命の価値に一般論なんていらない

マイクさん

怒涛の3連投ですね。まず、参りましたと。どこからその元気、出てくるんでしょうねえ。ここらあたりで返信しておかないと、大変なことになりそうなので。で、今回は「命の価値」と「トリアージュ」について考えてみました。

1点目。

〈清水さんは、マイクがカール・ベッカーと麻生財務大臣に刺激されて命の価値を知りたがるマイクを懸念されていることは分かっていています〉

ぼくが何を懸念しているかを、もう少しはっきりさせておきたいと思います。ぼくは命の価値を知ろうとすること自体、悪いことだとは思っていません。自分の命の価値をちゃんと知ることは大切なことだと。じゃあ何に懸念しているかというと、他人の命の価値をどうのこうのと評価することです。カール・ベッカーも麻生某もそこが問題だと思っているのです。

自分の命の価値を考えることは、あるいは自分の命、人生とは一体何なのかを考えることこそが哲学だと思います。「いやあ、普遍的に物事を考えるには、人間一般の命にの価値を考えることこそが大切でしょう」と、〈私は世間を知っています〉という物知り顔をした人ならいいそうです。でも本当にそうなのでしょうか。

ぼくは思います。大切なことは一般論では何の答えも出ないと。自分の問題として、個別の問題として徹底的に考える。そこに普遍性が見えてくるのではないでしょうか。自分の命の価値を徹底的に考えることが、命というものの本質に近づくことだと。だから自分の命のことを考えるべきです。他人の命の価値なんてどうでもいいじゃないですか。それに一番厄介なのは〈コミュニティマインド〉ってやつですよ。これって直訳したら〈世間〉とか〈世情〉になるんでしょうね。

2点目ですが、ここから〈トリアージュ〉などという考えが出てくるんでしょうね。例えば震災時の限られた施設、人員、医薬品で、怪我をした人をその程度に応じて、すべての人の命を救うことを前提にどう治療していくかを考えた場合。例えば限られた予算でどこに手厚く福祉の手を差し伸べるか。最大多数の幸せを実現するかを考えるときなど、選別ではなくて優先する思想、基準というのは必要だと思います。

でもこれは切り捨てるということではありませんよね。誰にだって生きる権利は保証されているのです。〈あいつら生かしといても生産することなんかないのに、だったらあいつらに無駄な金を使うなら、こっちに回せ〉って、トリアージュでも何でもない。優勢なものをもっと優勢にって、そういう背景に〈コミュニティマインド〉があるのだとしたら、そんな世間は腐っていると思います。ここで注意していただきたいのは、ぼくが〈社会〉ではなく〈世間〉という言葉を使っていることです。このことに対してはまた。

だから、繰り返しますが、自分の命の価値をちゃんと知ることは大切なことだけど、他人の命の価値をどうのこうのと評価するなんて余計なお世話です。そのことだけ明らかにしておきたいと思いました。

命の価値に一般論なんていらないのです。

てげてげに楽しみましょう!

マイクさん

お孫さんの晴れ着姿、いかがでしたか? 目を細めていらっしゃるマイクさんの表情が浮かびます。そうして思いました。人生どんな困難に見舞われても、何がしかの楽しみ、幸せは必ずあると。

考えてみれば、今のぼくにとってそんなものがあるだろうか……。そんなふうに思ってしまうと、あらら、全くないやと思わざるを得ませんが、実はその逆で生きているということ自体がうれしくて、楽しい、幸せなことなんだと思いました。気づくのが少々遅いかもしれませんが。

〈ALSには頑張り過ぎ禁物ですがエンジョイの為なら頑張ります〉

これはすべての人にあてはまることではないでしょうか。みんな頑張り過ぎてないかって。頑張りに見合うだけのエンジョイはあるのだろうかって。
鹿児島にはとってもいい言葉があって、「てげてげ」っていうんですけど、意味としては「だいたい」「適当」「ええかげん」みたいな感じです。一見マイナスなイメージがありますが「ちょうどいい頃合いに」「ほどほどでいい」という、プラス思考で使うことが多いかな(よそ者ですので、そこんとこはよくわかりませんが)。

