ぼくはいま、しあわせです

マイクさん

今日はぼくの心境の変化についてお話ししたいと思います。

鹿児島は長い雨が続いています。なたね梅雨というやつでしょうか。
こんな時は手術の痕が痛みます。身体の表に残った傷だけではなく、身体の中の傷跡もなんだか痛んでそうで、鬱陶しい時間を過ごしています。それに、痛みとともに、身体の中にひっそりと隠れている死の種子が芽吹くのではないかと、少々の不安が頭をもたげます。

希死念慮(きしねんりょ)

具体的な理由はないけれど、漠然と死を願う状態をこう言うのだそうです。一方自殺願望というのは、解決し難い問題から逃れるために死を選択しようとすることだと。
ぼくは若い頃からこの希死念慮に取り憑かれていたように思います。もうちょっと正確にいうと、いつ死んでもいいやという思いと言えばわかりやすいかもしれません。

で、無茶苦茶な人生を送ってきたわけです。大学を出てから、一度もまともに就職などしたことがなく、その日稼ぎの仕事をしながらあちこちを放浪して歩く。願はくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月のころ、などど文人を気取り、その実その日暮らしの自己破滅型の生活そのものを送ってきたのです。

それが気づくと文筆業というと聞こえはいいですが、「文屋などというヤクザな仕事に身を堕とし」(父)、最後の無頼派を自認して生きてきました。誰も頼らない、誰とも与しない、いつのたれ死んでもかまわない。そんなことを思いながら生きてきたのです。そんなぼくが、いつ死んでもいいやと思い絵に描いたような生活に堕ちていくは自然の成り行きでした。生きている実感などなく、大酒を飲み、怠惰な生活に塗れていく……。

それでも時々は、ほんとうに出所のわからない不安に見舞われ、生きてゆく行き着く先がわからないと言えばいいのか、そんな漠然とした不安でいっぱいになり、いっそのことこのままパッと消えちまうかななどと思ったことも1度や2度ではありませんでした。そんな人生を60年以上続けてきたのです。

そんなぼくを大きく変えてくれたのが、がんという病気でした。それまでのぼくなら間違いなく、いつ死んでもいいや、抗がん剤なんてどうでもいいやって思っていたはずです。が、どうしたことでしょう、死というやつが具体的ながんという形をとって目の前に現れたとたん、生きたいという思いが身体に充満したのです。間近に迫った死に恐れをなした? いえ、そうではないと思います。

「死の種子が芽吹くのではないかと、少々の不安が頭をもたげます」。これは生きることへの執着の裏返しとしての思いに違いありません。そんなふうに変化した大きな理由は、それまでひとりっきりで、無頼に生きてきたと思い込んでいましたが、実は大勢の人に支えられ、力を借りて生きていたことに気づいたことです。ぼくは生かされてきた、と。それにこんなぼくでも愛してくれる人がいることにも気づきました。ぼくは愛されている、と。

そう気づいた瞬間に、ああ、長生きしたいなと思いました。
このガンという厄介な化け物と闘おうと。たとえ打ち負けることがあってもとことん闘って、それでもダメなら死んでもいいや。それがどんな苦しい死に方でも、それでいいや。それまでは生きてみようって。そんなふうに思うようになりました。

がんという病気を得たこと。決してラッキーなことではないし、いいことではありません。でも、悪いことばかりじゃないなとも思います。ぼくはいま、しあわせです。

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