厚労省と麻生と赤ちゃんポストとベッカーに刺激されて

昨日は本当によく寝付き 今日の京都は夏日とかでも 病棟は爽やかです

今夜の清水さんは7時から鹿児島のMBC Radio Burn に出演し この往復書簡を話題にしてくださっています
多分今夜の返信はお疲れで無理と思いますので マイクが 昨日の面白くもない「命のコスト」に更に言い訳みたいな またも長文を追加させて下さい
サイトアクセスダウンにならないかと心配ですので 済みません 飛ばし読みして下さい

昨日の「命のコスト」の提唱者はカール・ベッカーさんです
そのアイデアに惹かれ また失望したことを

「ベッカーさんに不満」

元々 マイクが須原一秀の著書「自死という生き方」を批判するために始めたマイクのブログ(2008〜)が 次に自分の理想の死に方を考え出し 次々に現れる終活本を紹介してきました
それが麻生の「老人はさっさと死ね」発言 (2013)と 厚労省の「今後の看取り場所」(2006)と 「赤ちゃんポスト」(2007〜)に刺激され 死は個人の問題を超えて 高齢社会には安楽死センターがあるべきと発想したのです
それを論理的根拠としてカール・ベッカーの「命のコスト」発想に共感し 持論を発展させようとしたのです

そのベッカーも 保身的に倫理問題を数字で論ずることを避けてしまったのです
そのようなことで マイクの個人的で拙い妄想でしかありませんが 安楽死センターの必要性を 世間に分かりやすく説得できる一助になればと 継続して考えようとしてきたのです

今年2月の告知が即 終末期宣言ともなるALSと確定しました
死について人並み以上に考えてきたマイクには 確実に来る死を 不思議なくらい容易に受け入れることができました
それよりも この事は 安楽死を自分の為のものと考え直し 安楽死を実践せよとの天命として受け入れました

命をコストで考える事の不遜さは 充分に意識している積もりですが 単なる比較にしても 判断材料にするべきものではなく目安の側面としての可能性があればとの思いなのですが 具体的な事は何一つできていません
ベッカーさん追悼の意味で また安樂自死センターを継続して考え直すために ブログで「ベッカー」検索した順に マイクの煩悶を見返ししたく思います

*****ベッカーを知ったのは
2012/6/9「ラジオで終焉をテーマに」(終活本紹介)

ラジオ深夜便は 毎晩 悩み多く眠れぬマイクの癒しと刺激になっています
今朝の4時の心の時代は 京都大学・こころの未来研究センター教授 カール・ベッカーさんが 「理想の終焉」を見つめてと題して 理想的な死に方を語られた


真面目な学者さんらしい用意周到な準備を勧められていて 周りに迷惑にならない様にと色々考えておられましたが 元々日本人が持っていた気の遣いようを失ってしまったのではないかと嘆いておられた

*****ベッカーが説く「命にコストを」に驚く
2012/9/4「命のコスト意識」(楽しい死とは)

[死にユーモアを]と説くデーケンの本からは 「楽しい死」の可能性を教えてくれそうにないと思ってから このブログを記事カテゴリー「楽しい死とは」として 2012/7/17 からそれを自分で探し始めましたが しかし倫理面を考えると思考が進まなくなる難問なのです

昨日読んだ稲盛和夫編の本で もう一人の生死観を持つ凄い外人が 倫理面をユニークに語っている
「地球文明の危機(倫理編) 新たな倫理をどう構築するか」稲盛和夫編 東洋経済新報社 ベッカー他

この本の中で語る 医療倫理を専門とする京都大学こころの未来研究センター教授カール・ベッカーはよく知っていたが 「命にもコスト意識が求められる時代になると」言っていている大胆さに驚いた

臓器移植の優先順位を決めるためには 個々人の命の価値基準を決めないとやれない筈です
倫理とは誰もが納得できる基準を作ることであり 基準の議論なくして倫理は生まれない筈なのに 議論すらされていない
環境が負荷コストで議論されるように 生命も負荷コストで生死を決める基準を議論すべき時期に来ている
・・・等と語っている

