリー)の系譜」ある作家の鉛筆1本勝負40年」会場風景

マイクさん

GWに続く京都での今年2回目の個展〈清水哲男展「物語(ストーリー)の系譜」ある作家の鉛筆1本勝負40年〉は、10月3日無事全日程を終了しました。GWの20日間に加えて、今回は1カ月以上の長きにわたる会期でした。この50日あまりで、京都でも多くの方に名前を知っていただけたのではないかと思います。

今回の個展は、僕の文筆業キャリア40年をふり返るというもので、集大成とは言い難いですが仕事の足跡を大まかには見てもらえるような内容を目指しました。「こんな人がいたんだぁ」というのがご覧いただいた多くの方の感想だったと思います。中でも「命と向き合う現場から」というテーマで、難病や障害、あるいは高齢と向き合う人々の日常の姿を展示したゾーンには、マイクさんの写真も3点展示しましたし、あなたと僕の往復書簡を切り口にした鹿児島での新聞連載〈「生きる」宣言〉の36回のスクラップファイルも展示しました。

写真の中心は、呼吸器をつけるつけないの決断でマイクさんが胸元でOKサインをつくった時の写真です。その時の状況をその場で説明すると、ほとんどの方がマイクさんの意志の強さに驚いていました。そうしてスクラップファイルをじっくり読んでくれるのです。そうしてまた藤井マイクという人のすごさを知るのです。僕もいまだに写真やファイルを見ると、マイクさん自身の強さと生きること生き続けることの難しさを感じずにはいられないのです。僕が撮った写真であり、僕が書いたコラムなのにです。

それで僕は気づくのです。僕は撮ったり書いたりしているのではなく、取材させていただいた大勢の皆さんに、写真を撮らされ、文章を書かされてきたのだと。その積み重ねが40年続いてきたのだと。だからこの40年は大勢の人と一緒に紡いできた時間であり、生まれてきた仕事の集積は時間の結晶のようなものだと。

今回の個展には僕の試算で、およそ180名の来場者があったと見ています。じっくり写真を見、僕や会場スタッフと長く語り合われる人も少なくありませんでした。そういう人たちにマイクさんや取材を通して知り合った人たちの話をするのはとても誇らしいことでした。

マイクさん

そうなんです。マイクさんに出会えて、マイクさんの最後の日々を一緒に過ごしてことは僕にとって誇りであり、幸せなことだったのです。そう感じた時、40年間ひたすらにドキュメンタリーを書き続けてきたことに間違いはなかったなと思いました。
僕はこの確信を糧に次のステップに進んでいきます。また新たな清水哲男を多くの方い見ていただけるよう日々精進してまいります。

いちばん見てほしかったのは

この写真も展示されています

マイクさん

京都での今年2度目の写真展、はじまりました。9月1日から10月3日までの長丁場です。ひと月フルに張り付いていることはできないので、1日から3日間現場にいていまは鹿児島に戻っています。18日からまたギャラリーに戻る予定です。僕の写真展は本を売る機会でもあるので頑張らねば(笑)

今回の写真展は「物語の系譜 ある作家の鉛筆1本勝負40年」と題して、僕が著述業に就いてからの40年ずっとテーマにしてきたことを全部見てもらおうと思っています。それは

「命と向き合う現場から」
「ニッポン再発見の旅」
「この国の現実と苦悩」

という3つのテーマです。
このテーマにあわせて写真と関連する著作を展示しました。

マイクさんとのこの「往復書簡」は、もちろん最初のテーマに含まれます。あなたの闘病中の写真と南日本新聞に3年間連載した「『生きる』宣言」を1冊のファイルにまとめたものを展示してあります。どなたでも自由に手にとって読んでもらえるようにしました。マイクさんのことをひとりでも多くの人に知ってもらいたいと思っています。

幸い京町家を改装したギャラリーなので、靴を脱いで上がってもらい、座り込んでじっくり見てもらえるようになっています。「往復書簡」もそうですが、「『生きる』宣言」はマイクさんが確かに生きて亡くなったという事実を追いかけたものです。「生きた証」と言ってもいいかと。

