ぼくらは同じ水脈を一緒に生きている

マイクさん

「異物を受け入れないなんて」という言葉に、思わず反応してしまいました。異物を受け入れられてないのは、ぼくだって。いや、異物というより、もうひとつの自分といってもいいかもしれません。「がん」のことです。

「がん」は自分にとって異物であり厄介な「悪」なのですから、受け入れられなくて当たり前かもしれませんね。でもね、それでも自分の一部なのです。これが性格ならどうでしょう。人から「君は性格が悪い」と言われたとしたら、「何を言ってるんだか、お互い様じゃないか」などと笑ってすませたり、言われちゃったとしょぼんとしたり、仕方ないなと諦めたり、見抜かれちゃったとどきっとしたり、ああ自分が嫌になっちゃうなと思ったり、いろんな感情は持つけれど、まあ自分は自分だとそれなりに折り合いをつけて生きていけるものじゃないかなとも思います。性格が悪いっていうのも、人から見た自分の側面のひとつですから。

でもね、これが「がん」となると、紛れもなく自分の細胞のひとつ、自分の一部そのものなのに、まったく受け入れられない。当たり前です。命に関わる問題ですから。でももうちょっと突っ込んで考えてみると、性格が悪いっていうのもひょっとしたら命に関わる問題かもしれない……。でも「がん」の方がはるかに深刻だと誰もが考えます。で、その悪を排除する。異物は排除しないと、と。

でも「がん」ってほんとうに異物なんだろうか? 悪なんだろうか? そう考えた時、それが自分の一部だと思うと、自分自身を異物だ、悪だと否定しているような気分になってしまいます。

これを社会に置き換えたらどうなるか。マイクさんの投稿を読みながら考えてしまいました。
自分とは異なった外見、感情、意見を持つ人を、「異物」「悪」だと決めつける窮屈な、狭隘な社会になってしまっていると感じるのはぼくだけなのでしょうか。「がん」の例えで言うと異物を否定するということは、自分自身を否定することに他ならないのに。

そもそもぼくたちが暮らすこの国は、太古の時代から大陸の東の果てで様々なもの、文化、人々を受け入れながら歴史をつないできた社会だったんじゃないかと思います。異物を受け入れて、自分たちのものにする、そういう社会、歴史だったんじゃないかと。
だとすると、マイクさん流にいうと、異物=マイノリティこそが、この社会、歴史、文化を豊かにする原動力だったと言ってもいいんじゃないでしょうか。

「がん」だって排除するだけではなくて、排除するたびに心に得るものがたくさんあります。筋ジス患者轟木敏秀さんは、かつてぼくに、動かなくなる自分の身体を指してこう言いました。
「失うものがあっても、まだ得るものはたくさんある。何かひとつできなくなると、何かひとつ豊かになるような気がする」
と。どうして?と聞くと
「何かできなくなると、清水さんみたいな人が現れて、ぼくの手となり足となっていろいろやってくれるからね」
と笑いました。

ぼくらは誰でも同じ水脈を一緒に生きているのだと思います。
排除からは何も生まれない。異物を排除する前に、まず自ら一歩近づいてみる、寄り添ってみる。自分はそうありたいと思っています。

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