このことはマイクの考えを後押ししてくれる大切なこととなると思ってその外の著述を探してみたが 命のコストについては見つからない
やっぱり自分で考えるしかないようです

50万人に1人の心臓の難病で米国での手術を求める精華町の5歳児に 1.4億の募金を始めたと言う記事が今日の朝刊にある
もう2ちゃんねるには「死ぬ死ぬ詐欺」だと沢山書き込まれている
ベッカー倫理によるとどうなるのかを知り 老人末期の命のコスト問題を考えるマイクの参考にしたいものです

*****マイクなりに考えてみた
2012/9/19「命のコストを考えなければ」(楽しい死とは)

死にたくなるほど楽しい死に方がありそうでないことが残念ながら本当のようです
それならもう死んだ方がよいと言えるのはどのような状態になった時かを 初心に帰って考えてみよう
終末期とは言え まだまだ生きることに未練があるうちは死にたいと思わない
未練があるけども 死んだ方が未練よりマシな何かがなければ死のうとは思えない
そのマシな何かとして 未練よりももっと楽しい死と言うものがあることに期待して来たのですが そう簡単には見つからない
しかし見つかったとしても それが未練よりマシかどうかの判断が確実に分かり易く出来なければ成りません
それには先ず 未練を定量評価しなければなりません
やりたいこと つまり死ぬ前にしておきたかったことなら それに必要な費用になります
終末期で身体が思うようにならなかったら 少し余計な費用が掛かるでしょうが 割と計算し易いかも知れません
それよりそんなものが欲張り老人から次々と出てきて限が無いかも知れないことの方が心配です
もう一つ計算して置かなければならないのは 終末期医療介護の費用や家族などへの負担です
これも割と計算し易いかも知れません
詰まりこれらはこれから生きるのに必要なコストで あと何年生きられるかを考慮しなければなりませんが これは仮定するしかありません
未練の実現費用と延命費用のそれを合計すると生きるコストになるのです
9月4日に書き込んだカール・ベッカーさんの 命も「負荷コストで生死を決める基準」を議論すべき時期が来ているとの考えに同じ事です
これから この考えを進めるために 命の負荷コストと 楽しい死に方が見つかったとしてそれにかかる費用を見積もって どちらが経済的に有利かを考えてみます
勿論 経済比較で倫理を決めることの是非論はありますが それはそれでさて置いてとして置くことにします

*****ベッカー本人の講演を聴講する
2012/11/24「カール・ベッカー講演を聴く」(楽しい死とは)

京都にあるホスピス4施設の一つ 薬師山病院のセミナー「最後の生き方」で カール・ベッカーこころの未来研究センター教授の「患者の権利と希望」と題した講演を聴いた
このブログ9月4日の書き込みで「命にもコスト意識が求められる時代になると」本で言っていている彼の大胆さに驚いた
それと 梅岩ファンのマイクが舎員である心学修正舎が 来年1月に特別講演者として招くことになっていることもあって お話をお聞きした
梅岩がこのテーマに現れるとは思っていなかったので どうしてかとの確認の質問をしてしまって 肝心の命のコストをどう考えたらいいかの質問ができなかったのは マイクの失敗だった(来年はアフターパーティもあるので そこでゆっくりしっかり伺います)

「愛する者の死とどう向き合うか―悲嘆の癒し」(京都大学こころの未来研究センターこころの未来叢書)ベッカー編著 晃洋書房
死別などの生と死の問題に関してアメリカで先駆的な研究を行ってきた6名の研究者を京都大学に招待し 公開講演会やシンポジウムを行った際の記録

「生と死のケアを考える」ベッカー編著 法蔵館
日本社会の崩壊の根底にある、個人の「死生観」のゆらぎをどう建て直すか。ターミナルケア、エイズ、教育、法医学、心理学、宗教などの視点から「人の死」の真実を見つめ、命の本質を問う、第一線12人による力作論考集。

いずれも編著で 命のコストのことまで踏み込んでいない

「死の体験―臨死現象の探究」ベッカー 法蔵館(1992)臨死現象の探究

どれも 9月4日の書き込みの 「地球文明の危機(倫理編) 新たな倫理をどう構築するか」稲盛和夫編 東洋経済新報社 にあった命のコストについては触れていない
残念だが この話を展開するには来年のパーティまで待つしかない

