ぼくが生きた痕跡に

目下の必需品。時間が経てば必要なくなると主治医は言うが……

マイクさん

抗がん剤や放射線治療に限らず、副作用というやつは投薬や治療の回数が増え、蓄積が進むと露になってくるようです。これは耐えるしかないですね。しんどいから、煩わしいからといって、やめるわけにはいきません。
ぼくは頻尿、排尿困難、残尿、尿もれがひどくなっています。治療15回目過ぎから尿もれパッドが必要になりましたが、それは備えという感じで、一番小さな20cc(ちょい漏れ用)を使いはじめました。ところが20回をすぎると、いつもれても不思議ではない状態で手放せなくなり、25回を過ぎた今、20ccでは足らず80cc用(中漏れ用)を使い、車で移動したりラジオ番組に出たり行動に融通がきかない場合は履くタイプを使うようになりました。体裁などかまっている場合ではなく、自分にとって何が必要か、しなければならないことをやるには何を選択すべきかを考えて行動しています。

〈気切体験で、一時的にスーパーになる勇気があっても、それは生き続ける覚悟ではないと清水さんに見透かされてしまいました〉

そんな中、ぼくはこの書簡の交換でマイクさんの冷静な思考・行動に驚きをもって接しています。マイクさんからはデータ重視の研究者と感情重視の文学者の違いだと指摘がありましたが、冷静にデータを求め、解析・分析し、行動しようというマイクさんに半ば憧れに近い気分で文章を追いかけています。
だから気管切開をする勇気はあっても、生き続ける覚悟ではないという言葉、実によく分かります。気管切開後の療養生活が具体的にどうなるのか、はっきり見えてこないからですよね。逆に言えばそれが見えて来さえすれば、生き続ける覚悟も十分にできるんだというとても前向きな気持ちだと受け止めました。

〈生き地獄はマイクが耐えればいいのですが、介護地獄は家族の負担です。それは運命とは言え家族の余計な負担になるどころか、やれない無理な大仕事かも知れません〉

やはりここですよね。自分は耐える用意があるけれど、家族にその負担を受け止めてくれとは言えないと。この思いやりはすごいと思いました。
ぼくはここしばらく反省していることがあります。母のことです。年老いた母の排泄について、母の気持ちよりも介護のしやすさとか、効率を中心にして考えていたのです。自分が尿もれパッドや紙オムツを使うようになって、はじめてわかったことです。尿もれで下着やズボンを汚したり、何度も慌ててトイレに駆け込むようなことはなくなりました。でも、いろんな不安が湧きあがります。周囲の人に匂いは気にならないだろうか、そんなのを使っていると知られると嫌がられないだろうか……。並べ上げたらきりがありません。使うことでプラスもマイナスもあるけど、マイナスはプライドとか尊厳(大げさかな)に関わる問題であり、他者から「何も気にすることなんかない」と言われても気休めでしかないなと。
母はもっと大変です。今、ほぼ車椅子で暮らしているので、トイレへの移乗を考えると紙オムツが便利だというのは介護、介助する側の都合なんですよね。幾つになっても女性ですから、母にだって恥じらいはある。自分がこんな状況になったからわかることです。なんと思いやりのない息子かと反省の毎日です。

〈こんな段階でマイクのためにマヤちゃん清水さんが真剣に考えて頂いているのです〉

このことも、気持ちを引き締め直しています。マイクさんがいよいよ大変な状況にさしかかっていくにつれ、自分の言葉の一つひとつが安易になっていないか。ちゃんと裏付けをもった言葉になっているか。そんなことがとても気になります。「生きましょうよ」「生きてください」「頑張りましょう」などという言葉は、ついつい無責任になりがちです。家族ではありませんから、最終的な責任は免れるわけです。でもぼくは、こんなことを言うととてもおこがましいですが、今までもこれからもちゃんと責任を持ってマイクさんに接していきたい、サポートをしていきたいと考えています。
でも決して自分が中心になるということではありません。あくまでも主役はマイクさんとご家族です。まずマイクさんとご家族が話し合って、結論を出すことが大切であることは間違いありません。ぼくたちはその結論を実現できるように、具体的なサポートを考えていきたいと思っています。そのために多くの人の力を集めたいなとも。
どこまでできるか分かりません。でも徹底的に考え、行動したいと思います。おそらくこのことは、後々ぼくが生きた痕跡につながるはずだとも思っています。