機会あるごとにこうやってマイクさんのことを世界に伝えていきたいと思います。僕が生きていく限り、マイクさんは社会に関わり続けていくのです。

でも本当は、今回の展示、いちばん見てほしかったのはマイクさんです。

「何を臆病なことを!」

最後まで明日を自分の目で見ようとしていたマイクさん

マイクさん

あなたが旅立ってからまる2年が経ちました。今日は祥月の命日ですね。先だってご家族が集まって3回忌の法要を終えられたと聞きました。2年も経つと悲しみというものは、グッと薄れてしまうものなんですね。僕は家族でありませんでしたが、マイクさんを失ったことは言葉にできないくらいに痛手でした。それでもあなたを失った悲しみは日に日に薄れていくのです。僕の日常にあれだけ強く存在していたあなたが、最近はたまにしか顔を見せなくなってしまった。ええ、わかっていますよ。これはどこまでいっても僕の問題なのです。

「最後まで社会との関わりを持ち続けましょう」
「決してあきらめないで。僕は決してあきらめさせませんから」

僕が言い続けてきたこんなふうな言葉にどれだけの意味があったんだろう、どれだけの力があったんだろう。そんなことばかり考えてしまいます。
でもね、僕が何を言ったかより、マイクさんが僕に見せてくれたありのままの方が確実に大きな意味、大きな力を持っていたのだとあらためて感じさせてもらってます。3回忌とかって、きっとそんな僕みたいな人間のためにある節目なんでしょうね。

マイクさんに、呼吸器をつけてボランティアのサポートを得て地域で一人暮らしをしましょうと強力に進めた人たちがいました。あの人たちは今どうしているのかなと思います。あれだけサポートすると言いながら、あれだけ一人暮らしをすすめながら、実はマイクさんの苦悩を一つも理解していなかったのだと思えてなりません。マイクさんがなくなったあと、あなたのことをどれほど思っているかなど、考えるのも虚しいなと思います。マイクさんが旅だったあの暑い夏の日のことなんて、もう忘れてしまっているに違いありません。多分それで普通のことなんでしょうが。

最近ようやくあなたの死を目前にした思いがなんとなく想像できるようになってきました。きっと時間がそうさせてくれているんでしょうね。僕はといえば、消化器系、前立腺双方の検査数値が思わしくなく緊張した夏を過ごしています。

ここまで書いて、「何を臆病なことを!」とマイクさんの笑顔が思い浮かびました。ふふふ。ほんとうに弱っちいですね。あなたのように、もうちょっと強くなりたいと思います。

笑ってください

マイクさんを見守る長女雅子さん

マイクさん

暑い夏が戻ってくると、宇多野病院の病室であなたを見続けた日々を思い出します。あの夏もとても暑くて、病院までの道のりエアコンの効かない車で汗まみれになっていたことを思い出します。あれからまるまる2年も経とうとしているのですね。
あの夏、僕は自分のことなど考える余裕もなく、マイクさんの命の行方だけを見つめようとしていました。あなたの望んだ死がもうすぐそこまでやってきていて、あなたは淡々と受け入れようとしているように見えました。僕はなんとなく取り残されるような気がして、本心を言うとまだまだ逝かないでほしいと思っていました。右往左往していたのです。
その右往左往はこの夏、自分自身のことにめぐってきています。今年に入って体調がスッキリせず、前立腺癌の放射線治療後の副作用として血尿どころか激しい出血が続くようになりました。「よくあることですよ」という医者の言葉に納得しようとしていたのですが、4月以降の2度の検査で消化器系、前立腺双方の腫瘍マーカーの数値が高くなり、消化器系では基準範囲を大きく超えてしまいました。が、どちらも画像診断では不穏な影は見られませんでした。不安だけを抱える日々が続いています。