〈頑張らねばと思っても気力をキープ出来るか自信が萎みそう〉

だから、そこ、てげてげでまいりましょう。
ぼくは今日から放射線治療が始まります。1日のうち、ほんの2時間ばかり割かれるだけです。でも、それがほぼ1日のど真ん中の時間帯で、動きを大きく制限されます。さらにどんな副作用、影響があるのかもさっぱり見当がつきません。それをこれから7週間あまり毎日続けることになります。副作用で倦怠感が出る前に、面倒臭くて怠くなりそうです(笑)。まさに〈頑張らねばと思っても気力をキープ出来るか自信が萎みそう〉です。

でも問題はここからですね。ぼくの場合は頑張り甲斐があります。頑張ればなんとかなるという希望があります。そういうぼくがマイクさんのことを思うと、とても切なくつらい気持ちになります。なんだかよくわからないけど、申し訳ないなあという気分にさへなります。だからいうべき言葉を見失ってしまうのです。

ああ、何を言ってるんだろ、ぼくは。
ここはもっとマイクさんを励まさなきゃいけないとこなのに。何も言えない、何もできないかもしれない。でもぼくは、ちゃんと見たいと思っています。マイクさんのこれからの事実を、これからのすべてを、たとえ離れていようと、ちゃんと見続けていきたいと思っています。

だから共にあると思ってください。病と共に闘おうなどとは言いません。ただ共にあるだけでいいです。言葉を交わし、前向きにも後ろ向きにも、思いを通わせ、思いだけでもただ共にある。それだけでも続けていきたいと思います。

ぼくだけじゃないと思います。マイクさんと共にありたいと思う人は、ご家族だけじゃなく大勢いるんじゃないかな。ご家族はもちろん、そういう人たちと思いを共有するためにも、ここにありのままの思いをぶつけてください。
〈自信が萎みそう〉
〈気力も落ちて往復書簡の話題も思いつきません〉
辛いけど、そういうありのままの思いを、これからはもっと聞かせて欲しいと思いました。

いいことも悪いことも、楽しいことも苦しいことも、言葉にして思いを伝えて、頑張り過ぎずに、共に生きましょう。てげてげに楽しみましょう!てげてげに!

勇気付けられているぼくです

マイクさんの「チョロ毛トートバック」

マイクさん

お孫さんの成人式、着物姿、楽しみですね。
ぼくは自分の娘の着物姿を見たことがないので(2人もいるのに!!)、とっても羨ましいです。

ところで、マイクさんの「チョロ毛トートバック」、鹿児島でも人気です。今度みんなであれをぶら下げて天文館を練り歩くという企画を立てています。きっと注目を集めることでしょう。イラストのマイクさんだけではなく、実物のマイクさんにも鹿児島に来て欲しいと思っています。「ENJOY DEATH in KAGOSHIMA」ですね。KDEの皆さんとも相談してみようと思います。

〈頑張れる病気と頑張ってもどうにもならない病気があるのです〉

マイクさんのこのひと言にハッとしました。頑張らないといけないのはぼくの方でした。なのに頑張りましょうなんて、余計なことでした。なのにぼくはボヤキばっかりで、ちょっと恥ずかしくなりました。少なくともぼくの病気は治る可能性がある。ぼくこそ頑張らないとって、思い直しているところです。

その上でぼくも、病気そのものでなく、病を抱えていて充実した生活が可能だし、そのために、そこを目指して頑張らないとと思います。でもこれはマイクさんの病気でも同じでしょう。病気自体は頑張ってもどうにもならないかもしれないけど、暮らし自体を豊かにすることはできる。そのためにはどんなサポートが必要で、それを得るためにはどうしたらいいか。

そこは大勢の知恵で、大勢の人と一緒に頑張ることで解決できるような気がしますし、ぼくも、鹿児島のみんなもできる限りのことをしようと思っています。もちろんこれはマイクさんのためにですが、いつかきっと自分のためにもなるはずだととも。

〈なる様になれで次のステージを済ませたくないのです〉

やはりマイクさんは強いなあ、冷静だなあとあらためて思いました。ぼくなど〈頑張ってもどうにもならない病気〉だと告知された瞬間に逃げ出すだろうな。マイクさんはよく「闘病ならぬ逃病」という言葉を言われますが、結局マイクさんは踏みとどまって闘わないまでも向き合おうとされていると強く思いました。研究者ゆえの冷静さなのでしょうか。憧れさへ感じてしまいます。その姿に勇気付けられているぼくです。

マイクさんのことを思うと、へこたれてなんかいられない。がんという病と、治療と、ちゃんと向き合わないといけない。と、強く感じた朝でした。

あえて言います。頑張りましょう!

