もがき苦しみ抜くという生き方

マイクさん

生きるための胃瘻、延命のための胃瘻。このことをずっと考えています。胃瘻のことというか、多分生きるため、延命のためということかな。生きるため、延命のためと言うと、そのことだけが目的みたいになっちゃって、なんだかとても執着心の塊のような感じになっちゃいますね。それはきっと、

〈ここの入院患者に胃瘻の方は多くいます。お年寄りばかりで延命を望まれた方ばかりでしょう。確かにベッドから自立している方には見ません。ベッドに伏せたままの人しか見ていません〉

という風景もそのイメージを強めるひとつの要素になっているような気がします。でも、とぼくは考えてしまいます。生きるため、命の期間を延ばすため、というその向こうに何があるのかと。ただただ生きることだけを目的にするというのは、なんとなく違うなと思うのです。

前にマイクさんは、国外で安楽死を選択したアスリートの話をされていましたね。苦痛に耐えながら、それでも生きていた。そこにはアスリートとしてやり遂げたい、やり遂げなければならない人生の目標、生きるための目的があったのでしょうね。それをやり遂げたら、苦痛に耐えてまで生きている必要がなくなった。だから自ら進んで。その胸の内に分け入ってみると、ひょっとするととても晴れやかな気分だったかもしれないとさへ思います。

なんだろう……。自分でも自分が何を考えているのかよくわかりません。〈生きること〉と〈生かされること〉の違いというか、その意志の問題というか、なんだかフラフラしてしまいます。その〈なんのために生きるか〉という目的、ぼくにはやり遂げたい、やり遂げなければならないミッションというやつがはっきりしていないんでしょうね。でもそれがはっきりしないからといって、見つからないからといって、生きることを諦めるなどということはできないのです。生きることにしがみついているといってもいいかもしれないなと自嘲したりもします。

〈捨てきれない荷物の重さまえうしろ〉 山頭火
〈某とかやいひし世捨人の「この世のほだし持たらぬ身に、ただ、空の名残のみぞ惜しき」と言ひしこそ、まことに、さも覚えぬべけれ〉 兼好法師

生きることへの執着をいかに捨てるかともがき苦しんできた歴史があります。ぼくはこの〈もがき苦しむこと〉を生きる目的にしてもいいのかなと思ったりもしています。安楽死を選択したアスリートのように、人生やり遂げた感に満ちて最後の選択をできる人って、そんなにいないような気がします。みんなもがき苦しんでいる。変な言い方をしますが、だったらもがき苦しみ抜くというのもひとつの生き方かもしれないなと思うのです。

目的の見えない生……。そういう生を生きるものとして、胃瘻を増設することも、気管切開をして人工呼吸器を着けることも、断固支持したいと思います。打ち倒されても、ギリギリで立ち上がりふたたびファイティングポーズをとる。そんな生き方をぼくもしたいと思っています。

どんな姿になっても長生きしますよ、ぼくは。

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