へっちゃらやん!

歌を詠む。推敲を重ねる母(撮影:松原誠氏)

マイクさん

自分の子どもは元気に暮らしているのに、父と母が亡くなったことでなんだかひとりぼっちになったような気がして、急に秋がさみしくなっています。こんな時はさみしいことばかりを思い出すのですね。

ここのところ考え続けているのは、自分の死を、人生の終幕をどう受け容れるかということです。まだ若いのに何を言っているんだと叱られそうですが、マイクさんが亡くなった歳までぼくもあと10年ほどです。今までに生きてきた68年という時間とこれから先の10年を思うと、ああもう残された時間はわずかだなと思ってしまうのです。それが15年でも、20年でもそんなに大差はないだろうなと。

マイクさんもそうでしたが、父も、母も、最期の瞬間を迎えるにあたっては、すごく冷静でまわりの者が目を見張るような処し方だったと思います。それは諦めだよと言う人もいますが、ぼくは決してそうだとは思いません。妙な言い方をしますが、自らの死に対して決して後ろ向きではなく、前向き、積極的ですらあったと思っています。なぜあんなふうに最期を迎えることができるのだろうと、ずっと考えているのです。

答え、ではありませんが、少しだけわかってきたことがあります。それは死に方というのは行き方の延長なんだということです。マイクさんも、父も、母も、思うところを徹底的に生き切った人ではないかと思うのです。マイクさんは研究者、学究者として、父は職人として、母は歌人として、それぞれに自分にとって納得のできる成果を上げその生き方を全うしたのではないかと。他者の評価は関係ありません。人としての評価も関係ありません。自分自身の評価としてです。そうしてもしそんなことができたら、この上なく人は強くなるだろうなとも思います。

自分がやりたいこと、やるべきことを見つけ、それを徹底的にやり通す。マイクさんと両親の死に際の清澄さと力強さはそんなことに裏付けられているのだろうなとつくづく感じます。そんな境地に到達できたら何も怖いことなんてないのだろうなと。

お袋の声が聞こえてきそうです。

「あんたも頑張りよし。人の目なんか気にせんと、徹底的にやりよし。そうしたら何がきてもへっちゃらやん!」

ですよね。生きてきた果ての迷いや執着や右往左往というのは、徹底的にやれてないことの裏返しですよね。ぼくも「へっちゃらやん!」のひと言と笑顔で人生を締めくくれるように、あと何年になるかわかりませんが徹底的にやりたいと思います。

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