マイクさん

いきなりですが、頑張ってください! いえ、頑張りましょう!
ぼくはこの「頑張る」という言葉があまり好きではありません。特に人に向けては、あまり使わないようにしています。「頑張って」と言ったとき、その人はすでに十分すぎるくらい頑張っているに違いないですから。でもあえて、今日はマイクさんに「頑張って」と言いたいのです。

ただしこれは、何が何でも頑張れってことではなくて、軽く背中を押す程度のことだと思ってください。もうすでに頑張ってこられたマイクさんに、これ以上頑張れというのは見ている人間のわがままだとさへ思いますから。

〈これからの生き地獄への時間軸を感ずるようになった〉

この一言は、ぼくにとって衝撃以外のなにものでもありませんでした。現実と向き合って、ALSの事実を後に続く患者や家族、さらには社会に発信していくことこそが、ALS患者としての社会的役割だなどと言い続けてきましたが、マイクさんのこの一言で、全てが凍りついてしまいました。ぼくの言葉のいかに軽かったか、いかに虚しかったかということに。

しかしマイクさんはその「生き地獄」に対しては「全て覚悟済み」だと。そういうマイクさんに対して、ここ2日の投稿を読んで「頑張って」という言葉しか持ち合わせていない自分自身の浅はかさ、いい加減さを嫌というほど感じています。ぼくも、ひょっとするといつか余命宣告を受けるかもしれません。そのときの覚悟はできているはずなのですが……。

昨日も放射線治療のための位置決めをするためのCTを撮り、マーキングをしただけなのに、いろんなことを妄想して疲れ果ててしまいました。情けないです。とてもじゃないですが全て覚悟済みだなどとは言えません。

「マイクさんは、強いなあ」

これがぼくの素直な思いです。ぼくも強くなりたいなあ、と。

〈ボヤキにはマイクの現実に見つけた非合理や矛盾が煮えたぐっていて、妄想に繋がるのです。マイクはその妄想を精度の高い未来像に発展させたいと思っていますが、実際には無力なマイクでは願望で終わるのが現実です〉

ぼくのボヤキには泣き言しかありません。自分を悲嘆し、こんなはずじゃなかったと。ぼくのボヤキの中には社会の非合理や矛盾の投影など微塵もないような気がします。弱虫の自己中です。だからこそ、マイクさんのお手伝いがしたいと改めて思いました。ぼくの中にはない非合理や矛盾、マイクさんが感じている非合理や矛盾を、社会に発信し、大勢の人と一緒に知恵を働かせ、精度の高い未来像に発展させるお手伝いを。

マイクさんが言うように、人は誰しもひとりでは無力です。でも、ひとりの小さな思い、声を繋いでいけば、共感がひろがれば大きな声になり、大きな動きになるのだと思います。そうすることで精度の高い未来像が生み出せるのではないかと。ぼくらの時代でなくてもいいです。もっと先になってもいい。その未来像が実現できるそのために、ぼくはマイクさんの見つけた非合理や矛盾を大切にしていきたいと思います。

だからずっとボヤキ続けてください。煮えたぎらせてください。
そうしてぼくは、自分自身にも、マイクさんにも、軽く背中を押すくらいの気持ちで言います。

頑張りましょう!

もっとボヤキを!

病院の談話室で話すマイクさん、七枝さん、永山さん

マイクさん

ぼくは〈妄想の効用〉と言うことをずっと考えています。
先だってマイクさんの入院先に同行した永山由高さん、七枝大典さんと一緒にやってるネットラジオ「しみてつ×ながやん 妄想ラジオ」は、そのことを実際にやってみてそういうことがあるのかどうかを確かめてみようと思っているのです。で、これが、ええ、妄想自体がとっても微妙だなと気づきました。どういうことかというと、妄想を言葉にせず自分の頭の中に置いておくだけなら、これは文字どおり妄想なのですが、言葉にして外に向かって発信するといったいどうなるのかと。

