死に方の選択、生き方の選択

マイクさん

ぼくはひとつ気づいたことがあります。何かというと、マイクさんの自死、安楽死についての言及についてです。
ほとんどの人が「後ろ向き」だととらえているし、ネガテイブ思考だと指摘しているはずです。そんなんじゃダメだ、もっと前向きに生きて欲しいと。たとえALSで命の時間を限られようと、最後まで精一杯生きて欲しいと。実際ぼくもそう思っていました。マイクさんご自身もネガテイブマイクと仰いますね。

でも、ほんとうにそうなんだろうかって思っているのです。
マイクさんが求められているのは平穏な死なんですよね。いずれ死ぬってわかっているALSという病気になってしまった以上、症状が進み身体が衰え、ただじっとして死ぬのを待つより、地獄のような閉じ込め症候群のような状況になる前に、自ら進んで、安らかに死にたい。そういうことなんですよね。それなら、ありかなと。

父の話をします。
父は肺がんで亡くなりましたが、がんが見つかった時は既に手の施しようがなく、一般的にいうと余命半年だと宣告されました。父は医師の言葉通り半年を待たずに亡くなりました。その父の最期はとても壮絶なものでした。父はモルヒネの投与を拒みました。寝てるうちに死ぬのは、自分もわからないうちに死んでしまうのは嫌だと。医師は「苦しさは大変なものだ。到底無理だ、お父さんを説得してくれ」と何度もぼくに頼みました。しかし父から「みんなに囲まれて、これで最期だと自分で納得して死にたい。がんかて笑て死ねるわい」と言われた時、ぼくは説得を諦めました。父は自分の言葉通りの最期を迎えました。長年連れ添った妻、息子、孫、曾孫に看取られて、苦痛に表情を歪めながらも、一人ひとりの手を取り、頷くような仕草を見せ、最後に大きく息を吸い込み目を閉じました。ぼくは父の死を納得して受け入れました。父は後に遺る家族に自分の死を納得させようとしたのだろうか、ぼくは今もそう思っています。それどころか、最後までよく頑張ったなと、父を誇らしく思っています。元気なころは、顔を合わすと必ず喧嘩になる大嫌いな父でしたが。

父の死に方も、ひとつの死に方だと思うと、マイクさんの言う安楽死もひとつの死に方なのかなあと思いました。父の嫌がった、モルヒネで眠らせて苦痛なく最期を迎えさせる。これはまさに安楽死だと思いました。それにマイクさんからはオランダやフランスの事情も聞きました。避けられない苦しい死なら、安楽死という選択肢があってもいいのかも、と。何と言っても、当事者のつらさなんて決してわかるものじゃないと思いますから。
だったら絶望的な状況になったとわかったら、安楽死もその選択肢のひとつに加えてもいいのじゃないかと思いました。しかしここで明確にしなければならないのは、絶望的な状況とはどういう状況かということです。そこにぼくは、安楽死と自殺の明確な差異を求めたいと思います。それはおそらく家族や周囲の人々の納得ということも含まれるかと。絶望的な状況を誰が見てもそうだと思えなければ、まだまだ生きられるのに、死を選択するという余計な死や、家族に迷惑をかける厄介な死もありえるんじゃないかと。

諦めという意味では父は明らかに生きることを諦めていたと思います。その上での死に方の選択だったと思います。敏秀も、前提として病気からは逃れられないと、そこは諦めていたと思います。その上での生き方の選択だったと思います。難病であっても、重い障害を持っていても、寝たきりになって何もできなくても、生き方の選択はできる。そう言いたかったのだと思います。ぼくだって、おそらくぼくはこのがんという病気で死ぬんだろうなあという予感はあります。それでも、この病気と向き合ってできるだけ長く生きて死ぬという選択をしたいと思っています。そうして死ぬまで社会と関わりを持って、発言をし続けたいと思っています。これがぼくの生き方の選択であり、死に方の選択だと思っています。つまりぼくは、死に方を選択するなら必ず生き方を選択しなければならないと思っているのです。生きた上での死だと。

マイクさん

「闘病と逃病」ってとっても面白いと思いました。ぼくもこんなややこしい病気からさっさと逃げ出したいと思います。だけど逃げられない。じゃあどうするか、たっぷり考えないとと思います。その果てにマイクさんのいう安楽死、尊厳死という選択もあるかもしれません。ただしぼくの選択肢には自死、自殺というものはありません。
ここまで考えると、マイクさんのいう安楽死、尊厳死に限っては、決してネガテイブでもなく、後ろ向きでもなく、選択肢のひとつとしてとらえなければならないと思いました。その上で、生き方の選択とセットにして考えなければならないとも思いました。

マイクさん

この場所をどうぞお好きなようにお使いください。そうしてぼくに考える材料をたくさん見せてください。ぼくにもやがて死が訪れます。ぼくがぼくなりの生き方をしてぼくなりの最期を迎えられるように、たくさん考えるチャンスをください。

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One Reply to “死に方の選択、生き方の選択”

  1. 夢のある人は あるいは人生に意義など考えもせずに生きていられる若さ溢れる人も 当然 死とは無縁でいいのですし 自死など考えることも無用で当たり前です
    しかし現実には 自死しかできない悩める若者や もう死にたいが死ねない老人が多くいるのです

    詰まり 死や自死は ALS患者だけの問題ではないのです
    そのため 一般論として自死を捉えられると 例えALSであっても否定されるしかないのです

    生き方は多様です
    信念で最期を生きられたお父様の凄さには畏敬の念を感じます
    死に方も多様なシチュエーションがあって然りなのですが 死に際に自己決定(西部邁の言う自裁死など)の余裕がある筈がありません

    死に方はシンプルでいいのです
    自然死ができる人はラッキーですし 不運な事故死は別として どんな病気でも いつでも 最後の最後に 安楽死さえできるならば 思い切りの闘病もチャレンジし易いし ずるい生き方かもしれませんが 逃病としてでも安心して選べるのではないでしょうか

    尊厳死は確実に苦しみますし 自死がなくならないのは 自死する者の悩みの辛さを自分の事として考えられない非情な社会だからなのです

    自然死と安楽死しか要らないのです

    安楽死を支援する施設の必要を説いてきたマイクは 支援することが幇助罪になるならと思い 昨年から安楽自死と言い換えています
    自分の意思でスイッチを入れるだけの駆け込み寺なのです
    勿論誰でもと言う訳にはいきませんので 終末期老人に限定していたのですが 弱者にまで思考を巡らす資格がないと思って避けたのです
    しかし悩める若者や 死にたい老人にも 赤ちゃんポストが社会的非難を受けながらも役目を果たしているように 駆け込み寺で いつでも死ねると分ったなら 多くの人は再起をすべく努力をし救われるのです

    弱者にまで論ずる資格がないと思ってた去年と違って 自分が弱者になった今 自死を否定するだけの社会に反旗を振って言えるかも知れません

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