愛は生きる姿なのです

参加者全員の合作としてのマイクさんの生前葬ENJOY DEATH

マイクさん

〈結局家内は強かった〉

笑っちゃあいけないとは思いますが、笑っちゃいました。
マヤさんも、ぼくも、その他大勢の人がいろんなことを言い、いろんなアイデアを出し、いろいろ議論を深めても、そこに帰結しちゃうんですね(笑)
でもそれ、マイクさんの奧さんに対する愛なんですよね。何にも増して愛が優先するという感じですね。じゃあ別の解決方法を考えないといけないかなって、ちょっと思っています。

〈ここまで皆さんにマイクのことを考えて貰える幸せを感じます〉

もちろんマイクさんのことを考えてはいるのですが、それはご家族と切り離してマイクさんのことというわけではありません。ご家族と一体となった生活をするマイクさんのことです。だから、何をどう考えても、工夫しても〈結局家内は強かった〉という結論になるとしたら、さて、どうしたものかと思案にくれてしまいますね。

甲谷さんや、先行するスーパーALSの人たちの事例に学んだとしても、それはそれぞれ個別の状況にあるわけですから、そのまま取り入れるられないのは言うまでもありません。ならどうするか……。ENJOY DEATHグループでやっている議論の中に、ご家族、特に奥さんですね、を巻き込めるといいなあと思うのですが、なかなか難しそうだなと思います。ならどうするか……。

なるようにしかならない。できるようにしかできない。ということになってしまうのでしょうねえ。だったら「なる」「できる」範囲をできるだけひろげることを考え、そのために動くことが必要なんでしょうが、そこでやはり〈結局家内は強かった〉となると、もうお手上げって感じですね。このことを無限ループのように繰り返すと、

〈マイクが、また家族が、介護地獄や転院地獄の現実が訪れる事を知りだすと自暴自棄自死願望が湧いて起こったのです〉

という診断確定直後のマイクさんに戻ってしまうのじゃないかと心配です。そんなことにならないようにとマヤさんや大勢のお仲間が「ENJOY DEATH」の企画を立ち上げたり、具体的な支援としての行動ができるように研修を受けたり、資格を取ったりし、ぼくはぼくで精神的なサポートができないかと「往復書簡」をはじめたりしたわけです。で、マイクさんがスーパーALSへの入り口に立とうとしているまさに今、さらに具体的な支援ができないか、できるとしたら「マイクの家構想」はどうかという話になっている現状ですね。でも……。ならどうするか……。

〈スーパーALSを体験できる事を喜びと思う様にすることにしています〉

ぼくは〈体験できる事を喜び〉に思うんじゃなくて、それでも生きている、生き続けられるということを喜びと思って欲しいと考えています。可能な限り生き続けて、その姿でぼくたちに生きるってどういうことかを教えて欲しいと思っています。

愛の力が、マイクさんをよりよく生きることに向かわせてくれるよう祈っています。愛することは生きることだと思うから。マイクさん、愛しましょう。そして生きましょう。愛は生きる姿なのです。

いろんなことを学びたい

マイクさん

すみません。忙しくてなかなか返事を書くことができませんでした。
ぼくの放射線治療は21回を終えました。あと16回です。放射線科の主治医は副作用を心配しているようで、顔を見るたびに体調に変化はないか、倦怠感はないかなどとたずねてくれます。抗がん剤で激しい副作用を経験したぼくは、今回もとても不安でした。がそれほどではなさそうです。