*****ベッカーの前にと意気込むマイク
2012/11/25「太田典礼の後継はベッカーかマイクか(楽しい死とは)

『安楽死のすすめ』太田 典礼 三一書房 は 既に50年前からマイクの今の思いや疑問を 思想確立して実践活動している人がいたことを教えてくれた
しかし今までの終活本を読み漁った中では 全く取り上げられていなかったのは何故なのでしょうか
彼の安楽死は積極的な死の勧めではなく消極的な死だと強調しながらも 時代的な先駆性から相当の批判を浴びてきた
安楽死協会の名を 尊厳死協会とまで変えたくらいです

死と正面から向き合ってきた伝統的日本の風習や文化が 戦後は死を見詰める事を避ける国民となり 性は解放されたが 死は逆に封印された
「死のポルノグラフィー化」と言う ジェフリー・ゴーラーの社会学の指摘のように 太田の死論は その当時にアダルトビデオと看做されて抹殺されたのでしょうか
性が解放されても 今尚逆に 死は隠蔽されたままです
ここで死を見つめるべしと解くベラー教授が 死生にコスト概念を持ち出し 太田と同じに死を眺め 生きることの価値を論じて欲しいものですが 著作でもっと展開されるのはまだまだ後なのでしょうか

来年の心学講演会までは マイクが太田の後継者としてできるだけ近付けるよう考え込んでみたいものです
典礼伝をも しっかり読まなければ

*****ベッカーはトインビーに隠れる
2012/11/26「トインビーと典礼とマイク」(楽しい死とは)

典礼の勉強は 太田典礼小論――安楽死思想の彼岸と此岸――大谷 いづみ2005/03/25『死生学研究』(東京大学人文社会系研究科)のHPによるのが今は全てです
典礼は 社会福祉学の先駆で 所謂隣保館セッツルメントを創設したトインビーの言葉「知能なき老人は罪悪を自覚せよ!」に大きく影響されている
それが元々は純粋に積極的な死であるべきであったのに 間接的・消極的になり 最後はベッカー教授もただそこを自発的と言いかえて 誰にでも許容されるように妥協した来たのです
それほどの抵抗があったのはそうなのでしょう
それでも純粋な彼は良き死をいち早く立法化すべきとの信念から 表面的妥協を余儀なくしてきた

マイクが老人末期を考えるに 痴呆や心身障害者のことを無視して済まされないことを典礼はその行動の先駆性から社会全体から非難されてきた
その社会が既に変わってきていることを認識せずにいられようか
超高齢社会と無気力に近い無知無能な日本社会を黙って見過ごす訳にはいきません

トインビー福祉の根本理念を典礼が信心したように マイクも信心すべきではないでしょうか
既にそのような時代になっているのです

*****ベッカーを持ち上げようとする場違いマイク
2012/11/28「全自動自殺機械」(楽しい死とは)

太田典礼研究が マイクの役行者・白幽・梅岩などに続いて 勉強対象として加わった
トインビーが 役立たず生きる「知能なき老人は罪悪」と言ったのと同じく 彼は役立たず生きることを「老人を業病」と捉えて自殺失踪を勧め 優生保護中絶と安楽死を擁護するのですが 障害者に関しては言葉を濁しています

先に紹介した稲盛本で 老人の「命の負荷コスト」を意識すべきと言っているベッカーさんは この間の講演では 死を自己決定するべき準備の必要を強調しているだけでしたが 一つ紹介した「いつでも自殺できる機械」が どう言う意図なのかよく理解できなかったのですが この機械の必要性を もっとベッカーさんと真剣に考えるべきだとマイクは思います

ジャックホーキンとか誰か確か 聞き取りに自信ありませんが 写真で紹介されました
マイクがネットで調べると Bill Thomasなるアーティストの作品が面白可笑しく見られます
こんな機械があると 物騒などころか 何時でも死ねるので自殺が減るかもしれませんし 末期の老人には LSDやエロスセンターよりも使いようがありそうではないかとも思ったりします
(全自動自殺機械の写真が面白く載っていますので sky.ap.teacup.comで観て下さい)

