
マイクさん
〈清水さんのご様子が気になり……〉
僕は5月28日に、大腸がん手術後2年半の下部内視鏡検査を受けました。その直前のCT、血液検査では異常がなかったので少々たかをくくって臨んだのです。下部内視鏡検査というやつは、検査自体より時間をかけて下剤を飲んで腸内を洗浄するという手続きがけっこう大変で、あまり気が進まないのですが……。今回も耐えました。その上で辱めを受けるわけです。仕方ないですが。
結果として、見つかりました、10mm大のポリープが。即座に切除し、縫合して、クリップで止めて処置はすぐにすみました。それが良性か悪性かは生検の結果を待つことになります。悪性だったら、その時はまた何か治療の方法を考えないといけないのでしょうが、今はそのことについては忘れようと思っています。気にしても仕方ないですから。それこそなるようになれ、なるようにしかならない、ですね。
内視鏡での切除とはいっても、一応手術ではあるので、いろいろと制限をつけられました。あれを食べたらだめ、これを飲んではだめ、はもちろんですが、お腹をよじってはいけないとか、お風呂に浸かってはいけないとか、そうそうもちろんお酒は2週間はだめということでした。その上で、腹痛や下血があればすぐに病院に連絡するようにと。
で結局2日目の夜に激しい腹痛に見舞われ……。
いろんなことがありますが、これが僕の人生だとこの頃は肯定できるようになってきました。〈なんで俺だけ何度も何度もがんの不安にさらされないとならないのか〉と腹が立ったり、失望したり、嘆いたりしてましたが、最近では〈まあしゃあないね。逃げても、後ろ向きになってもしゃあないしね〉と思えるようになったのです。がんが見つかり、治療をし、また見つかる。僕はきっとそんなことを繰り返して生きていくのだと思います。そうやって生きて死んでいくんですね。
すると不思議な感覚になりました。死を肯定することで、生をも肯定する。そんな感じだなあと。裏を返せば生を肯定することって、死を肯定することなんでしょうね。でね、マイクさんの最近の書き込みを見て思うのですが、
〈早く死ぬようなことはできないのに ・・・・・〉
に象徴されていると思いますが、マイクさんは自らの〈生〉も〈死〉も肯定できてないのかなあと。
僕はマイクさんの〈死〉を肯定したいと思います。そのことでマイクさんの〈生〉を肯定したいと思います。すると人はなぜ生き、なぜ死ぬのかという問いが見えてきます。それこそが僕自身が僕の明日を生きていく燃料になるのです。そうすることで誰の〈死〉も決して無駄にはなりはしない。そんな気がします。僕の〈死〉もマイクさんの〈死〉も。
マイクさん
死にたいのなら、まず生きることからじゃないでしょうか。徹底的に生きないと、ちゃんと死ねない。「死にたい」がただの泣き言に聞こえる。僕はそう思います。