マイクさん
こんにちは。
ぼくはあなたからのからのお便りが、日々長くなり深くなっていくことに、喜びを感じるとともに、問題の深刻さに打ちのめされるような気がしています。なんとかぼくも一緒に立ち向かおうと思うのですが、正直にお話しすると、もし自分がマイクさんの立場に置かれたらどんなにつらいだろうと、どんなに右往左往ジタバタするかと、立ちすくむ思いがします。
見るのも辛いのに ご本人の体の辛さを思うと心痛むのに それ以上にどんな気持ちでおられるのか 聞くまでもなく また聞いてもこちらが辛くなるばかりだと思う
その通りだと思います。だけどぼくは、これまで難病患者の方からたくさんお話を聞いてきました。そんなぼくにできることは、ただお話を聞かせていただいた方を強くぎゅっと抱きしめたいという思うことだけでした。ぼくはこの「抱きしめる思い」を大切にいろんな人に接してきたし、これからも接していこうと思っています。無力なぼくにできるのは、話を聞き、そうして心の中でぎゅっと抱きしめることくらいなのです。
件の教授が、どのような意味で「命のコスト」とおっしゃっているのか、ぼくにははかりかねるところがあります。それどころか、「生きる価値」をコストで測ることに少々違和感を抱かざるを得ません。「命のコスト」とは、生きるためにどれほどのお金が必要かということでしょうか。するとコストで測る「生きる価値」とは、どれだけお金をかけたかで決まるということなのでしょうか。ぼくにはよくわかりません。
東京で暮らす人と鹿児島の秘境といわれるトカラ列島のような離島で生きる人では、明らかに「命のコスト」は異なるはずです。でも、自分の居場所でそれぞれ必死で生きている人の「生きる価値」は比較すべきじゃないと思います。「生きる価値」を「人生の価値」と言い換えるとしたら、それぞれの場所で、それぞれの人が、自分の人生を生き切るかどうかで、「人生の価値」は決まるんじゃないかと思います。それも、人に評価されるのではなく、自分自身の評価として。
それでも今のマイクには 自分のQOLくらいは 考えるまでもなく ALSを自覚してからは毎日毎日減衰するしかないQOL体感しているのです。勿論 精神的にまで影響されることのないようなマイクでありたいのですが
ぼくのかつての友人で「死亡退院」の主人公・轟木敏秀さんは、デュシェンヌ型筋ジスで衰えゆく筋肉、動けなくなりつつある身体を自分でこう評しました。
「日々できることが少なくなっていく。でも、まだ何かできるはず。できることがあるはず」
と。そうして彼は亡くなるまで外の世界に向けて自身の思いを発信し続けました。そのためにITエンジニア、リハビリテーションの専門家、数多くのボランティア、友人を徹底的に振り回して自分の思いを遂げようとしましたし、それらの人々は喜んで振り回されていました。おそらくそれらの人々は、それぞれが「抱きしめる思い」を身体に充満させていたのだと思います。
マイクさん
どうぞわがままになってください。そんなに重い病を得てまで、善人でい続ける必要はないと思います。マイクさん自身の「生きる価値」を高めるために、どうぞわがままになってください。そうしてまず、ぼくを第一に振り回せるだけ振り回してみてください。
ラジカット、効果があるといいですね。ぼくも期待をしています。
それにマイクさんは、思ったよりも進行が遅いのではと聞きました。
これからゆっくり何をするか。そんなことを考える6週間になればいいなと思います。