「妄想ラジオ」では、自分について、家族について、仕事について、社会について等々様々な妄想をネットという場を借りて発信しているわけですが、聴く人によっては愚痴になり、妄言になり、屁理屈になり、泣き言になり、暴言になり、絵空事になり、ほんの稀ですが正論になったりするのです。それは「妄想ラジオ」の配信を聴いていただければなるほどとわかっていただけると思います。

大切なことは何かというと、自分の頭で妄想したことを、自分の言葉で発信することだと思っています。つまり徹底的に自分に徹するということです。極言すれば「自己中」などという言葉があてはまるのかもしれません。その背景には、世の中に溢れかえっているあまりにも「私は世間を知っています」というふうな社会的、優等生的な発言にうんざりしているぼくという存在があるのです。

“もっとボヤキを!” の続きを読む

社会に向かって声をあげよう!

マイクさん

おはようございます。
三ヶ日もあっというまに過ぎてしまいました。ご自宅での、ご家族に囲まれたお正月どんなだろう、楽しんでるかなあと、いろいろと想像しておりましたが、なんだかしんどそうで読んでいるぼくまで辛くなってしまいました。

食べるということはとても大切なことなんですね。普通にモノが食べられないというのは、食べられているぼくらには想像もつかない辛さがあるのだろうな。でも食べないといけないし。そのための胃ろうなんだし、もっといっぱい胃ろうから食べたらいいのにとも思いました。それだけでは味気ないだろうから、わずかな量でも口で咀嚼するだけでも、あるいはミキサー食を口からとって、ちゃんと味わえばいいんじゃないかなとも思います。栄養補給のためと言ってしまえばそれまでですが、胃ろうって食事を楽しむためにもあるんじゃないかなとも思うのです。

何が言いたいかというと、マイクさんなりの食事のスタイルをつくりあげちゃえばいいということかなと。〈これがマイクの飯の食い方だ〉ってやつですね。そう言ってそうする。それを繰り返す。周囲もそれに合わせる。合わせて欲しいと要求する。そうやってスタイルをつくりあげたらどうかと。マイクさんがそれを言わない限り、ご家族もだんだん何をどうしていいかわからない状況になってくるんじゃないかな。そのことがマイクさん自身も、ごサポートしようという家族も、結果的に疲れさせることになるのじゃないかと思います。簡単じゃないかもしれないけど、例えばメールで1日の食事の中で、コレが食べやすかったとか、あれは無理とか書くとか。そこからはじめてもいいんじゃないかと。

これは食事に限ったことではないでしょう。こんなこと想像したくもありませんが、これからさらに症状が進行し、生活のすべてに介助・介護が必要になった時、〈何をどうして欲しいのか〉〈何をどうしてあげたらいいのか〉がうまく伝わらないことほど、どちらにとってもしんどい状況になるのは目に見えているでしょう。だったらどうするか。

マイクさん、ぼくは思います。
まわりの状況に身を委ねるのではなく、様子見をするのではなく、まず自分を第一にああしたいこうしたいという声を上げないとダメなんじゃないかと。遠慮や諦めを先行させて考えるより、まず自分がしてほしいのはこうだけど、どうだろうと声をあげることが大切かと。声をあげて押し付けるのではなく、思いを伝えて相談するのです。

そう思うと、ぼくは急がなければならないなと思います。
何をって「マイクの家」構想です。マイクさんのこれからの日々を豊かにし、なおかつご家族の介護負担を軽減し、社会を巻き込んでマイクさんの療養生活をサポートする体制づくりですね。これはマイクさんのためだけではなく、後から続くぼくたち、つまり介護を必要とする人たちの、人としての豊かな暮らしをどう維持するかというモデルを構築するということなのです。死に場所を求めて彷徨う47万人の高齢者のなにがしかを救済することになるかもしれないと、ぼくは思っています。それこそがALS患者の社会的な役割になるはずです。

マイクさん。社会に向かって声をあげましょう。

命を祝福する日

鹿児島の夜明け。初日の出まではまだもう少し

マイクさん

明けましておめでとうございます。

ぼくは別にお正月だからと言って、何か特別のことを感じたり思ったりするような人ではありませんでした。少々ニヒルな言い方をすれば、ただの1日の移り変わりくらいにしか思えず、世間はどうしてそんなに大騒ぎするんだって感じでした。だって、酒なら毎日飲んでるし、頭の中は毎日がおめでたいですから(笑)

