5/5 憲法のお陰です ALSは教えてくれた

昨日一気に 最近の思いを書きました
書いてみて 読み返してみて 最近になって確かにALSは残酷かと振り返るのですが 強がりを言っているのかも知れませんが コロナほどの嫌らしさではありません
コロナは 死を考え 死を納得する時間もなく弱者を死なせているのです
家族が看取ることもできず

それに比べALSはズルズルと時間を掛けた老化や病と違って 程々の時間 死を味わうことになるのです
死を味わうのは程々あった方がいいのです
長くもなく 短くもなく

さて思い出すのはマイクが新参者の頃は まだ症状もキツクもないのに 入院患者同志を比べて 病状の大変な患者さんに同情しながらも 自分を慰める材料にしてしまう所がありました
そんなマイクの思いを自分で卑下したりしましたが ベッドの上で勉強すると心理学・倫理的にも人間には必須の能力だと知りました
命に価値や区別を付けることを 清水さんのように同志社で哲学倫理を学んだ方には批判されそうでしたが 隠さず何度もここで白状しました
相模原の植松の優生思想や弱者不要論など意識したのは 自分も弱者になったからでもあります
下方比較(上方比較・水平比較)という倫理学の捉え方は差別や優生思想に繋がってはいけないのです

何故こんな話をしているかというと 一昨日は憲法記念日だからです

ALSのお陰で死だけでなく 人権や共生社会のことを 弱者として考えることになり まだ元気だった去年はここで何度も考えました
ALSになる前は 死についても老人としてではなく 他人事として安楽自死を考え まして障害者・弱者につては考えることはできませんでした
ALS弱者当人になってからは 考える資格を得たような思いで 力不足を感じながらもここで考えてきました
自分では中途半端としか見えませんが 思い返したりする気力も余裕もありません

でも挙げ句の果ては ALSの残酷さよりも症状の確実な進行を覚悟すれば 闘病よりも逃病で死を捉えるのがALSらしくと思ったのか 計画的にエンジョイ・デスできると粋がって見たりもしました
生前葬などと思い掛けない機会が持てたのを ALSだからこそのお陰だとこのブログで何度も書いた

人間の思い上がりというもので こんな自分を卑下したり 醜いとこのブログで何度も書いた
弱者として
憲法は凄い

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