マイクさん

もしあなたが生きていたら、僕のこの不安にどんなことを言っただろうと考えました。
「もし再発したとしても、転移があったとしたても治療すればいいことじゃないですか。君にはまだまだ時間は残っていますよ」
きっとそう言って笑ったと思います。何をくよくよしているのだと。
確かにそのとおりですね。僕にはまだまだ時間が残されている。歳が歳ですから30年、40年というのはさすがに無理でしょうけど、あと何日と命の時間を限られたわけではありませんしね。
そこまで思い出してハッとしました。僕に対する数々の励ましは、自分の生に対する諦めの裏返しだったのじゃないだろうか。「君なんかまだましだよ。僕を見てごらん」と。確かによくそう言われました。「がんはそんなに怖くない。治療の手立てがあるから。ALSは治療すらできない」と。そう思うと、もっともっとあなたの本心に迫っておけばよかったと思います。もっともっといろんなことを聴いておけばと。
僕はこれから検査を重ね、もし何か見つかれば淡々と治療に臨むつもりでいます。とはいうもののその都度不安になったり、嫌になったり、耐えられなくなったり、右往左往すると思います。その度にきっと記憶の中のあなたと会話するに違いありません。その時はどうぞ笑い飛ばしてやってください。僕は右往左往しながら徹底的に頑張るつもりでいます。

ひとつの道

胃ろうから栄養を注入する

マイクさん

南日本新聞の連載が終わったことは、前回お知らせしましたね。
終了後、多くの方から感想が寄せられています。今日はその中からひとつ紹介したいと思います。鹿児島市のお隣り、日置市在住の女性からのお便りです。彼女は随分熱心な読者だったようです。
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新聞の連載、終わりましたね。
読み応えがありました。また、いろんなことを考えさせられた連載でした。
胃ろう造設を、アカンベー!と拒絶したお婆ちゃん!最高でしたね。
私は、経管摂取と胃ろうの2択に悩みました。義母でしたが、食事が飲み込みにくくなって流動食でも誤嚥(ごえん)する危険性が高くなりました。誤嚥するようなことになれば肺炎を起こしてそれこそアウト。カテーテルを使って胃に直接栄養を送るか、胃ろうを造設するか……。
お腹が空いたまま死ぬというのは残酷だなと思っていても、私も家族も胃ろうの知識もなければ、それが延命治療のひとつであることも知らなかった。全く無知だったのです。
義母は意識はあるけど判断力はない。自分で選択することなど到底無理でした。胃ろうにしろ経管摂取にしろ、たとえ知っていたとしても何が最適なのか、やっぱり分からなかっただろうなと思います。
だから清水さんが取り上げてくれたマイクさんの悩む姿、決断する姿、それを支えるご家族のあり方は、悩んでいたのは私達だけじゃない、誰だって悩んで当たり前なんだということを教えてくれました。正解なんてないし、自己満足かもしれないけれど、悩んでよかったと思えました。
取り上げてくださって、ありがとう!
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ね、マイクさん
最後まで社会と関わり続けるって、こういうことだと思います。
マイクさんの苦悩、選択、決断は、結果として誰かの苦悩、選択、決断を直接的にサポートすることにはならなかったかもしれませんが、あるいは何らかの結論に導くことはなかったかもしれませんが、明らかにひとつの道を示したと思います。あなたの生き様に触れたそれぞれの人が、自分の立場に置き換えてさまざまに考える材料として受け止めてくれていると言ってもいいでしょう。
こうやって感想を届けてくれるということが、その証です。
僕自身は、あなたに最後まで関わることで社会と関われたと思っています。
そしてこれからも関わり続けたいと思います。

結果を求めずひたすらに

清水哲男写真展「種子島物語」@京都文化博物館JARUFO京・文博(2022.4.20〜5.8)

マイクさん

どうもいかんです。またまたずいぶん遅れてしまいました。忙しさを言い訳にするのはいちばん情けないですが、ほんとうに忙しい日々を過ごしていました。4月20日から5月8日まで京都文化博物館で写真展「種子島物語」を、ほぼ同時に4月24日から5月15日まで鹿児島の蒲生和紙ギャラリーである陶芸家との2人展と、身体が二つあっても足りないような状況にありました。で、ついつい……。