倦怠感はありませんが、ずいぶん睡眠時間が長くなったので、ひょっとするとだるさくらいはあるのかもしれませんが、自覚はありません。ただ頻尿の残尿というのに悩まされています。頻尿なんだけど、全部出切らないんです。終わったと思っても、ちょこっと残ってそれが漏れ出てくるみたいな……。だから尿もれパッドが必需品になっています。これは前回も書いたかしら……。
ちょっとカッコ悪いなと思ったりしますが、生き続けるためですから、必要なものは必要だと割り切って使っています。でも主治医によると、治療終了後は時間がかかるとしても正常にもとるということですから、一時のことだと思います。

さてマイクさん
今日のマイクさんの書き込みでいろんなことを考えさせてもらいました。まずADLとQOLです。ADLは自分でできることの範囲だととらえればいいのかな。日常の生活動作でできることの範囲。QOLはADLでできないことをカバーした上で、さらに何がしたい、そのためにどのような支援が受けられるかという範囲だととらえればいいでしょうか。

ぼくは思います。ADLとかQOLとか、その正確な意味や実態はさておき、どちらも障害を持った人とか難病の患者にとっての言葉だと思われていないかと。これは健康な人、健常な人にとってもあてはまることではないでしょうか。エイジングがそのものズバリですね。歳を重ねるとできることができなくなる。これはあたりまえのこと。当世の話なら、運転免許証の返納がありますね。ADLでいうと運動能力が車の機能に追いつかない。だけどQOLでいうと車での移動は不可欠だ、みたいな。とするとADLとQOLは裏表の関係にある。いずれにしても、安心して人の手を借りることができたら、ほぼほぼ解決するような気がしますが。
でも人の手を借りるということが難しいんですよね。

ふたつ目に同病ピアから何を学ぶかということです。スーパーALS甲谷さんの暮らしを見学しに行かれるんですね。
ぼくは誤解を恐れずに言うと、マイクさんにとってベストなのは現状の宇多野病院に入院し続けることが、いちばん安心で快適なんだろうなと思います。しかし退院、在宅療養となった時のことを考えると、甲谷さんの暮らしに学ぶべきことは多いように思います。

甲谷さんの暮らしが、在宅療養のある一定の到達点だとすれば、どうすればそこまで到達できるか。何を解決しなければならないのかを、きちっと学ぶことが大切だと思います。たとえば気管切開後、24時間どんなケアが必要なのか。そのためにはどれほどの人員が必要なのか。公的介護を使うとしても、どれくらいの経費が必要なのか。それで主介護者たる家族の負担はどれほど軽減されるのか。そんなことをつぶさに見てきてほしいと思います。できればマイクさんの主介護者になるご家族も一緒に。

早すぎることなんてないと思います。だって、そうなること、それが必要になることは、マイクさんがALSだという診断が確定した時からわかっていたことですから。それだって支えてくれる人がいる限りちゃんと生きていけるということを、甲谷さんは教えてくれるはずです。そうして学んだことを、後に続く人たちに伝えてください。病気は違えどもぼくもその一人です。マイクさんの生き方にいろんなことを学びたいと思っているのです。

1日でも長生きしたいなあ

マイクさん

〈胃瘻造設でスッカリ痩せて筋力が落ちたのか、加速度的に弱っています〉

進行が思った以上に速いようで心配しています。ぼくがそうなのに、マイクさんご自身はもっと不安だろうなあと。どういうふうに声をかけていいかよくわかりません。ただ、まだまだ頑張ってほしいと思うばかりです。

ぼくはといえば13回まで治療を終えました。あと24回です。倦怠感とか体の不調とかといった副作用の自覚症状はありません。というか、自分では気づいてないだけかもしれませんが。強いて言えば排尿と排便が少々煩わしい状態になりつつあります。出が悪くなり、しかもどちらもいきたくなると我慢がきかなくなるという、少々困った感じですね。

車や電車で移動するときには、尿もれパッドが必要になっています(笑 こっちの方は、ぼくも加速度的に弱っているかもですね。ぼくの弱り方は少々滑稽だなと思いますが、それはぼくの性格にもよるのでしょうね。同じようなことで、深刻に悩んでいる人も少なくないですから。ぼくは自らのために尿もれパッドの換えと専用のゴミ袋を持ち歩くようになりました。