*****まだベッカーに期待するマイク
2012/11/29「いつでも死ねるが 今日は嫌」(楽しい死とは)

全自動自殺機械があれば そしてベッカー教授が勧める生前意思決定さえしておけば 誰でもで安楽死として選択使用できるのなら 少なくとも末期を迎えることは老人にとって相当気楽になります
しかもいつでも死ねる生き方をしているパーフェクトな人には 死は全く恐怖や障害にならないでしょう
しかしそういう人ほど いつでもいいと言いながら今日や明日は嫌だというに違いない

それでいいのであって その時 つまり苦しい 或いは 見込みのない命に負荷コストを意識するようになったら 罪悪意識から逃れるために選択できることは 選択できることが何も無いよりも 極めて重要で有難いことです

LSDやエロスセンターもその一つなのですが こちらの方が実現性で早いかも知れません

全自動自殺マシンでは パソコンやネットの基礎を築いた一人であるクロード・シャノンによって考案されたマシンが 最高に面白い
(シャノンとその機械が写真で sky.ap.teacup.comで観てください)

原理的には非常にシンプルで スイッチを入れると自分で自分のスイッチを切る つまり全自動自殺する機能しか与えられていないという究極にして最後の機械です
自分の行為で 自分の行為を消し去る 只それだけでしかないマシンです

全自動自殺マシン「シャノンの最終機械(ウルティメイトマシン)」

http://gigazine.net/news/20120226-shannon-ultimate-machine/

を是非楽しんでください

死のうとスイッチを入れても死なせてくれないというそんなスイッチが 全自動自殺機械についているようなのが 現実の世界なのでしょうか

それにしてもこれこそマイクが求めている「楽しい死」かも知れません

*****ベッカーは税金で生き残ることを無駄を
2012/11/30「密かなケアで 楽しい死を」(楽しい死とは)

太田典礼が 優生保護や末期患者安楽死を勧めようとして 障害弱者等から批判を受けた時代から 相当時代が変わっているでしょう
生き残ることの負荷コストは 全てと言っていい程税金なのだと ベッカーさんは強調されていました
しかも無駄使いかも知れませんと

今日の新聞には 民主党政権初年度の10年度社会保障給付費が100兆円を超えたとある
年金が50.7% 医療31.2% 福祉・介護18.1% と言い 何れも殆ど老人が厄介になっている

老人であるだけで 生産性を超えた負荷コストとして睨まれていることは間違いありません
このような認識は一方的で危険かもしれませんが 一応認識しておくべき大事なことなのです

安楽死を容認するかしないかの時代ではなく 既に積極的死を実践すべきかどうかを思考すべき段階なのです
老人一人の死に至るまでの負荷コストは簡単に見積もられます
公的終末期福祉センターに 公衆自殺機械を設置しても微々たるコストです
負荷コストとセンター運営費の差分を全て入居者の最後のエンジョイのために使うことに 第三者は誰も反対できないはずです
本人の意思を優先するような民主的人権社会ならばです
その最後のエンジョイがどのようなものか 元気なうちはお金がなくて また生き続けるには恥ずかしくてやれなかったことが 残った遺族のことを考えなければ思いっきりやれる筈です
密かに 自分だけで しかし末期でもう元気がないのですからケアの支援を受けられるのなら やり遂げないで死ぬことはないでしょう
密かな願いが叶うのです
但し マシン使用承諾の意思表示が前提です
お国のために税金の無駄使いをせず 誇りを持って・・・・最後は楽しく

*****到頭 麻生がベッカーを超える
2013/1/22「社会が容認するには」(楽しい死とは)

今夜は マイクが舎員である石田梅岩顕正会「石門心学修正舎」の総会と 年一度の特別講演会に参加した
講演はカール・ベッカー京大教授の「日本の伝統文化からから日本の未来を考える」で 欧米化する日本を憂い 日本文化の大事さを述べ 最後に梅岩思想の可能性で纏められた

