Re:生け贄なら喜んで

マイクさん

びっくりしましたよ。何がって、「生け贄なら喜んで」というタイトルが目に飛び込んできたからですよ。昨日あれほど元気そうだったのに、一夜明けたらまたまた超ネガティブか!と身構えてしまいました。しかし最後まで読んで、笑わせてもらいましたし、なんだか心の奥の方がホッと暖かくなりました。4人がかりで点滴をされ、笑いながら身を委ねるマイクさんを想像して、ぷぷぷと笑ってしまいました。ほんと余裕ですね。

それはきっと人を信じる、人との関わりを信じるところから生まれてきた余裕だと思いました。マイクさん自身も言ってますね「愛を感ずる繋がり」は力があることを実感したと。ぼくは思っています。人は決してひとりでは生きていけないと。大勢の人に支えられて生きているんだと。
支えてくれている人に感謝するのはもちろんだけど、だったらもうちょっと甘えてパワーをもらったらいいんじゃないかとも思います。手を借りる、知恵を借りる、何かをしてもらうだけじゃなくて、その人の力を自分の力にしちゃうんです。人一人の力なんてたかがしれてます。でもその力をたくさん集めたら、たくさんの人の力を集めたら、それは突然大きなパワーになるはずです。自分はそんなパワーに支えられてるんだと、そう思うことでずいぶん元気が出るんじゃないかな。

タブレットとこのブログは、大勢の人たちとつながるための入り口、装置にすぎません。この装置をマイクさんがどう使うか、それこそが大きな意味を持つとぼくは思います。マイクさんが言う「このタブレットに向かう時間が、希望を探す時間になっているのです」という言葉に、ぼくは希望を感じました。この装置の向こうで、マイクさんやぼくの言葉に耳を傾けてくれている大勢の人がいます。そう言う人たちの存在が、マイクさんに「希望」という言葉を使わせたのだと思います。これをはじめて良かったと思った瞬間でした。

理解し合えるのは同じ苦境を生き、同じ苦しみを共有する当事者だけだとはよく聞く言葉です。ぼくはそのことを決して否定しません。その人の苦しみはその人にしかわからない。当然のことです。当事者でない者はその苦しみをほんとうに理解することは難しいでしょう。しかし当事者でなくても、苦しんでいる人、悩んでいる人を支えられないわけではないと思います。寄り添うとは、思いやるとはそういうことではないでしょうか。当事者とそれを支えようという大勢の人たちが寄り添うところに希望が生まれると、ぼくは繰り返し言いたいと思います

どうぞ外に向かいたいという気持ちを忘れないでください。自分の気持ちを外に向けて主張するということをやめないでください。そのために用意したこの場所です。ご自分の思いの丈をあからさまに書き込んでもらえたらいいです。遠慮は必要ありません。
自分をあからさまに表現するということは、それだけ批判も受けるということになるでしょう。でもそれを恐れていたのでは何もできないということは、よくご存知だと思います。徹底的にやりましょうよ。

それでも、そこに家族や寄り添ってくれる大勢の人がいるということを、どうぞ頭の片隅に置いといてくださいね。自死をしようとして「現実との矛盾に気づき悩み悩んで決行できなかったのは、家族がいたからでもあり、また打ち明けた友人からのマイクへの愛ある叱責でした」とも書いておられます。このことはこれからも長く続くはずです。そうして「兎にも角にもマイクは多くの友人の愛で生きているのです」という状態も長く続くはずです。
大勢の人の手を借りながら、その愛を実感して生きていくのも、素敵な人生だとぼくは思います。

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