〈それに最近は殆ど意思疎通ができない状況を次々体験するばかりの日々です〉

なんだかマイクさんのいう〈生き地獄〉が徐々にはじまっているようですね。でもね、ぼくもそんな感じです。ぼくは〈がん〉という厄介者に魅入られたのかもしれません。いまは2つ目の〈がん〉と向き合っていますが、これが2つで終わるのかどうかちょっと不安です。でも、母も生涯(まだ元気で生きておりますが)で6つの〈がん〉と向き合ってきました。そのDNAを考えると、ぼくもそうなるのかなあと。

でも、落ち込んだり悲観したりとかはありません。〈がん〉も2つ目ともなると、そんなに動転も、右往左往もしないものです。腹がすわってきたというか。どうにかなるというか。どうにでもなれというか。そんな感じです。

〈ところでパーキンソンの話し易くする薬の効き目があれば 気切を急がなくなるかも知れませんが。もう少し喋れたらです〉

〈がん〉の治療法でもそうですが、難病の究明、治療法の開発、薬の開発など、はどんどん進んでいくように思います。それこそ加速度的にね。そこに希望を託すのも悪くないのではないかなと思います。だから1日でも長生きしたいなあと思います。

啓蟄を待つ

マイクさん

マイクさんはどんな「愛」を叫ばれるのでしょう。楽しみです。興味あります。先だって母のインタビューの一部を公開しましたが、やはり「愛」の力はすごい!と思いました。母の生きる力は、父への「愛」が支えているのです。愛する、愛されるというのは、とても大切なことだと思いました。だからマイクさんの「愛」にもとても興味があります。

〈世間には殺人を否定しても、価値で差別することに共感する者が多いのです〉

確かにぼくもそう思います。殺人は否定しながらも、重度の障害者や難病患者、高齢者の〈生産性〉を否定し、その上で安楽死を認めようというのです。係数としての〈生産性〉しか認められないのでしょうねえ。そういう人たちは、自らは死ぬ直前まで〈生産性〉を維持し、高め、係数で社会に貢献できると思っているのでしょうかねえ。

自分自身の〈生産性〉が否定されたとき、潔く安楽死を選択できるのでしょうかねえ。麻生さんに聞いてみたいですね。あなたが認知症になったり、その他の難病や病気でベッドに縛り付けられた状況になったら、自分をどう処しますか?と。
ああ、そうか、これは無駄な考察でした。彼らはうなるほどお金を持っているわけですから、お金をたっぷり使って介護を受けること自体が〈生産性〉を高めるわけですね。明らかなことでした。

〈法廷ではその様な差別を否定する哲学で無念を晴らして欲しいのです〉

ぼくもそう思います。〈生産性〉ではない、命そのものの価値、生きるという意味、価値を、追究して欲しいと。そうでなければ、あの事件で無残にも奪われた命を、犠牲者の命の価値を本当の意味で切り捨てることになるのではないかと思います。奪われた命の価値を取り戻すことこそ、この法廷に課せられた使命だと思います。

ぼくの闘病ですが、実はぼく自身闘っているという実感はないのです。治療に身を委ねている。そうとしか言えません。確かに少々ではありますが、身体に異変、変化が現れはじめているようです。だからと言って、何をどうするということもありません。どうにもならないものなら、耐えるしかないな……。その程度です。だから、

〈どんな闘病かは今まだ分かりませんが、そう心配せずその時その時を粉すことを・・・・〉

というマイクさんの言葉通りの状態になっているのです。ただ厄介なのは、気のせいか身体がだるくって、なんだかやる気が出ない感じがします。まあ、やる気はいつもてげてげ(鹿児島弁でちょうどいい感じ、かな)ですから、取り立てて言うことでもありませんが。だからやる気が出ないというのはぼくも同じです。