梅岩ファンのマイクですが ベッカーさんからは 昨年の9月4日と11月27日ブログに書き込んだように 命のコストの問題を直接お聞きするチャンスと期待していました
パーティの席で マイクの考える「楽しい死」の必要性についてお話しし ストレートに共感いただけたようでしたし 健保で実施支援すべきとの考えには驚かれましたが 感心されても反論はありませんでした

今朝の新聞は  麻生太郎副総理兼財務相は21日開かれた政府の社会保障制度改革国民会議で、余命わずかな高齢者など終末期の高額医療費に関連し、「死にたいと思っても生きられる。政府の金で(高額医療を)やっていると思うと寝覚めが悪い。さっさと死ねるようにしてもらうなど、いろいろと考えないと解決しない」と持論を展開した。
また、「月に一千数百万円かかるという現実を厚生労働省は一番よく知っている」とも述べ、財政負担が重い現実を指摘した。  と騒いでいる

麻生は個人の人生観だと撤回し 議事録削除を申し出ている
ベッカーさんと同じ考えではと 新聞をお見せしての質問に まだ見ていないとの答えだけだった
それより 太田典礼をどう見ておられるかとの質問に 典礼を知らないと答えられたのにはがっかりだった

マイクも麻生もベッカーさんも 個人的な意見でしかないのです
政治・社会的には弱者を放置できないのですから 個人的死生観は個人で実現するしかないのです
そのための自己決定権ですが まだまだ社会性がありませんので 個人的に簡単には実行できません
行政ができなくても 先ず支援ビジネスとして裏社会に現れる可能性がありそうで そうなることを誰もが妨げてはいけないと思います
社会にボツボツと話題になり 社会に見えてくると議論にもなり そのうち容認されてくるでしょう
政治・行政はそれに従い 健保で楽しく死ねるようになるでしょう・・・必ず

*****ベッカーはもう駄目です
2014/3/12「梅岩の死生観を学びたい」(心満たされて死にましょう)

昨夜は 月例の石門心学修正舎の会舗で 京大こころの未来研究センター教授カール・ベッカーのところで学ぶ澤井努(後期博士課程)さんの オックスフォード留学体験記と梅岩研究についてのお話を聞いたあと 個人的にベッカーさんのことで気になっていたことを質問させていただいた

このブログ内検索で 「ベッカー」に関して11件ある
2012/6/9「ラジオで終焉をテーマに」ベッカーさん語る
2012/9/4「命のコスト意識」『地球文明の危機(倫理編) 新たな倫理をどう構築するか』稲盛和夫編 東洋経済新報社 に ベッカーは「命にもコスト意識が求められる時代になると」言っていている
2012/11/24「カール・ベッカー講演を聴く」にあるように その後ベッカーの著作3冊を読んだか 命のコストについては全く語っていない
2013/1/22「社会が容認するには」修正舎の総会の特別講演会で 講師ベッカーさんとパーティの席で マイクの考える「楽しい死」の必要性についてお話しし ストレートに共感いただけたようでしたし 健保で実施支援すべきとの考えには驚かれましたが 感心されても反論はありませんでした

麻生発言や太田典礼のことは理解しおられなかったことにはビックリでしたが 命のコストのことが稲盛編纂本にしかみられないことに違和感を持ったままでした

そこで昨夜 澤井さんにそのことを確認すると よく話としてはされるようですが 文章にすることは社会的に問題視されやすいのでされないのだと言われた
大学教授という地位を保守されておられるようで 少しがっかりしました

命のコストを生死価値判断基準として採用できるような時代を急がなければ いつまでたっても安楽死は万人が容認する倫理とならないのです

梅岩は実践を大事にした
梅岩の死生観について学ばなければなりません

*****やっぱりベッカーに期待するしか
2014/4/25「命のコストは分かりやすい説得」(心満たされて死にましょう)

安楽死センターで検索すると それらは安楽死の必要性を切々と綴るものと オランダなどの倫理先進性を追求するもの ホロコースト処理センターを語るもの そして動物の安楽死を語るものに分けられて 中でも需要の多さに感心させられました