そう〈感じだった〉っていう過去形なのです。お察しの通り、がんという病を得てからそれが変わっちゃったのです。正月というのは生きていくためのマイルストーンなったかなという感じです。がんではよく「5年後の存命率」などということを言います。ぼくも大腸がんを手術して、5年再発がなければまず大丈夫ですよと言われて、経過観察という定期的な検査を受けてきました。そういう中で重ねていく毎日は、それ以前の毎日の経過とは明らかに違う意味を持つし、その集積としての年の移り変わりが大きな意味を持つというのは当たり前のことですね。

ぼくは手術以降1日1日を数えて生きるようになりました。

術後すぐの1回目のお正月は、抗がん剤治療開始を目前にして極度に緊張したものでした。2回目は、直前の検査で肝臓に白い影が出ていると指摘され、精密検査の結果悪性のものじゃないと診断され、胸をなでおろしたお正月でした。そして今年の正月は3回目ですが、ご存知の通り去年の夏に前立腺がんが見つかりその治療を待つという緊張状態の中にあります。ぼくの5年はもろくも更新されてしまったのです。

ですからぼくにとってのお正月は、とりあえずここまで生きてこれたというマイルストーンなのです。ですから、あと何回お正月を迎えることができるかなどという受け身ではなく、あと何度もお正月を迎えて、生きてこれたという喜びを「おめでとう」という言葉に変えて祝いたいと思います。

そうお正月という新しい日は、ぼくにとってぼく自身の命を祝福する日になったのです。
今年もぼくはぼく自身に、心の底から言いました。
「おめでとう! 新しい日々を楽しもう! 生きてこれてありがとう」と。
そうしてマイクさんにも

「おめでとうございます! 新しい日々を楽しみましょう!」

と。

追伸
ENJOY DEATH prat2、いろんな画像、動画を見るにつけ、現場にいてこの目で見られなかったことが残念んでなりません。part3の企画をお願いしたいと、切にそう願います。

ね、そうでしょマイクさん

写真展の合間に、京都木屋町の居酒屋たこ入道で

マイクさん

〈自分のことは自分で考えること。他人と比較することの無意味さに気が付いたような気がしました〉

いい感じですね。実にいい感じです。これに尽きると思います。人はみんな他人のことを気にしすぎなのです。しかも、誰かが悲劇的な状況にあると、もううれしくてうれしくて、気にする、同情するような風でいて、実は自分が思い描く悲劇的状況にその相手を押し込めようとするのです。

ご存知の通りぼくはがん患者です。大腸がんを経験し、2年も経たずに前立腺がんが見つかり、年明けから治療に取り掛かります。この前立腺がんが転移したものなのか、原発性のものなのかそれはわかりません。しかし大腸がんはリンパ節に転移が見つかり、全身のどこに飛び火していても不思議ではないなと自分でも思います。
すると周囲はこう受け取るのです。清水はとても深刻な状況にあると。本人もかなり落ち込んでいるのではないかと。体調的にもしんどいに違いないと。抗がん剤の治療で、髪の毛なんかも抜けているはずだと……。

そういう人が久しぶりに出くわしたりすると、やや残念そうな表情でこう言うのです。

「なんだ、意外に元気そうじゃないか」

そんなときぼくは心の中でつぶやきます。〈こいつはいったい何を期待してるんだ!? ごめんね期待通りでなくて〉と。つい先だっても、何度も繰り返し「意外に元気そうじゃないか」と言われて、「君は何を期待してるんだ」とつい言ってしまいました。すると彼は、「人が真剣に心配してるのに、なんだよその言い草は」とムクれてしまいました。でも本当に心配してくれているなら「意外に」などという言葉は出てこないんじゃないかと思います。

ぼくは確かにがん患者です。でも、だからと言って、何か深刻にならなければならないのでしょうか。
がん患者ですが、1000キロの道を車で飛ばして、京都で2週間の写真展をやり、毎日深夜まで動き回りました。さらに鹿児島に戻った直後に種子島に渡り、みっちり取材をして先ほど帰ったばかりです。その間に思い切り酒も飲みました。「妄想ラジオ」の動画配信では、ビールを飲みまくるぼくが登場しマイクさんも驚かれたはずです。もうちょっと節制して、身体を大切にしたらどうかとはよく言われることです。