〈清水&マイクの部屋構想立ち上げや、友の会ピアネットの種撒きらしきことも出来ていません〉

これは焚きつけたぼくにも責任の一端があります。マイクさんだけじゃなくて、周囲のぼくらが、支えると言ったぼくらが、いえ、ぼくが、もっとちゃんと動かないとって思っています。3月まで待ってください。ぼくの治療が終わったら動きたいと思います。今はウゴウゴといろんなことを考え、動けずに悶々としています。まるで啓蟄を待つ土の中の虫みたいなもんです。春になれば一気に、元気よく動き出しましょう。
そのための闘病だと思って耐えていきたいと思います。

現実を紡いで生きる

マイクさん

おはようございます。
前回返信の続きのような話から。命の価値の話ですね。
写真はとある社会福祉法人の広報紙を送る際の帯封です。母の写真と手書きの言葉が入っています。そこにはこう書かれています。

外に出る事ができるうれしさ
1人ぽっちでも みんなと溶けあえるから 淋しさはうすれる
毎朝大きい声で「おはようございます」の交かんは
元気100倍になります
今日もよろしくね

そうしてこれをぼくに見せながら、母はこう言って笑いました。
「いくつになってもどんなになっても活躍する場はあるんや」
94歳という高齢で鹿児島に移って2年半、ぼくは母がちゃんと自分の居場所、生き方を見つけてくれたような気がして、とてもうれしく思いました。それだけではありません。必要とされている自分、だからこそ愛されているという自分、そういう自分が96歳になってなおも生きていくという意味、価値をちゃんと知っているということ、それが他者に対する大きな愛になっていると、強く感じることができました。命の価値ってこういうもんじゃないかなあと。

生産性の問題でいうと、果たしてどれだけのものがあるのかはわかりませんが、少なくともこの帯封で届けられた広報紙は、読んでみようかなと思わせるだけの力は持っていると思います。生産性とは係数で測らないとダメだと言われるとそれまでですが、それこそがあの殺人鬼のトリアージュの理屈を支えているものじゃないでしょうか。

〈夢も愛も欠けた現実思考だからなのでしょう〉

マイクさん
マイクさんは少なくとも大勢の人に愛されていますよ。2度の「ENJOY DEATH」がそれを物語っているし、象徴していると思います。サポートしているまやさんたちKDEの皆さんは、「マイクさんを最後までダンサーとして」って一緒に夢を描いてくれているのではないでしょうか。それに実際の療養生活の面でも何とかサポートしたいと考えているはずです。これがマイクさんの現実だと思います。夢も愛もあるじゃないですか。ぼくはとっても羨ましいです。

〈マイクが自身の価値を知り得るものなら知り、自分の価値を実感・納得して生きたいと思うからです。その為には先達の一般的な基準があれば参考に出来ないかと〉

マイクさんの命の価値は、マイクさんが思っている以上にすごいものがあるんじゃないでしょうか。〈先達の一般的な基準〉なんてとうに上回っていると思います。マイクさん自身が新しい基準になるのだと思います。マイクさんがよく言う〈Super ALS〉ですよ。

〈本当言うて知らんけど・・・〉

これ、ぼくも同じ気分です。これから先ぼくの体内のがん細胞がどんなふうになっていくのか、ぼくにはわかりません。不安でいっぱいです。
マイクさんも、胃ろう造設後の暮らし方、気管切開と、これからたくさんの困難が待ち受けていると思います。だから頑張りましょうなどと言うのが、マイクさん、いや当事者である患者本人や家族にとってどれだけ無責任かということはわかっているつもりです。でもその上でなおかつぼくは言いたいと思います。
みんなで、現実を一つひとつ紡いでいきましょう。そうすることでぼく自身の、マイクさんの人生を最後まで織り上げて生きましょうよ。そうすることではじめて命の価値って、生きてきた意味ってわかるんじゃないでしょうか。

