マイクさん
雅子さん(マイクさんのご長女/主介護者の1人)と少々お話をしました。雅子さんは最近のマイクさんについて、こんなふうに話しておられました。
「この『往復書簡』、文章は未だに少々長いけど、以前のようにひどい理屈をこねたりもしなくなったし、ネガテイブな表現を借りるのではなく、言いたいことが本音として出るようになってきたと思います。丸裸になれてきたかなって感じかな。病院でも入浴時に研修生に身体を洗わせてあげるの楽しんだり……。言葉の端々にもそれが出てると思います。少しずつ父の中で起きているそういう変化に、気づいてあげられたらよいなぁって思います」
ぼくも同じようなことを強く感じていました。特に今回の、
色々あるにしても、諦めないこと 詰まり「生きる」ことこそ原点なのです
例え自死願望であった頃のマイクでも、「生きること」を真剣にメメント・モリした結果が今にあるのです
という一節に「生きる」宣言以前はあまり見られなかった、心情のストレートな発露に触れたような気がしました。その背景にあるのが「当事者としての気づき」ではないでしょうか。これは早川一光さんの「こんなはずじゃなかった」という言葉がすべてを物語っていると思います。
医療を提供する側としての立場から最善の在宅医療システムを構築したはずなのに、いざ自分が医療を受ける側の立場になると、あまりにも患者当事者の思いとかけ離れたシステムだったというものです。ぼくもそういうギャップに悩む療養者の姿を数多く見てきました。ほとんどの場合、患者本人のことよりも、医療を提供する側、介護する側が<しやすいように>考えられていると思いました。
「生も死も自分だけのものではない」
そんなふうに考えると、家族の負担にも、社会の負担にもならずに、最大公約数のような生と死を考えればいいのかもしれません。おそらく今の在宅医療システムや介護システムはそういう最大公約数の上に成り立っているのでしょう。そこにいちばん欠けるものは、早川先生がご自身で気づかれたように、当事者にならない限り見えてこないものではないでしょうか。それは当事者本人の生や死に対する思いと言っていいでしょう。
マイクさんは首尾一貫して仰っています。
自分の症状がどのように進行するのか、それにあわせて在宅になった場合の家族への介護の負担がどうなるのか。先行き不透明の中で、家族への負担をかけたくないというマイクさんが、胃ろう、呼吸器を拒否する以上に、自死への願望を強められたことはよくわかります。リハビリのための入院が予想以上に長い入院になり、退院・在宅療養を避けてこのまま病院にいたいという気持ちは、そういう先行き不透明な状況に家族を巻き込みたくないからという思いもよくわかります。
ぼくも実際、在宅での療養生活は家族の負担も含めて「こんなはずじゃなかった」という話を、患者本人からよく聴きましす。
マイクさん
病気慣れしている人などいないと思います。しかも難病患者で。
でも療養生活慣れというならなんとなくわからなくもありません。
で、その療養生活慣れとは何かというと、ほとんどの在宅療養患者場合わがままだと言われない、迷惑をかけない「よい療養者」となるために、自分の希望・要求を抑える、あるいは諦めることに慣れてしまうことだと思います。
社会の中で生きて死ぬとすれば、生も死も自分だけのものではないという言葉はとても説得力があるように思えますが、ぼくは、もしそうであっても、生も死もまず自分のものなのだというところからスタートすることが大切だと思いました。
生も死も、マイクさん自身のものであり、ぼく自身のものなのです。
「生きる」ことを原点とするなら、生も死もまず自分自身のものなのだと強く思いました。