調べる中に 楽々アンテナブログの 「安楽死の経済的考察」というのを見つけた

金持ち名無しさん、貧乏名無しさん 2012/08/21
年金の支払いが53兆円もある世の中だ。そして医療費が32.1兆円
二つをあわせておおよそ65歳以上に年間65兆円(医療費は高齢者が半分と考え)
もしこの支払いを安楽死で年間1兆円に抑えることができたら、年間歳入が65兆円も増える。
そして公務員人件費や箱物なんて社会保障費に比べればゴミみたいな額だ。
安楽死さえ認められれば、今の問題は全て一発で片付く。
逆に社会保障費が解決できなければ確実に財政破綻する。

命をコストで考える考え方を カール・ベッカーとともに マイクも考えてみたいものです

*****経済学と格好をつけたい
2014/6/4「経済学で老人の命のコストは」
「障害者の経済学」中島隆信 東洋経済新報社(2011/9/2)

*****やっぱりベッカーの講演会で失望
2014/12/2「セネカは素晴らしい」
一昨日は 京産大の講演会で カール・ベッカー京大教授の「日本人の死生観~生き方と逝き方」を聴いた
死に方を事前に自己決定し 書き残しておけというだけのことを いつものようにウケ狙いで語るが 内容は全く進展していないとしか思えません
国家公務員らしく 厚労省の広報活動員のようだったのにはがっかりでした

*****ISが人質2人に2億円要求
2015/1/22「人質の命をコストで考えましょう」

*****お金抜きの福祉?
2015/4/23「快楽的福祉を安易に」
「これで納得!福祉のお金」早坂聡久他 ぎょうせい (2010/11/10)

*****老人はコスパで?
2016/1/20「弱者をコスパで考えることは不遜 しかし」
「ダウン症って不幸ですか?」姫路まさのり 宝島社 (2015/11/7)

*****安楽死センター構想のコスパ
2017/12/9「須原秀一を越えたい」
友人からのコメント
健康者の自殺
その道の達人に問題提起とはおこがましいのですが、最近考えたことです。
私は生きるのがつらい人(寝たきり状態、激痛など)の安楽死には賛成です。
植物状態になる事が予想される人も肯定します。
しかし健康な時に自殺することには、疑問があります。
人間は生きたいという本能が強く、それに抗して自殺するのは、大変エネルギーを必要とします。
そういう努力をしてまで自殺する価値があるのか?と疑問を持ちましたが、如何お考えでしょうか?
きっと以前に書いたものがあると思いますが、探す方法をしらないので、お聞きします。

マイクの返信
マイクの勧める安楽死は 終末期の無駄な延命を否定するだけでなく 終末期ならではの積極的な安上がりで楽しい事をエンジョイしてからの自死を勧めるものです
でも難しいのは 終末期の判定と誰もが楽しいと思うようなこととは何かです
マイク自身の終末期まで探し続けるだけでなく 老人は考えて欲しいのです
マイクは卑怯にも 身障者のことを持考えることを避けているのです
そこら辺のことは teacupブログ内検索で「身障者」「生きる価値」や「カール・ベッカー」で検索して頂くと マイクが悩んでいる様子が分かります

家族に恵まれた金持ちは延命で苦しんで死ぬのも結構なのですが 特に貧乏な老人は 平均2000万円の治療費浪費より 500万円を健保から援助して貰えれば 安上がりでも もう死んでもいいと言う程の楽しみを味わってから死ねる筈です
週4回の介護デイケアサービスですら 1割負担の2500円x4で 詰まり経費を月に40万円 年に5百万掛かっているのです

当初尊敬していたカール・ベッカーさんは「命にもコスト意識が求められる時代になると言われていましたが お抱え学者らしく言葉を濁されてしまっています
マイクも 障害者や介護老人にまで 生きる価値の考え方を広めようとしていますが 卑怯にも 身障者については避けるしか出来ません

そもそもマイクがこの問題を考えだしたのは 「自死と言う生き方」須原秀一を読んで 哲学者であり健全者が 自死を美化して死んで見せた著者の能天気を批判するためのブログでした
メメント・モリのチャンスを頂いたのですが 彼をまだ越えられないのです

teacupブログ内検索「身障者」14件「生きる価値」22件「カール・ベッカー」13件

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