マイクさん
マイクさんは決してひとりじゃありません。たくさんの仲間が、マイクさんをひとりにしないと、させないと思っています。

命の価値に一般論なんていらない

マイクさん

怒涛の3連投ですね。まず、参りましたと。どこからその元気、出てくるんでしょうねえ。ここらあたりで返信しておかないと、大変なことになりそうなので。で、今回は「命の価値」と「トリアージュ」について考えてみました。

1点目。

〈清水さんは、マイクがカール・ベッカーと麻生財務大臣に刺激されて命の価値を知りたがるマイクを懸念されていることは分かっていています〉

ぼくが何を懸念しているかを、もう少しはっきりさせておきたいと思います。ぼくは命の価値を知ろうとすること自体、悪いことだとは思っていません。自分の命の価値をちゃんと知ることは大切なことだと。じゃあ何に懸念しているかというと、他人の命の価値をどうのこうのと評価することです。カール・ベッカーも麻生某もそこが問題だと思っているのです。

自分の命の価値を考えることは、あるいは自分の命、人生とは一体何なのかを考えることこそが哲学だと思います。「いやあ、普遍的に物事を考えるには、人間一般の命にの価値を考えることこそが大切でしょう」と、〈私は世間を知っています〉という物知り顔をした人ならいいそうです。でも本当にそうなのでしょうか。

ぼくは思います。大切なことは一般論では何の答えも出ないと。自分の問題として、個別の問題として徹底的に考える。そこに普遍性が見えてくるのではないでしょうか。自分の命の価値を徹底的に考えることが、命というものの本質に近づくことだと。だから自分の命のことを考えるべきです。他人の命の価値なんてどうでもいいじゃないですか。それに一番厄介なのは〈コミュニティマインド〉ってやつですよ。これって直訳したら〈世間〉とか〈世情〉になるんでしょうね。

2点目ですが、ここから〈トリアージュ〉などという考えが出てくるんでしょうね。例えば震災時の限られた施設、人員、医薬品で、怪我をした人をその程度に応じて、すべての人の命を救うことを前提にどう治療していくかを考えた場合。例えば限られた予算でどこに手厚く福祉の手を差し伸べるか。最大多数の幸せを実現するかを考えるときなど、選別ではなくて優先する思想、基準というのは必要だと思います。

でもこれは切り捨てるということではありませんよね。誰にだって生きる権利は保証されているのです。〈あいつら生かしといても生産することなんかないのに、だったらあいつらに無駄な金を使うなら、こっちに回せ〉って、トリアージュでも何でもない。優勢なものをもっと優勢にって、そういう背景に〈コミュニティマインド〉があるのだとしたら、そんな世間は腐っていると思います。ここで注意していただきたいのは、ぼくが〈社会〉ではなく〈世間〉という言葉を使っていることです。このことに対してはまた。

だから、繰り返しますが、自分の命の価値をちゃんと知ることは大切なことだけど、他人の命の価値をどうのこうのと評価するなんて余計なお世話です。そのことだけ明らかにしておきたいと思いました。

命の価値に一般論なんていらないのです。

てげてげに楽しみましょう!

マイクさん

お孫さんの晴れ着姿、いかがでしたか? 目を細めていらっしゃるマイクさんの表情が浮かびます。そうして思いました。人生どんな困難に見舞われても、何がしかの楽しみ、幸せは必ずあると。

考えてみれば、今のぼくにとってそんなものがあるだろうか……。そんなふうに思ってしまうと、あらら、全くないやと思わざるを得ませんが、実はその逆で生きているということ自体がうれしくて、楽しい、幸せなことなんだと思いました。気づくのが少々遅いかもしれませんが。

〈ALSには頑張り過ぎ禁物ですがエンジョイの為なら頑張ります〉

これはすべての人にあてはまることではないでしょうか。みんな頑張り過ぎてないかって。頑張りに見合うだけのエンジョイはあるのだろうかって。
鹿児島にはとってもいい言葉があって、「てげてげ」っていうんですけど、意味としては「だいたい」「適当」「ええかげん」みたいな感じです。一見マイナスなイメージがありますが「ちょうどいい頃合いに」「ほどほどでいい」という、プラス思考で使うことが多いかな(よそ者ですので、そこんとこはよくわかりませんが)。

