ぼくが生きた痕跡に

目下の必需品。時間が経てば必要なくなると主治医は言うが……

マイクさん

抗がん剤や放射線治療に限らず、副作用というやつは投薬や治療の回数が増え、蓄積が進むと露になってくるようです。これは耐えるしかないですね。しんどいから、煩わしいからといって、やめるわけにはいきません。
ぼくは頻尿、排尿困難、残尿、尿もれがひどくなっています。治療15回目過ぎから尿もれパッドが必要になりましたが、それは備えという感じで、一番小さな20cc(ちょい漏れ用)を使いはじめました。ところが20回をすぎると、いつもれても不思議ではない状態で手放せなくなり、25回を過ぎた今、20ccでは足らず80cc用(中漏れ用)を使い、車で移動したりラジオ番組に出たり行動に融通がきかない場合は履くタイプを使うようになりました。体裁などかまっている場合ではなく、自分にとって何が必要か、しなければならないことをやるには何を選択すべきかを考えて行動しています。

〈気切体験で、一時的にスーパーになる勇気があっても、それは生き続ける覚悟ではないと清水さんに見透かされてしまいました〉

そんな中、ぼくはこの書簡の交換でマイクさんの冷静な思考・行動に驚きをもって接しています。マイクさんからはデータ重視の研究者と感情重視の文学者の違いだと指摘がありましたが、冷静にデータを求め、解析・分析し、行動しようというマイクさんに半ば憧れに近い気分で文章を追いかけています。
だから気管切開をする勇気はあっても、生き続ける覚悟ではないという言葉、実によく分かります。気管切開後の療養生活が具体的にどうなるのか、はっきり見えてこないからですよね。逆に言えばそれが見えて来さえすれば、生き続ける覚悟も十分にできるんだというとても前向きな気持ちだと受け止めました。

〈生き地獄はマイクが耐えればいいのですが、介護地獄は家族の負担です。それは運命とは言え家族の余計な負担になるどころか、やれない無理な大仕事かも知れません〉

やはりここですよね。自分は耐える用意があるけれど、家族にその負担を受け止めてくれとは言えないと。この思いやりはすごいと思いました。
ぼくはここしばらく反省していることがあります。母のことです。年老いた母の排泄について、母の気持ちよりも介護のしやすさとか、効率を中心にして考えていたのです。自分が尿もれパッドや紙オムツを使うようになって、はじめてわかったことです。尿もれで下着やズボンを汚したり、何度も慌ててトイレに駆け込むようなことはなくなりました。でも、いろんな不安が湧きあがります。周囲の人に匂いは気にならないだろうか、そんなのを使っていると知られると嫌がられないだろうか……。並べ上げたらきりがありません。使うことでプラスもマイナスもあるけど、マイナスはプライドとか尊厳(大げさかな)に関わる問題であり、他者から「何も気にすることなんかない」と言われても気休めでしかないなと。
母はもっと大変です。今、ほぼ車椅子で暮らしているので、トイレへの移乗を考えると紙オムツが便利だというのは介護、介助する側の都合なんですよね。幾つになっても女性ですから、母にだって恥じらいはある。自分がこんな状況になったからわかることです。なんと思いやりのない息子かと反省の毎日です。

〈こんな段階でマイクのためにマヤちゃん清水さんが真剣に考えて頂いているのです〉

このことも、気持ちを引き締め直しています。マイクさんがいよいよ大変な状況にさしかかっていくにつれ、自分の言葉の一つひとつが安易になっていないか。ちゃんと裏付けをもった言葉になっているか。そんなことがとても気になります。「生きましょうよ」「生きてください」「頑張りましょう」などという言葉は、ついつい無責任になりがちです。家族ではありませんから、最終的な責任は免れるわけです。でもぼくは、こんなことを言うととてもおこがましいですが、今までもこれからもちゃんと責任を持ってマイクさんに接していきたい、サポートをしていきたいと考えています。
でも決して自分が中心になるということではありません。あくまでも主役はマイクさんとご家族です。まずマイクさんとご家族が話し合って、結論を出すことが大切であることは間違いありません。ぼくたちはその結論を実現できるように、具体的なサポートを考えていきたいと思っています。そのために多くの人の力を集めたいなとも。
どこまでできるか分かりません。でも徹底的に考え、行動したいと思います。おそらくこのことは、後々ぼくが生きた痕跡につながるはずだとも思っています。

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