考えてみると、この歳になってこんなに忙しい日々を過ごせるのは、ひょっとしたら幸せなのかもしれないですね。これは多くの人の力添えで実現したことで、ほんとうに人に生かされ、活かされているんだとつくづく思います。だから忙しいなどと言ってはいけないと思いながらもついつい……。
空の上のマイクさんから「何をやってるんだ!」って叱られそうな気がします。すみません、ちゃんとします。

マイクさん、ご報告です。
あなたとのこの往復書簡を切り口にはじまった南日本新聞の〈「生きる」宣言〉が、今月の第4水曜日25日に最終回を迎えます。当初は1年12回の予定でしたが、なんと3年36回の連載となりました。そのうちの24回は、マイクさんの自慢のお孫さんまひるさんに写真を撮ってもらいました。彼女には大変きつい撮影になったようですが、いろんなことを思い悩ながら泣きながら、ちゃんと撮り切ってくれました。彼女の写真がなければこの連載は成り立っていなかったと思います。そういう意味でも、僕はこの連載で多くの人の力を借り、支えられてきました。もちろんマイクさん、あなたとの出会いがなければ有り得なかった話です。関わってくれたすべての人に深く感謝したいと思います。

そうしてこれは終わりではなく、新しいはじまりだと言っておかなければなりません。人が生きて死ぬ意味を、これからあらためて追究していこうと思っています。社会のためではなく、誰かのためではなく、自分のためではなく、何かのためではなく、考えること自体を目的に結果を求めずひたすら考え続けていこうと思います。その傍らには、マイクさん、あなたがいるのです。

これからもここで、僕の思い、考えを、あなた宛に書いていきます。これからもどうぞよろしくお願いします。

マイクさんの遺産

今年のテーマは「種子島物語 文化打ち寄せる渚にて」 新しい展開を目指します

マイクさん

またまた9日に間に合いませんでした。

本当に申し訳ありません。約束したことを、2度も続けて違えるなんて、だめですね。でもね、実は、少々忙しい日々を過ごしているのです。そのことは前回も報告しました。鹿児島と京都で同時に写真展をやるってことです。

京都の方は、マイクさんもよくご存知の石田淨さんと、昨年からいろいんな取り組みをやってきているのですが、去年は10月に京都文化博物館のJARFO京文博で写真展をやり、今年は4月20日から5月8日までふたたび写真展をさせてもらうことになりました。浄さんの強いプッシュがあったからです。
テーマは「種子島物語 文化打ち寄せる渚にて」と、新しいテーマで挑むことになりました。

新しいテーマで、新しい写真展というわけですが、マイクさんもお察しの通り、僕は5年、6年、時には10年以上かけるという長っ尻の取材を続け、写真展を開いたり、本を出版するというのんびりしたテンポで生きてきました。だから毎年のように新しいテーマでということになると、僕にとっては本当に大変なことになるのです。必死になっている光景が目に浮かぶでしょう。ほんと、必死のパッチという感じです。

だけど、これから先何年仕事ができるのかと考えると、このあたりで仕事という意味での人生の第4コーナーにさしかかっていると、ちょっと腹をくくり直して頑張ってみようと思ったわけです。

大きな理由は、淨さんが真剣に僕のことを考えてくれて、物心共に支援してくれていることと、その淨さんと僕を結びつけてくれたのが、他でもないマイクさんだからです。

マイクさん

僕はこの忙しい日々をマイクさんの遺産だと思って、真正面からぶつかっていくことにしました。人の評価を恐れずに、謙虚に自分自身を追求し、徹底的に自分を追い立ててみようと思っています。成果はそのあとに必ずついてくるはずです。そうしてあなたが、研究者として、探求者として、身をもって様々な課題にぶつかっていった姿勢、思いも、しっかり受け継いでいきたいと思っています。

空の上から見ていてくださいね。