〈頑張らねばと思っても気力をキープ出来るか自信が萎みそう〉

だから、そこ、てげてげでまいりましょう。
ぼくは今日から放射線治療が始まります。1日のうち、ほんの2時間ばかり割かれるだけです。でも、それがほぼ1日のど真ん中の時間帯で、動きを大きく制限されます。さらにどんな副作用、影響があるのかもさっぱり見当がつきません。それをこれから7週間あまり毎日続けることになります。副作用で倦怠感が出る前に、面倒臭くて怠くなりそうです(笑)。まさに〈頑張らねばと思っても気力をキープ出来るか自信が萎みそう〉です。

でも問題はここからですね。ぼくの場合は頑張り甲斐があります。頑張ればなんとかなるという希望があります。そういうぼくがマイクさんのことを思うと、とても切なくつらい気持ちになります。なんだかよくわからないけど、申し訳ないなあという気分にさへなります。だからいうべき言葉を見失ってしまうのです。

ああ、何を言ってるんだろ、ぼくは。
ここはもっとマイクさんを励まさなきゃいけないとこなのに。何も言えない、何もできないかもしれない。でもぼくは、ちゃんと見たいと思っています。マイクさんのこれからの事実を、これからのすべてを、たとえ離れていようと、ちゃんと見続けていきたいと思っています。

だから共にあると思ってください。病と共に闘おうなどとは言いません。ただ共にあるだけでいいです。言葉を交わし、前向きにも後ろ向きにも、思いを通わせ、思いだけでもただ共にある。それだけでも続けていきたいと思います。

ぼくだけじゃないと思います。マイクさんと共にありたいと思う人は、ご家族だけじゃなく大勢いるんじゃないかな。ご家族はもちろん、そういう人たちと思いを共有するためにも、ここにありのままの思いをぶつけてください。
〈自信が萎みそう〉
〈気力も落ちて往復書簡の話題も思いつきません〉
辛いけど、そういうありのままの思いを、これからはもっと聞かせて欲しいと思いました。

いいことも悪いことも、楽しいことも苦しいことも、言葉にして思いを伝えて、頑張り過ぎずに、共に生きましょう。てげてげに楽しみましょう!てげてげに!

勇気付けられているぼくです

マイクさんの「チョロ毛トートバック」

マイクさん

お孫さんの成人式、着物姿、楽しみですね。
ぼくは自分の娘の着物姿を見たことがないので(2人もいるのに!!)、とっても羨ましいです。

ところで、マイクさんの「チョロ毛トートバック」、鹿児島でも人気です。今度みんなであれをぶら下げて天文館を練り歩くという企画を立てています。きっと注目を集めることでしょう。イラストのマイクさんだけではなく、実物のマイクさんにも鹿児島に来て欲しいと思っています。「ENJOY DEATH in KAGOSHIMA」ですね。KDEの皆さんとも相談してみようと思います。

〈頑張れる病気と頑張ってもどうにもならない病気があるのです〉

マイクさんのこのひと言にハッとしました。頑張らないといけないのはぼくの方でした。なのに頑張りましょうなんて、余計なことでした。なのにぼくはボヤキばっかりで、ちょっと恥ずかしくなりました。少なくともぼくの病気は治る可能性がある。ぼくこそ頑張らないとって、思い直しているところです。

その上でぼくも、病気そのものでなく、病を抱えていて充実した生活が可能だし、そのために、そこを目指して頑張らないとと思います。でもこれはマイクさんの病気でも同じでしょう。病気自体は頑張ってもどうにもならないかもしれないけど、暮らし自体を豊かにすることはできる。そのためにはどんなサポートが必要で、それを得るためにはどうしたらいいか。

そこは大勢の知恵で、大勢の人と一緒に頑張ることで解決できるような気がしますし、ぼくも、鹿児島のみんなもできる限りのことをしようと思っています。もちろんこれはマイクさんのためにですが、いつかきっと自分のためにもなるはずだととも。