でもぼくはこれでいいと思っています。これがぼくなのです。がんになったからといって、何も変わることもありませんし、一般的に語られるがん患者のイメージにはまりたいとも思っていません。〈心配〉してくれている皆さんには申し訳ないのですが、ぼくはぼく、ずっとこのままでいたいと思っています。自分のスタイルにこだわり、自分の生き様を大切にしたいのです。
へそ曲がりなぼくは「心配している」と言われると、「自分の心配をした方がいいよ」と言ってあげることにしています。で「もし君ががんになって落胆したり、落ち込んだりしたらいつでも話を聞いてあげるから」と言い添えることにしています。経験者の言葉は重いですよ。

ね、そうでしょマイクさん。

自分の明日は自分の目で確かめたい

清水哲男写真展「虹の旗」@八文字屋、京都市

マイクさん

写真展にお運びいただきまして、ほんとうにありがとうございました。他の誰に見ていただくよりうれしかったです。そうして不思議なことを感じました。

今までずっと〈正確な意思の疎通〉などということを思いながら、人と話をし、文章を書いてきましたが、実はそんなことどうでもいいことなんじゃないかと思いはじめているのです。
どんなに思いを尽くしても、言葉を選んでも、伝わらないことは伝わらないし、その逆に言葉なんてなくても思いを共有することもできるんじゃないかと。ときによっては言葉が邪魔なときもあるんじゃないかと。そんなことを思うようになったのです。

実際マイクさんとの会話は、おおよそ曖昧な感じで、そう、写真展の会場での会話でも、曖昧なやり取りに終始しましたが、なんだか思いはちゃんと伝わっているように感じられました。それは受け取る側の聞き取る力だと言ってしまえばそれまでですが、たとえ聞き取れる言葉が3分の1であったとしても、それですべてが推しはかれるような思いを共有していることが大切なんだと思います。

それがたとえ〈はい〉〈いいえ〉の一言のやりとりだとしても、その背景にある数百、数千、数万の言葉をすべて含んだやりとりができるはずです。そう思うと閉じ込め症候群=生き地獄などという状況は恐れるに足りないのではないかと、ついつい楽観的になってしまいます。たった一言のやりとりですべての思いが伝えられるように、受け取れるようにちゃんと準備をしておけばいいだけのことじゃないかと、そんなことを考えています。

この3週間ほどの間に、ぼくはマイクさんと3度顔を突き合わせて話をさせてもらいました。誤解を恐れず言うと、言葉の明瞭度という意味では絶望的な気分になりました。だって、現状から改善されるはずはないのですから。でも、意味の明瞭度を考えると、ぼくは一言一句を選びながら伝えようとするマイクさんの言葉、身振り、手振りに、伝えたいという強い意志を感じました。だから少々の行き違いはあっても、最後はちゃんとわかりあえるんだという確信を持てました。

文字盤を前にして 清水哲男写真展「虹の旗」@八文字屋、京都市

もっとたくさんのことをお話ししたいのですが、想いが先走ってうまく言葉にできません。ごめんなさい。

ところでぼくの前立腺がんですが、年明け1月16日から治療が始まることになりました。3月11日まで、土日祝日を除く毎日続けられます。どういう状態になるのか予想もできません。でも前に進むしかないと思っています。まだまだやりたいこともたくさんあります。そのためには1日でも長く生きて、1日でも元気に仕事をしなければなりません。そのために、どんな辛い治療でも受けようと思っています。ぼくに今できることは、明日を迎えるために最善を尽くすことだと思っています。頑張るなどという言葉が適当なのかどうかはわかりません。ただ、自分の明日は自分の目で確かめたい。その一心なのです。

マイクさんを真ん中に

マイクさん

京都にいるのにバタバタして、なかなか返信に手をつけられません。ごめんなさい。
で、今日はいつも鹿児島から配信している「しみてつ×ながやん妄想ラジオ」の京都ロケ版を、この往復書簡の読者のみなさんにもご覧いただきたいと思います(手抜きですが……)。

この回はマイクさんを病室に訪ねた直後に収録したもので、マイクさんとのやりとりを真ん中に置いて、コミュニケーションのことやそれに関するテクノロジーのこと、さらにはマイクさんの心の奥底にあるであろうもののことなどをお酒を飲みながら話しました。ちょっと失礼な話もあるかもしれませんが、そこはご勘弁を。