マイクさん
ぼくはいま、死を強く意識しています。これまでにこんなに強く意識したことはないと言ってもいいでしょう。
数年前、父が肺がんで半年の余命宣告を受けた後、宣告通り亡くなった時にもこれほど強くは意識しませんでした。でも、マイクさんという存在に触れて、とても強く意識するようになりました。冗談のように聞こえるかもしれませんが、ポケットにいつも「死」というしわくちゃになったメモ紙をつっこんでほっつき歩いているような、そんな感じなのです。「強く意識している」を「身近に感じている」と言い換えてもいいかもしれません。マイクさんが、死を身近に引き寄せてくれたのかもしれません。
「日々できることが少なくなっていく。でも、まだ何かできるはず。できることがあるはず」と轟木さんは夢を手放さなかったのは若さだったのでしょう。
若いから……、ぼくもそう思います。でも、敏秀をそばで見ていたぼくは、とても複雑でした。彼の中には同世代の若者が経験してきたことを、そういちばん大きいのは恋愛や性体験でしたが、何も経験できなかったというとてつもない悔しさや口惜しさがありました。「そんなぼくにできること。残されているものを、人を振り回してでも追求したい」という貪欲さがありました。「でないとやがて死んでしまうぼくは不幸すぎる」と。敏秀は夢を手放さなかったというよりも、ジタバタしていたのです。右往左往していたのです。何かができるということで、近づきつつある自分の死を遠ざけたいというように。
ぼくはと言えば、正直な話をすれば、とても不安な毎日を過ごしています。体調が悪いとか、苦しいとか、しんどいとかはありません。あるいは身体が衰えつつあるということでもありません。自分の体内の「死の種子」がいつか芽吹いて、この身体を蝕んでいくのではないかと不安なのです。こんな話をすると、「そんな後ろ向きな言葉を発するもんじゃない」とか「前向きに生きろ」とか「頑張れ」とか言われます。そんな時は心の片隅でクスッと笑いながら、言葉を飲み込みます。「言われなくても前向きになろうとしてるし、頑張ってるよ」って。
しかし、発症からは、遅かれ早かれ生き地獄の終末期が訪れることを成るように成ると楽観的に見ることは出来ませんでした。どうせなら、苦悩を味わう時間積分を少なくするためにも、マイクの死は早い方がいいのです。
不安の根源は得体の知れないものだと思います。おそらく、すべての人が「地獄の終末期」に対して漠然とした、得体の知れない不安と恐怖感を抱いているのだと思います。それに打ち克つことは、一体全体可能なことなのでしょうか。多分受け容れることはできても打ち克つことなど、ぼくには到底無理なように感じられます。いや、受け容れる自信だってありません。だからぼくの死はできるだけ遠い方がいいのです。死にたくはないのです。
前向きに生きることを強いられることは、つらいことだと思います。それでも生きている以上は前向きに生きたいし、生きなければならないと、ぼくは自分に言い聞かせています。妙な言い方をしますが、ぼくはぼくが死ぬその時まで、一生懸命生きようと思っています。そのために死をいつも身近に感じていたいとも。ぼくにとっては、死を身近に感じることは、死にたいということではないのです。
マイクさんがよく口にされる「memento mori」という言葉、「死を忘れるな」。だからこそ生きるんだ、生きるために忘れるなと、背中を少し押されているような気分になります。もうちょっと頑張ってみようかなって。ジタバタしたって、右往左往したっていいんじゃないかな。それでも生きていこうと思います。でなかったら、無念のうちに死んでいった敏秀に申し訳がないなとも思います。
ぼくももっともっと考えたいと思います。マイクさん、一緒に考えましょう。マイクさんの最後のひとことに強く共感して、今回のお返事を終わります。ぼくもありのままに生きたいと思いました。