〈なる様になれで次のステージを済ませたくないのです〉

やはりマイクさんは強いなあ、冷静だなあとあらためて思いました。ぼくなど〈頑張ってもどうにもならない病気〉だと告知された瞬間に逃げ出すだろうな。マイクさんはよく「闘病ならぬ逃病」という言葉を言われますが、結局マイクさんは踏みとどまって闘わないまでも向き合おうとされていると強く思いました。研究者ゆえの冷静さなのでしょうか。憧れさへ感じてしまいます。その姿に勇気付けられているぼくです。

マイクさんのことを思うと、へこたれてなんかいられない。がんという病と、治療と、ちゃんと向き合わないといけない。と、強く感じた朝でした。

あえて言います。頑張りましょう!

マイクさん

いきなりですが、頑張ってください! いえ、頑張りましょう!
ぼくはこの「頑張る」という言葉があまり好きではありません。特に人に向けては、あまり使わないようにしています。「頑張って」と言ったとき、その人はすでに十分すぎるくらい頑張っているに違いないですから。でもあえて、今日はマイクさんに「頑張って」と言いたいのです。

ただしこれは、何が何でも頑張れってことではなくて、軽く背中を押す程度のことだと思ってください。もうすでに頑張ってこられたマイクさんに、これ以上頑張れというのは見ている人間のわがままだとさへ思いますから。

〈これからの生き地獄への時間軸を感ずるようになった〉

この一言は、ぼくにとって衝撃以外のなにものでもありませんでした。現実と向き合って、ALSの事実を後に続く患者や家族、さらには社会に発信していくことこそが、ALS患者としての社会的役割だなどと言い続けてきましたが、マイクさんのこの一言で、全てが凍りついてしまいました。ぼくの言葉のいかに軽かったか、いかに虚しかったかということに。

しかしマイクさんはその「生き地獄」に対しては「全て覚悟済み」だと。そういうマイクさんに対して、ここ2日の投稿を読んで「頑張って」という言葉しか持ち合わせていない自分自身の浅はかさ、いい加減さを嫌というほど感じています。ぼくも、ひょっとするといつか余命宣告を受けるかもしれません。そのときの覚悟はできているはずなのですが……。

昨日も放射線治療のための位置決めをするためのCTを撮り、マーキングをしただけなのに、いろんなことを妄想して疲れ果ててしまいました。情けないです。とてもじゃないですが全て覚悟済みだなどとは言えません。

「マイクさんは、強いなあ」

これがぼくの素直な思いです。ぼくも強くなりたいなあ、と。

〈ボヤキにはマイクの現実に見つけた非合理や矛盾が煮えたぐっていて、妄想に繋がるのです。マイクはその妄想を精度の高い未来像に発展させたいと思っていますが、実際には無力なマイクでは願望で終わるのが現実です〉

ぼくのボヤキには泣き言しかありません。自分を悲嘆し、こんなはずじゃなかったと。ぼくのボヤキの中には社会の非合理や矛盾の投影など微塵もないような気がします。弱虫の自己中です。だからこそ、マイクさんのお手伝いがしたいと改めて思いました。ぼくの中にはない非合理や矛盾、マイクさんが感じている非合理や矛盾を、社会に発信し、大勢の人と一緒に知恵を働かせ、精度の高い未来像に発展させるお手伝いを。

マイクさんが言うように、人は誰しもひとりでは無力です。でも、ひとりの小さな思い、声を繋いでいけば、共感がひろがれば大きな声になり、大きな動きになるのだと思います。そうすることで精度の高い未来像が生み出せるのではないかと。ぼくらの時代でなくてもいいです。もっと先になってもいい。その未来像が実現できるそのために、ぼくはマイクさんの見つけた非合理や矛盾を大切にしていきたいと思います。

だからずっとボヤキ続けてください。煮えたぎらせてください。
そうしてぼくは、自分自身にも、マイクさんにも、軽く背中を押すくらいの気持ちで言います。

頑張りましょう!